一の二
乃里は小さな体が小刻みに震えるのがどうしてもとめられなかった。とめようと手足に力をこめるとなおさら震えが大きくひどくなるようであった。同時に視界も揺れているのは、まばたきすらも忘れて大きく見開かれた目も震えているからだろう。その震える目で時が止まったような光景をしばらく見つめていた。
やがて、思い立ったように歩き出すと、離れ家の縁側にあがった。
広之進も、妙も、お滝も、なにをするものかと、黙って乃里を目で追った。
座敷に入った乃里は、血だまりを避けて壁に沿って、南側の窓の下にある松之介の愛用していた文机の前に立った。
そうして、その上に置かれた二通の遺書を認めると、そっとそれを手に取った。
庭に戻った乃里は、二通の遺書を広之進に手渡した。
広之進は眉根を寄せて、じっとそれを見つめた。一通は家族に宛てたものであったが、もう一通は、利根家の婿養子である修次郎へのものであった。それを
お滝が気を取り直し、庭におりてくると、今にも崩れ落ちそうな妙をささえて、母屋へと戻っていった。
両手のあいた広之進は、家族宛ての遺書を開いた。
それはごく短いものであったが、広之進は何度も読み返した。突然の兄の切腹という行為が、それで納得いったのかいかないのか、ともかくまったく表情を変えもせずに、読み終わった遺書を乃里に渡した。
乃里はすぐに目を通した。
遺書はそっけないほど簡潔なものだった。
昨夜、町で藩士と口論になり、侮辱されたので怒りにまかせて斬ってしまった。その藩士はもう生きてはいないだろうから、私は自害する。先立つ不孝をゆるしてほしい。
というような内容であった。
「さて、どうしたものか」
部屋をながめている広之進が溜め息まじりにつぶやいた。
「家族が腹を切るなんて、はじめてだからな」
まるで魂の抜けたような、平坦な言いようであった。そう言ってまた、どうしたものか、とつぶやいた。
「とにかく、組頭のところに行って報告してくるよ」
広之進は
「あなた」と乃里は呼びとめた。「傘ぐらいはお持ちになって」
立ちどまって広之進は空を見上げた。薄墨が
一刻半ばかりもすると、広之進は帰って来た。
後ろに幾人かの男たちがついてきていて、彼らは
彼らは笠に蓑を着けていて、それを脱いで母屋の縁側に置くと離れ家を
昨夜の事件はすでに目付に届けられていて、夜が明けて、さあ捜査をはじめようというところへ、広之進が組頭とともに役所に到着したのだという。
「その前に遺書を持って利根の屋敷にも寄って来たんだがな、家従が応対して、修次郎殿は出て来もしなければ呼びつけるわけでもない」
そう言って広之進は憤懣を噴き出すように鼻を鳴らした。遺書は叩きつけるようにその家従に渡してきたのだそうだ。家老の家だからって、家従ふぜいが偉そうに、とまた鼻を鳴らした。
そして乃里は広之進が差す傘の下で、庭で見分の様子を不安げに見守った。ところへ、四十がらみの目付が寄ってきた。男は森本と名乗って、ことのあらましを、まだ捜査の途次なのであまり詳しくは話せないが、と前置きをして語り始めた。彼の態度は
「事件が起きたのは、昨夜、城下の
楽田町というのは城下一番の繁華街で、日が暮れても人通りは多く、事件を目撃していた人も多かったようだ。
「先に抜いたほうの侍は、――つまり松之介殿は相手からそうとう辛辣に罵言をあびせられていたということです。それでたまりかねて、ということらしい。相手は即死ではありませんでしたが、今未明に亡くなったそうです。松之介殿もすでにお腹をめされていますし、おそらく喧嘩両成敗という形で裁決はつくと思います」
家族に
「松之介殿が斬った相手が、お
側衆は藩主に近侍する秘書のようなもので、名門の家柄が任じられる役職であった。家格も野上家よりずっと上である。もし老職連に顔が利くともなれば、島崎の遺族がどのような難癖をつけてくるかわからない。
今の空と同じように、薄く曇っていた乃里の心が、さらに暗く落ち込んでいくようであった。
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