最終章 "Love your enemies"

第33話

最終章 "Love your enemies"


 一体どれほどの間、ドアを睨み続けていただろうか。

 時の流れは、眠れる者にも見守る者にも平等に訪れる。

 ふと気が付けば、背後の窓から差した朝陽が俺の影をドアに向かって伸ばしていた。

 周囲が明るくなってくると、縮こまっていた俺の気も少しばかり大きくなる。我に返って手を開いてみると、ずっと握っていたサバイバルナイフの柄の模様がくっきりと掌に残っていた。


(大丈夫……大丈夫だ。怖がる必要はない。あれは幻覚だ。幻聴だ。まやかしだ!)


 そう自分に言い聞かせ、緊張していた体を少しずつ解してゆく。


「――ヒ、ヒイィィィィィ!」


 その時、突如としてドアの向こうから鶏の首を絞めたような悲鳴が響き渡った。

 俺は、「怖い」と感じるよりも先にドアノブを掴んでいた。


「何がっ――!」


 言葉は、そこで途切れた。

 眼前に広がる衝撃的な光景を処理するために、脳が他の余計な機能を自動で停止させたのだ。

 床にへたり込む葛山先輩、悲鳴を聞き付けて階段を駆け上がってくるオーナー、少し遅れてそれぞれ部屋から出てくる二宮と雨沢、そして――俺の部屋の前で倒れ伏す北条先輩。


(なんで……北条先輩が殺されているんだ!? もう殺人は起こらないはずだろ……!)


 こんがらがる俺の意識は、ひとまず目先の問題である北条先輩の安否へ向けられた。


「北条先輩、大丈夫ですか!? 北条先輩!」


 必死に呼びかけながら、横向きになっている彼女の体を起こす。気道を確保するための行動だったが、それにより彼女が死んでいることをこれ以上ないほど理解させられる。

 赤――目も眩むような赤色が、俺の目に飛び込んできた。

 寝間着、乳房、脂肪、筋肉……その全てが、胸部中央を縦に割る切り込みから左右に分けられており、真っ白な胸骨と濡れた臓腑が空気中に曝け出されていた。

 まるで、胸元から一対の赤い翼が生えているかのよう……。

 その翼を伝い、切り込みからドス黒い血液がドロドロと溢れ出してくる。

 堪えきれず葛山先輩がえずいた。

 二宮も雨沢も、口元を抑えて顔を青くしている。

 しかし、俺は胸部の状態よりも、その死に顔の方に大きなショックを受けていた。

 凄まじい形相だった。北条先輩の目と口は、恐怖に硬直したように大きく開かれている。目の端には乾いた血の跡が残っており、まるで血涙を流しているかのようだ。


「……息をしていない。脈もない。北条先輩は……死んでいる」


 そんな分かりきったことを改めて口にすると、周囲に悲嘆と動揺の声が広がった。

 一方、俺はとある疑問に囚われていた。


(なぜ、北条先輩を殺した?)


 南先輩、柊先生、檜垣先輩ときて……今度は北条先輩。

 犯人は檜垣先輩から首輪を確保したはずだ。


(なのに……なぜ更なる殺人を?)


 考えられるのは、俺と檜垣先輩の推理が間違っていて外部犯の仕業だった可能性だ。雨沢の推理が正しく、犯人は俺たちを弄んで楽しむゲスな野郎だったのかもしれない。

 或いは、内部犯を前提としたこれまでの推理は合っていたが、新たに北条先輩を殺さなければならない理由ができた……とか。


(……にょげんさまの可能性は考えない)


 昨日の俺はどうかしていた。にょげんさまなんているわけがないというのに、まるで始めて怪談を聞いた子供の時のように怯えて、結局は一睡もできずに夜明けを迎えてしまった。生涯の不覚だ。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……とりあえず遺体を動かそうかね」


 オーナーがそう提案する。外で殺された他の犠牲者と違って、北条先輩の死体はもろに生活空間の動線上に転がっている。警察をすぐに呼べるような状況でもないので、移動させるしかないだろう。


「その前に、死体と現場の写真だけ撮っておきましょう」


 俺の提案で、携帯のカメラを使い死体と現場周辺の様子を撮影した後、俺たちはブルーシートで死体を包んで倉庫へと運んだ。


「血の掃除は儂がしておこう……生徒さんたちはその間に朝食でも取っていてくれ」


 ペンションへ戻るなり、オーナーはそう言って厨房に入っていった。この状況で仕切ってくれるのは素直にありがたい。玄関に残された俺たちはひとまず食堂へ向かい、血で汚れた手を食堂の手洗い場で洗った。それが終わったものから、それぞれ適当な席に着いた。

 皆一様に沈痛な面持ちをして、ただ虚空を見つめていた。

 終わりの見えない惨劇が、皆から気力という気力を根こそぎ奪い去ってしまったようだ。

 もはや、ここにいるのは収穫の時を待つ哀れな生贄の子羊に他ならない。

 俺は皆を元気づけようとしたが、それに相応しい言葉を見付けられないでいた。


(推理を外した俺が今更何を言おうとな……)


