二の二
乃里は、その日も家族の目を忍んで納戸へ足を運んだ。
もうよそう、もうよそう、そう何度も心では思っていた。
死者に対する冒涜ととがめられてもしかたがない行為だとはわかっていたが、それでも乃里の足は向いてしまう。松之介の日記を読み、彼の三十年という短い生涯に触れ、心に刻みつけるのは、彼に対するある種の供養であると思うからだった。
乃里が野上家に嫁いで来たのはちょうど三年前であったが、その頃にはもう、家督はすでに夫である広之進が継いでいた。
しかし、乃里の目には、松之介は穏やかすぎて世渡りに向いていないというだけで、けっして家名を貶めるほどの、魯鈍な人間には見えないのであった。
こういうちょっと鈍重な人は世の中にいくらでもいるのに、と乃里は思う。ひとりっ子であったなら、当主として、鈍いながらもどうにか生きていったであろうに、たまたま下に広之進という、なにかにつけて如才のない弟がいたために押しのけられ、長男であるにもかかわらず冷や飯食いの生活に甘んじて、家族の目から遠慮するように庭の片隅の離れ家で日々をすごしていたのだった。
そういう生活のなかで書かれたからであろうか、二十代のなかばを過ぎた頃からの日記に書いてあるのはほとんどが愚痴のようなものであった。
侍としての道を閉ざされた松之介は、いっとき戯作者を目指したようだが、うまくいかなかったようだ。目指した行程には、人生をあがき、地をはいずるような生活からどうにか抜け出したいという執念のようなものさえ文面から垣間見られたが、世間は冷たいものだ。まるで受け入れられず、心が折れてしまった。
彼も苦しんでいたのだ、と乃里は思う。
心のなかに、松之介の小太りでちょっと背中を丸めて卑屈そうに歩く、松之介の姿が浮かんだ。
嫌味を言われても、世間から疎外されても、まったくいにもかけないそぶりでほほえんでいながら、内心では深く傷ついていたのだ。文字のひとつひとつに松之介という人間がいるようであった。
なかには、乃里さえもとうに忘れているような出来事にも触れられていて、そういった段を目にすると、心をゆさぶられるように心象が呼び起こされるようだった。
それはなつかしく、春の陽射しのようなぬくもりが染みわたるようであった。
あの日、居間から縁側にでると出庭の片隅の、こんもりと茂った
部屋に入って竹刀をつかみ、下駄も履かずに庭に飛び降りた。
そうして息を殺し、躑躅を回ってそのうごめくものに近づいていった。上段に構えた竹刀を振りおろしかけた腕を、瞬間、とどめた。
「
竹刀を、乃里は吐息とともに下にさげて言った。
「なにをなさっておいでなのです」
けっして足音を忍ばせて歩いてきたわけでもないのだが、乃里のその声を耳にするまで気が付かなかったのだろう、義兄の松之介は肉の厚い丸い背中をびくりとひとつふるわせて、振り返った。
「あ、いや、ちょっと、ここの草が気に、なったものだから」
手の中のむしった草を隅に放り、丸い目をさらに丸くして、なにかいたずらを見つけられた子供のように、つっかえつっかえ言った。
「そのようなことは、私か作蔵さんがいたしますのに」
乃里がたしなめるように言うと、松之介は申し訳なさそうに、微笑んだ。
八月ももうすぐ十五夜になろうかという頃なのに、今年は残暑が厳しく、松之介は額に汗を玉のように浮かせていた。額の汗が流れて何本かの筋を描いて顎から今にもしたたり落ちそうで、単衣の襟は汗がにじんで黒ずんでいて、乃里が渡した手ぬぐいで、義兄はせっせと顔をふき首の汗をぬぐった。いつから草引きに精を出していたのか、乃里は気がつかなかったが、その流れ出る汗の様子だと、もう一刻くらいはいそしんでいたのではなかろうか。
「もうそろそろ、お昼食の時分ですよ。義兄上さま、その前に一度湯浴みなさってはいかがでしょう」
「うん、いや、いいよ、井戸で水浴びするから。湯を沸かさせるのも作蔵に悪いし」
そうして松之介は、ふうふう言いながら去っていった。
――この人は優しすぎるのだ。
母屋の角を曲がっていく松之介の後ろ姿を眺めながら、乃里はそう思った。
乃里は松之介に好意を持っても、けっして嫌悪したり侮蔑したりするような気にはなれなかった。
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