二の一

「乃里さん、ちょっとお願いがあるのですけど、離れに来てくれないかしら」

 姑の妙から呼ばれて離れ家へ行くと、妙は四畳半の敷居際に座って申し訳なさそうに言った。

「もう四十九日も過ぎましたし、ここを片付けようと思うの。思いを振り切るにも、本当は、私がやらなくてはいけないのでしょうが、あの子の使っていたものを見ると、どうしても、あの子の気が残っているようで」

 言葉をつまらせた妙に乃里はただ、はいと静かにうなずいて、お滝といっしょにすぐに働きはじめた。

 畳はすでに取りかえられていて、血がついてしまった調度などは、夫の広之進や下男の作蔵があらかた処分してしまっていたが、いくらかの書物や文机はまだ手つかずで部屋の隅にかためて置いてあった。お滝は松之介への未練を断ち切るように、積まれた本のひと束を躊躇なくかかえていった。

 庭の西の隅に建てられている離れ家は、東向きに縁側があって、南の小窓の明かり障子から光が差し込むだけで、日が西へと傾き出すととたんに薄暗く陰気な印象になった。その薄暗さが、まるで松之介の人生を象徴しているようで、乃里の心をぐっと締めつけるのだった。

 二年前に亡くなった先代が、いささか頭のめぐりがゆっくりしている松之介に先行きの不安を感じ、病がちで城勤めにむかないから、という理由をこじつけて廃嫡し、みっつ下の広之進を跡取りにすえてしまったものだった。

 そういう人の部屋なのだ、という気がした。

 南の窓の下から移動させられた文机は西にある床の間の地袋の前に寄せてあって、机上にいくらかの手冊が乱雑に積みあげられていた。その中の三冊積まれた一番上においてある一冊の帳面が、ふと乃里の目に留まった。

 紅天狗の名の由来である赤みがかった髪を、無意識になでた。

 あずき色の表紙の端はこすれて色が落ちているし、その表紙には題目もかかれていないし、雑記帳かなにかだろうというくらいの、軽い気持ちで冊子を手に取って表紙をめくった。

 それは、日記であった。

 日付は飛び飛びで、毎日の記録というよりも、印象の強い出来事を体験したときの模様と感想が書かれている。

 すでに故人とはいえ、人の日記を読むのははしたなく、松之介の心の内を覗き見るようで後ろめたい気もなくはなかったが、お滝は母屋の納戸まで書物を運んでいったし、妙も母屋に戻ったようだし、とがめられる心配のない気楽さから、つい紙葉をめくってしまった。

 その一冊は、十年少し前から書き始めた日記で、犬に追いかけられただの、友達と喧嘩しただの、たわいない日常の出来事が、丸い子供のような筆づかいで書かれていた。

 ぱらぱらと丁を進めていると、ふと自分の名前が書かれていたような気がして指をとめ、数丁めくりもどした。

 目の錯覚のような気もしたが、どうも心にひっかかって、その箇所を探した。

 錯覚ではなかった。たしかに、のり、と書かれていた。

 今日は、隣の鍵谷町まで行った。子供たちが鬼ごっこをしていたので混ぜてもらっていっしょに遊んだ。のりという女の子とははじめて会ったが、とても元気がよく、男の子のようだった。

 そんなことが書かれていた。

 ――出会っていたのだ。

 乃里はふいに思い出した淡い記憶が、再び心の深奥に遠ざかってしまわないように、つかみとめるようにして記憶の輪郭を描きだそうとはげんだ。

 そうだ、確かにそんなことがあった。乃里が十歳かそれくらいの頃だったろう。小太りの青年と遊んだ記憶がある。友達は彼のことを知っていて名前を呼んでいたが、乃里は初めて会った人だったし名前も知らなかったし覚えてもいない。ただ大人の男と遊ぶことが珍しかったし、彼の体が異様に大きくていささかの恐ろしさを感じた印象も強く残っていた。松之介と乃里とは十ほども歳が違うし、今にして思えばちょっとおかしな出来事であったという気もするが。

 ――出会っていたのだ。

 もういちど、乃里は心でつぶやいた。感動が心のどこかにわいたようだった。それは小さなゆらめきのようなものではあったが、どこか心地よいゆらぎであった。


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