 やはり説得力に欠けてしまうだろう。

 そんな中、重苦しい沈黙を破ったのは意外にも葛山先輩だった。


「で、でもぉ……サマーキャンプは今日が最終日だよね? 三泊四日の四日目! む、迎えが来てくれるはずだよね? ……ね?」

「残念ですけど……」


 こんなことはあまり言いたくないが、現実は直視しておく必要があるだろう。


「途中で土砂崩れが起きていたんですよね? 確かバスは昼頃に到着する予定でしたから、そこから引き返して、救助要請を出して……と考えると、救助ヘリが来てくれるのは夕方以降になるでしょうね。どこかで遅れたら明日以降になるでしょう。なにせ、ここで人死にが出ているなんてこと、向こうは全く知らないでしょうから」

 加えて言えば、またどしゃぶりの雨でも降ろうものなら更に遅れが生じ、二日、三日と、ここで孤立し続ける可能性だって十分にある。

「そんなぁ……」


 葛山先輩は、ガクリとテーブルに突っ伏した。

 食堂にまた嫌な沈黙が流れる。それがまるで俺を責め立てているように感じて、俺は堪らず隣の席の雨沢に話しかけた。


「なあ、雨沢。昨日の電話なんだが……あれ、どうなったんだ?」

「ああ……あれね。ごめん、部屋の外から笑い声が聞こえた時に驚いて思わず切っちゃったんだ。かけ直す勇気もなくて……ボクは夜が明けるまでずっと布団に包まって震えてた……」


 すると、向かいの席にいた二宮が驚きの声を上げる。


「え、透っち。昨日何かあったの? それに電話って……」

「ああ。電話線は切られていたけど内線は生きてたみたいで繋がったんだ。雨沢が、俺も怖がってるんじゃないかと気を利かせて、電話でにょげんさま対策を教えてくれてな」


 雨沢が怖がって俺に電話をかけたということは、彼女の名誉のために伏せておいた。


「で、その時には北条先輩もドアの前にいて俺と話してたんだ。その声、二宮には聞こえてなかったのか?」

「あたし、薬を飲むと眠くなっちゃう体質だから……こんな時には逆に助かるけどね」

「あぁ、それで二宮はずっと寝込んでいたんだな」


 俺は一応、葛山先輩の方にも水を向けた。


「葛山先輩は何か聞いてないですか?」

「聞いてないぃ……。わたし、不眠症だから夜は眠剤のんでるのぉ……」


 葛山先輩は、テーブルに突っ伏したまま唸るように答えた。


「そうですか。実は、北条先輩も雨沢と同じく『にょげんさま対策を教えに来た』と言って、ドアの下の隙間から――こんな紙を渡してきたんです」


 俺は、昨日北条先輩から受け取った紙を取り出し、雨沢と二宮に見せた。


『にょげんさまを部屋に入れないために』

 1.金属類をドアや窓の前に置く

 2.部屋の湿気を上げる

 3.イワタバコの花びらを千切って部屋に撒く

 4.部屋の風通しをよくする


「この内容が、電話で雨沢から聞いた情報と微妙に食い違っていた」

「確かに……違うね」


 二宮が紙を見ながら言った。


「雫ちゃんは、イワタバコの花びらを千切れだなんて言わなかったし、金属類のことはちょっと言ってたかな……?」

「言及はしたね。にょげんさまは妖怪だから金気を嫌うかもしれない、と」

「それと湿気のことも言ってたし、資料にもあったよね? 『混ざってしまう』から有効かもって」

「あ、あのぉ……」


 ここで、いつの間にか復活していた葛山先輩がおずおずと話に加わってくる。


「もしかしてぇ……そのにょげんさま対策、わたし以外全員知ってる……? わたし、教えてもらってないんだけどぉ……」


 二宮は、面倒臭そうにその声を無視して続けた。


「……でも、4番目の『部屋の風通しをよくする』ってのは初耳だよね。雫ちゃん、そんなこと一言も言ってなかったもん」

「わわ、わたしぃ……そんなの、聞いてなかったんだけどぉ!」


 別に女性陣も葛山先輩をハブっていたわけじゃないだろう。勝手にいなくなった葛山先輩を気にする余裕のある人間が誰もいなかったというだけで。しかし、わざわざ時間を使って釈明する理由も意味も感じなかったので、俺もそのまま話を続ける。


「俺も内線電話で雨沢にそう教えてもらってな。どういうことかと北条先輩を問い詰めたら、彼女はドアの向こうで狂ったように笑い始めたんだ。その後、『ドサッ』と床に倒れ込むような音がして……それ以降は物音一つ聞こえなくなった」


 あの声は確かに北条先輩のものだった。しかし、あの時の一連の会話が殺された北条先輩本人によるものだとは思えない。きっと、犯人が言わせたのだ。脅して喋らせたのか、それとも北条先輩を異能で操って喋らせたのか……。

 いずれにせよ、そのような冒涜を許せるはずもない。


(――まだ終わっちゃいない)


 犯人の動機が不明な以上、これで殺人が終わるとは限らない。

 だが、次こそ食い止めてみせる。これ以上、犠牲者を出してなるものか。

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