三の一
「どうした紅天狗」
平岡三七郎の容赦のない一撃が面を襲った。
乃里は袋竹刀の痛撃を脳天にくらい、激痛が頭のさきから足の裏に走り抜けていった。まるで雷に打たれたかと思うほどの痛みであった。
「どうした紅天狗」
もう一度三七郎が言った。叱咤と軽侮をにじませた言いようだった。
「贅肉がずいぶんついたんじゃないか。動きがまるで素人だぞ」
正眼の構えから、袋竹刀の切っ先が上段に動きかけたと見えたら、ふいにさがり、乃里の膝を打った。
「ずいぶん卑怯な手を使うようになりましたね」
「ふん、お前に鍛えられたからな」
乃里と三七郎は笠原道場の同期で、歳は彼のほうがみっつ上であった。今では三七郎は笠原道場の師範代を勤めている。
三七郎の竹刀が乃里の肩を打った。さっきからいいように打たれ続けていた。まるで歯が立たない、という印象である。
これほど体がなまっているとは思わなかった、と乃里はいささか悔いる気持ちであった。
実家の石川家に行って、納戸の奥にしまい込まれていた稽古着を、いぶかしむ母の視線をふりはらいながら持ち出したものを着て、髪もといて後ろでたばねている。容姿だけは数年前とまったく同じなのに、体はまったく以前ほど動かなかった。なにか鉄の糸で編んだ着物でも着ているように体が重く、三七郎の攻撃を、避けようにも受けようにも、どうにも四肢が動かない。
「嫁に入って紅天狗も地に落ちたな」
四角い頬骨のはった顔の切れ長の目に、見下すような色が浮いた。引き締まった筋肉を持ち、バネのようにしなって、三七郎の体が跳ねた。
と気づいた時には、また額を打たれていた。
笠原道場の隅には、門人数人が、好奇心に満ちた目をふたりにそそいでいた。
春原藩内で、五指に入る三七郎と、彼と数年前まで腕を競い合っていた紅天狗乃里との稽古は、彼らの興味をそそらぬわけもなかった。
乃里には、彼らのその視線がまるで針のように頬に刺さるように感じられた。
「まったくまいりました」
常着に着替え、髪を簡単に整えた乃里は、三七郎が住む部屋の縁側に腰をおろして、もろ肌を脱いで汗を拭く彼に言った。くやしそうに口を引き結ぶと、両頬にえくぼがよった。
彼は普請組を勤める家の三男坊であったが、今ではもう道場に住み込んでいて、数年後には、おそらく道場を継ぐことになるであろう。
「お前、素振りもしていないだろう。お転婆娘も、妻になってしまえばただの女だな」
「面目しだいもないことで」
言葉どおりに面目なさげな顔をして乃里は返した。
それからふたりは近況を報告しあった。乃里は野上家の話をし、三七郎は、師匠である笠原太右衛門は、最近は剣術よりも、近所の隠居老人たちと囲碁を打つほうに興味が流れてしまっている。そんな話をした。
「実は、頼みがあってまいりました」
話がひと区切りついた頃合いを見はからって、乃里が切り出した。
道着に袖をとおして、乃里の横に座って、三七郎は白湯をすすった。そら来たな、という顔である。
「まる四年も音沙汰やみで、久しぶりに顔をみせて稽古をつけてくれなんて言ってきたと思ったら、やっぱり魂胆があったな」
「魂胆だなんて、人聞きの悪い」
実は、と乃里は松之介の腹を切るに至った顛末を話した。
「知ってどうする」三七郎はにべもない調子で言った。「その利根家老の娘と島崎という男の関係と、松之介どのが島崎を斬らねばならなくなったわけを知って、お前はどうするというんだ」
「わかりません。そのときになってみなくては」
三七郎はあきれたように吐息をもらした。
「かつての颯爽としていた紅天狗はもうどこかに行ったようだ。以前のお前なら、道端で待ち受けて、保江という女に食ってかかっただろう」
「もう子供ではないのです。そんなことができようはずもないじゃありませんか」
「連れ合いにたのめ」
「そうはいきません」
相手は家老家なのです、と乃里は続けた。一手でも打つ手を間違えれば、私ひとりの問題ではすまなくなる。それでもし野上に類がおよんでも、自分の独断だったのなら、離縁されればすむ話だ。しかし夫が関与していたらそうはいかなくなる。
「俺ならいいのか」
「あなたはいまだに独り身でしょう」
「独り身だからって」
と三七郎は声をつまらせた。怒りで声がでないというより、あきれて物が言えないという様子である。そうして、そんな馬鹿な、夫がいけなくって俺ならいいなどと、そんな馬鹿なことがあってたまるか、と吐きすてるようにつぶやいて、しかし口もとはなにか新しい遊びを発見した子供ように、楽しげな笑みがあった。
「まあいいさ。俺もそういう下世話な話は嫌いじゃないしな。家老家の醜聞、面白いじゃないか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます