二の三

 こんなことまで、記しているのか、と乃里はなかば呆れ、なかば恥じる気持ちがする。

 記されていたのは、つい最近の出来事であった。

 先年亡くなった広之進の父の、三回忌の法要の段取りを夫婦ふたりで取り決めている時だった。どこまでの親族を呼ぶかとか、食事の支度をどうするかとか、そんなたわいない事柄で口論に発展していた。

「あなたはあの時、私を紅天狗べにてんぐとおっしゃいました。熊みたいな女だと思っていたとおっしゃいました。あなたはずっとそうなのです。世間の風聞に惑わされて、ご自分の考えがふらふらと揺れてさだまることがないのです」

 居間の畳を叩きながら、乃里は決めつけるように言った。

 夫婦ふたりの間には、三年の間刺さったまま抜けずにいる小さな棘があった。

 ――紅天狗なんて風聞だったものだから、どんな熊みたいな女が来るのかおっかなびっくりだったが、まさかこんなちんちくりんだとはな。

 祝言が終わって床杯とこさかずきも交わして、床のうえで塑像のようにかたまっていたところに広之進がそんなふうに言ったのを、乃里は今でも根に持っている。これが、ごくまれに顔を出し、夫婦喧嘩に拍車をかける動力になるのである。

「またそれを言う。たかが法事の仕出しひとつではないか。こじつけだ。たった一度の失言を根に持って、いつまでもぐちぐちと」

「先祖代々ずっと法事の時には、家でこしらえた料理を出してきたというではありませんか。それを、内田さんや岡野さんでは仕出しにかえたと聞いて、すぐに考えが流されたのでしょう」

「失礼なことを言うな。私はなにも世間がどうなど考えてはいない。ただお前や母上が手間だろうと思っただけだ。法事なんてものは、下ごしらえやら、当日の接待や給仕なんかで目の回る忙しさになるぞ」

「なんですか、親戚の五人や十人」

「馬鹿、親父の葬儀の時を忘れたのか。本家筋だけでなく、勝村も坂上も来るとなれば、ざっと見積もっても三十人は集まるぞ。うちの親戚の多さを軽く見てるだろう。いや、四十九日の時に体験したはずだ。それも忘れたのか」

「に、人数だけの問題ではございません。いえ、人数が多いからこそ、仕出しをたのめばどれほどの金高になるか、見当もつかないではないですか。この家にそんな無駄なたくわえはございません」

「苦労をかけるのう、ひらの大番衆にどっしりと腰を落ち着けていて」

「組頭にもなれる家柄ですのに、ご出世できないのは、あなたの軽薄さを上役の方々が見抜いておいでだからでしょう。意外と、温厚な義兄上さまのほうが御出世なさったかもしれませんわね」

「お、大番がどれほど周りに気をつかう職務だと思ってる。あの軸のずれた石臼みたいに気のまわらぬ兄に、そんな器用な世渡りができるものか。だから俺が家を継ぐことになったんだ」

「お義父さまはご立派なお方でしたけど、それだけが唯一の失敗でしたわね」

「俺だけでなく、父も愚弄するか。そこへなおれ、手打ちにしてくれる」

「愚弄なさっておいでなのはどちらですか。出世もできず、お義父さまのご期待を無下になさっているあなたではありませんか。ええ、お手打ちでもなんでもすればよろしい。紅天狗を簡単に手打ちにできるものなら、やってごらんなさい」

 きいと喉の奥でうなって、ふたえの目と細い眉を吊り上げて広之進は振り向いて、ほんとうに刀掛けに手を伸ばした。

 ところで、縁側から、

「乃里さんのだし巻きは絶品だ。田楽の焼き具合もうまい。鮎の塩焼きの塩加減も絶妙だった。俺はだんぜん乃里さんの手料理が食いたいなあ」

 いつのまにか縁側に腰をおろしていた松之介が、庭を眺めながら誰に語るふうでもなく、そう言った。

 乃里も広之進も、ただめにされた魚みたいに口をひらいて、彼の丸い背中を見つめるよりほかになかった。

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