雪のはて
優木悠
一の一
笠原の
というのは、お転婆がすぎて女だてらに一刀流の笠原道場で免許まで取った
そんな不名誉このうえない異名をもつ女でも貰ってくれる奇特な相手もいるもので、乃里が十八のときに
子供ができないのが憂愁の種ではあったけれど、少なくとも表面上は夫の広之進も、姑の
そんな野上家には、廃嫡された長男の
その日、朝食の膳を居間へと運んできた乃里は、おやと思った。
食事の時には、いつもいっとう早くに膳につく松之介の姿がみえなかった。
「あら、珍しいことですわね」妙も驚いている。「どれほど夜更かししても、朝になるとお腹の虫に起こされるような子ですのに」
「いくら食いしん坊のお義兄様でも寝過ごすこともございますでしょう」
にっと微笑んで乃里は答えた。そうして笑うと両の頬に大きなえくぼができた。そのえくぼにつられたように、妙も微笑んで、
「あの子は、どんなに眠くってもいったん起きて、朝食を食べて、そしてまた眠るのよ。我が息子ながら、ちょっとあきれてしまいますわ」
乃里の夫の広之進が、あわただしく箸をとりながら、
「うん、兄上だって食い気より眠気という日もありますよ」
女中のお滝が碗にご飯を盛るのももどかしそうな様子であった。
「寝床の温もりをいとしがっていたせいで、皆で寝坊したようなものですよ。もう出仕の刻限です」
広之進は受け取った碗に味噌汁をかけて、掻きこみはじめた。
「なんですか、はしたない」
たしなめながら妙も食事をはじめた。
「私、ちょっとお義兄様のご様子をみてまいりましょう」
自分の膳の前に座りかけた腰をすぐに浮かしかけた乃里に、いえ私が、と給仕をしていた女中のお滝がしゃもじを置いて立ちあがった。お滝は赤子のころの松之介に乳を飲ませていたそうで、自分の子供と同じくらい、ひょっとするとそれ以上に松之介の世話を焼きたがるようだ。それは自分の産んだ子が
寝ているのなら無理に起こさなくてもいいですよ、という妙に、はいと返事をしてお滝は居間から出ていった。出ていくときに、ちょっとのま開けられた障子から見えた庭に、白い物がはらはらと舞っているのが乃里の目にはいった。
「あら、雪が降っていますね」驚いて乃里が言った。
「昨晩からずいぶん冷えこんでいましたものねえ」妙はいささか憂鬱そうである。
「ええ、今朝はひどい底冷えで目が覚めました」
「積もらないといいがな」と言って広之進はたくあんを噛んでいる。
「初雪ですから、根づくほども降りませんでしょう」
と慰めるように言った乃里に、広之進は、
「初雪だから積もらないという理屈はないだろう」
「あらそうかしら。初雪はだいたい粉雪がさっと降って終わるものじゃないですか」
「だといいな」
そう広之進がそっけなくに答えたときだった。
耳をつんざくようなお滝の悲鳴が聞こえ、広之進が箸や茶碗を投げ出すように膳において立ちあがった。乃里と妙は驚きととまどいの混ざったお互いの顔を一瞬見あわせてから立った。
広之進はすばやく障子をあけて縁側から足袋はだしで庭に飛び降り、悲鳴のした離れ家へと走った。
乃里も妙も続いた。居間から出て最初に乃里の目に入ったのは、狭い庭の隅に窮屈そうに建てられた離れの、濡れ縁で障子の桟につかまって腰を抜かしているお滝の姿であった。そして庭から中をのぞきこむように腰を曲げてじっと見つめている広之進を見ながら、足先で沓脱ぎの下駄をさぐってつっかけて、乃里は小走りに走った。
走り寄る乃里と妙の前に広之進が立ちふさがって、部屋の中を見せまいとしたが、乃里は夫の腕を押しのけて、小さな体に不釣り合いなほど大きな黒目がちな目を、めいっぱいに開いて、その光景をみた。
四畳半の畳はまさに血の海で、その真ん中に小島のように、松之介がうずくまっていた。ひと目で腹を切ったのだとわかった。腹を切った後、首の血脈を断ったのだろう、壁にもずいぶん血潮が飛び散っていて、唐紙にしぶいた血はこちら側に染み出して黒い斑点のように見えた。
あっと小さな声をあげて妙が倒れるのを広之進が支えている。
乃里は、その光景を、ただ茫然とみつめていた。ひどく耳鳴りがして、血が下がり額に冷や汗が浮いて、まるで自分が自分でないような気分であった。なにかまだ夢の中にいて、本当は布団のなかで寝息をたてているのではなかろうか。そんな奇妙な感覚がしていた。
朝だというのに薄暗い空から舞い落ちてくる粉雪が頬に触れ、乃里にはそれが、不思議に心地よかった。
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