三の二
平岡三七郎から呼び出されて、乃里が彼の部屋へ行くと、おなじく呼び寄せられた丸山小兵衛が、軽く会釈して出迎えた。小兵衛は着流し姿で折り目正しく座ってはいたのだが、むっつりとして愛想なさげで、町奉行所与力というにはいささか偏屈な印象の青年であった。
「何をしている」
廊下の襖際にすわった乃里に三七郎が言った。
「そんなところになんぞ座ってないで入ってきたらどうだ」
きちんとした小兵衛とは反対に、三七郎は片膝立てて、まだ日の高いうちから酒を注いだ湯呑を片手でもてあそんでいる。
「そういうわけには参りません。殿方のお部屋に女がひとり入れるわけがありませんでしょう」
「まったく人妻みたいなことを言いやがる。昔は入ってきた。世間の目など意にも介さず、なんの躊躇も恥じるところもなくな」
「げんに人妻なのですから。あのころとはちがいます」
舌打ちをして、勝手にしろと突き放つように言った三七郎を無視して、乃里は小兵衛に顔を向けた。
「お若いのに町奉行所の与力とは、ご立派でいらっしゃいますね」
そう褒めた乃里に、小兵衛は、
「なに、例繰方なんていうのは、吟味方の下僕みたいなもんです。いつも書庫にこもっている、かびくさい役ですよ」
そう言って耳を指で掻いている。
「ただの助役だしな」三七郎が茶化すように言った。
「うるさい。助役だろうと立派な役目だぞ。なんだ、伝説の紅天狗どのにあわせてくれると聞いて来てみれば、ただ嫌みを聞かされるだけか」
「まあそうすねるな。実はな」
小兵衛は三七郎よりひとつ年長であるが、平生から遠慮のない口をききあうようだ。小兵衛は三七郎の語る話を、気難しげに眉間に皺をたてて、厚い口をへの字に引き結んで聞いている。
「ああ、その一件なら知っている。最初は町奉行所に届けが来てな、同心が出張って行ったんだが、侍どうしの刃傷沙汰だったんで、目付に回したという経緯だな。こんな田舎町じゃあ、人殺しなんてめったにないからな、書庫でくすぶっている俺の耳にまで届いたわけだ」
「なら話は早い。その一件には、裏がある」
「なんだ、面白い話なんだろうな」
細い目に、興味深げな色をたたえて、小兵衛はにっとして言った。そうして笑うと無粋な顔が、少年のようにあいらしくみえる。
そこからは話を受けて、乃里があらましを語った。
「なに、利根家老の娘ねえ」そう言って小兵衛は天井のかどを見つめてちょっと思案する様子であった。
「やはり、むずかしいでしょうか」
「いえ、そうではありません。いえ、むずかしいことはむずかしいのですが、利根家老といえば、先ごろ目付に目を付けられていたのをごぞんじですか」
小兵衛の冗談めいた問いかけに、三七郎と乃里は同時にかぶりをふった。
「御用商の富田屋と癒着があったとかそんな話で、しばらく屋敷を
「それとこれと何か関係がありそうか」
「いや、ただの世間話だ」
「ちっ、まぎらわしい」
「まあいいじゃないか。そうだ、坂井という町廻り同心を当たってみよう。坂井はとんだ怠け者でな。いつも書庫で調べものをしているふりをして、油を売っている。そこをつついて手伝わせよう」
そうして、三七郎から報せがあったのはひと月近くも経って、年をまたいでからであった。道場のまだ歳若い門人を使いによこして、とにかくすぐに来いという。
もう日が暮れていたし、広之進はまだ下城していなかったが、
――笠原道場の師が病で倒れられたということで、見舞いがてらひとおりのお世話をしてくる。
と、義母の妙に嘘をついて家を抜けてきた。
妙は信用したのかその反対か、女中のお滝を供につけられた。
強いて断る理由もみつからず、乃里は道々、お滝にすべての真実を語った。
お滝は納得してくれた。
我が子のような愛情を抱いていた松之介の自害に、お滝も疑いを持っていたらしい。
「大奥様には、私がうまく取りつくろっておきます。若奥様は、どうぞご存分になさってください」
そんなことを言ってくれた。
乃里は安堵して、ほっと息をついた。野上の家に秘事を共有する味方ができたというのは、なんとも心丈夫なものであった。
道場に着くと、三七郎が待ちかねるようすで、庭でなにか町人風の男と話をしていた。提灯を片手にしたその中年男は腰に十手を差しているので、どうやら御用聞き(目明かし)のようだとわかった。
「おい、支度をしろ」
乃里の顔を見るなり三七郎がいらいらと命じた。
「例の女が出かけた。どうやら男と密会するようだ」
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