二の四
松之介の日記には、家族のことについて書かれたものが多く、それはおそらく彼の過ごしてきた時間がおおよそ家族とともにあったということだろうし、また彼がそれだけ家族を愛していたあかしなのだろう。
家族以外では、利根修次郎とその妻の保江について多く触れられている。
しかしそれは家族に対する愛情に満ちた文章とは違い、乃里の胸を、刃物でえぐるような哀切を感じさせるものがほとんどであった。
利根修次郎は婿入り前は田畑と言って、野上と同じ大番衆に属する家の次男であった。松之介とは同じ歳で子供の頃はよく遊んでいたようだ。だが、目から鼻へ抜けるような性質の修次郎と、のんびりした松之介とは当然というべきか、しだいに関係にへだたりができてきたようだった。
ふたりにはだんだん上下関係のようなものができてきて、元服するくらいの歳になると友達というよりも主従のような間柄になってしまっていた。
松之介が、遊んでいるときや道場での稽古のときなどに、なにか意見を口にすると、
――お前が口をはさむな。
とか、
――偉そうに物を言うんじゃない。
などと修次郎に怒られた、ということも日記には書いてあった。
そういうときは、松之介は言い返すこともできずただうなだれるだけだった。
そんな事柄を記した箇所の文字は一画一画太く、墨は濃く、小刻みに震えていて、まるで松之介の無念がそのまま文字に乗り移っているようであった。たとえぱらぱらと丁をめくっていても、その部分は墨痕黒々として目に飛び込んで来て、自然とめくる指をとめて読み入ってしまうのだ。
一方で、
――修次郎は頭がよいのだから、わたしのようなぐどんなものが従うのはしかたがない。
と自分に言いきかせるような文言も書かれている。
そういうふたりの隔たりが決定的になった事件が、松之介が十七の歳にあった。
その日、松之介と修次郎は、
丸衣川は城下町の南を東西に流れる川で、幅はさして広くもなく底も浅いが、川を境にして城下町が途切れ、南には田畑が広がっている。言ってみれば、春原城の外堀の役目を担っている川であった。
ふたりは、堤のうえの道で、むこうから歩いてくる保江を見かけた。
保江は家老職を歴任する利根家のひとり娘であった。
松之介は、幼少の頃、花見にでかけたときに偶然保江を見かけ、桜のように
ふたりと、保江の距離が十間ほどに近づいたときであった。保江の横合いの草むらから突然野犬が飛びだして、けたたましく吠え出した。牙をむき、気が違ったように吠えている。
突然のできごとで、保江はあとじさった拍子に足がもつれ、土手を川のほうへ転がり落ちた。それを追って侍女が駆け出すのへ、獲物を追うように犬も走り出した。
意外にも、さきに飛びだしたのは松之介であった。
好いた女子のために懸命だったのだろう。無心のうちに体が反応したのに違いない。
彼は犬へ走り寄ると、鞘ごと抜いた刀で犬を叩き、追い払った。
完全に腰が引けていた修次郎であったが、松之介の行動で我に返ったようだ。彼は土手を駆けおりて保江のもとへ駆け寄って、彼女を助け起こした。
――まあ、あなたが助けてくれましたの?
――なに、狂犬の一匹や二匹、恐れるものではございません。
抱き合うような姿勢でふたりがそんなやりとりをかわしていたのを、土手の向こう側まで犬を追って戻ってきた松之介は茫然と眺めていたという。
その時の、松之介のくやしさが乃里に伝わってくるようであった。彼はおそらく胸が締め付けられるような思いでその光景を見たに違いない。心の内で嗟嘆しながら、刀の鞘を力いっぱい握りしめていたであろう、とまるで握りしめる手の痛みすら乃里には実感できるようであった。
日記の最後の頁にはこう書かれている。
あの人が幸せなら、わたしはどうなってもかまわない。どうせ他人から蔑まれてきた人生だ。この先だってかわりはしない。だったら最期に、あの人のためになることをしよう。
けっして気負った感じはなく、どこか肩の力が抜けたような、落ちついた筆づかいであった。
――あの人。
乃里は心の中でつぶやいた。
ここで言う、あの人というのが、乃里にはどうも利根保江であるように思えた。
であるならば、松之介は保江のために、島崎を斬ったということだ。たんなる喧嘩口論の末の刃傷沙汰だったのではなく。
――いったいどんな思いで、彼は人を斬ったのだろう。
幸せとはまったく縁遠い人生のなかで、唯一すがるようにして想いを寄せた女性のために命を投げ出すというのは、いったいどんな心境の末の行動だったのだろう。
そうして、彼をそれほどまでに突き動かした原因とはなんなのか。保江に何が起きたのか。保江と島崎はどんな関係であったのか。
思いめぐらせてみたところで、皆目見当はつかない。しかも相手は家老の娘である。いきなり屋敷を訪ねて、おふたりの関係はどんなものですか、と聞けるものでもない。
乃里の心にはいつか、
――どうしてもこれを突きとめなくては。
という執念に似た感情が湧き始めていた。そうしなければ、松之介の霊魂がいつまでも未練を残して、冥土へと旅立てないような気持ちになっていたのである。
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