第32話
自分の部屋に戻った俺はベッドのふちに腰掛け、ぼんやりと思索に耽った。
考えているのは暗号の答えについて。
相も変わらず一向に閃きはないが、さっきよりも遥かに気は楽だった。
これまでは孤立無援だったが、今は俺と北条先輩と――もう一人の三人がかりだ。
これで文殊の知恵が実ることを期待しよう。
だが、そんな風に前向きな気分でいられたのも、再びあの音を聞くまでだった。
――コンコン。
すぐさま俺の脳裏に日記帳の文面が蘇る。
『今日も窓を叩く音がする』
嘘だろう、と思った。
まさかだろう、と。
しかし――音は無情にも繰り返し鳴り響く。
――コンコン。
(やってられるか!)
顔が引きつるのを感じながら、俺は電気を付けたままベッドに潜り込んだ。
暗号の答えについて考えようなんて気は、あっという間に吹っ飛んでしまった。
今、俺の頭を占めているのは得体の知れないものに対する恐怖だけだ。
(……寝よう、寝てしまおう)
滑落時に怪我したところが段々と熱っぽくなってきているし、全身に疲労も感じる。
(寝よう……!)
だが――コンコン――それでも音は鳴り続ける。
俺は幻聴を聞いているのだろうか。いや、この音は二宮と雨沢も聞いていたのだから、現実に鳴っている音であることは間違いない。それに俺が初めに不可解なノック音を聞いたのは日記を読む前だ。精神的な面は関係ないはず。
ならば、これは必然の事象と考えるべきだろう。きっと、このペンションには何かしら構造的な欠陥があって、それによってノック音に似た物音が鳴ってしまっているのだ。
――それだけだ!
にょげんさまなんて信じちゃいない。信じられるわけがない。当たり前だ。
だが、いくら自分に言い聞かせても何も効果はない。
人に輪をかけて「怖がり」な俺は、結局音が鳴る度にビクビクと反応してしまい、なかなか寝付けずにいた。
コン、コン。
一瞬の緊張の後、今のは窓からではなくドアから聞こえたノック音だと気付いて、俺はそろそろとベッドから抜け出した。
「……雨沢、か?」
てっきり、昨日のように雨沢が訪ねてきたのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「ううん。私、だよ」
「北条先輩?」
蚊の鳴くような小声で、更にドア越しでくぐもった感じだったので分かりにくかったが、確かにそれは北条先輩の声だった。
ふと時計を見ると、針は深夜十二時を指していた。
(こんな時間にどうしたんだろう……?)
北条先輩を部屋に迎え入れようと立ち上がったところで、ドアの下の隙間から何かが差し込まれた。
「これは……?」
「雨沢ちゃんが言ってた『にょげんさま対策』のまとめだよ」
どこから持ってきたのか、それは妙に年季の入った紙切れだった。
「……わざわざ、持ってきてくれたんですか?」
「うん。透くん、眠れてないみたいだったから。部屋から光が漏れてたし」
俺の弱った心を見透かされたようで、なんだか無性に恥ずかしい。だが、眠れていないのは事実。彼女の好意は快く受け取ることにした。
紙をひっくり返すと、そこには細かい丸文字で文章が綴られていた。
『にょげんさまを部屋に入れないために』
1.金属類をドアや窓の前に置く
2.部屋の湿気を上げる
3.イワタバコの花びらを千切って部屋中に撒く
4.部屋の風通しをよくする
意外と簡単だな、と思った。
「北条先輩、ありがとうございます。実は妙に目が冴えちゃって眠れなかったんです」
「私も似たような感じ。とりあえず、その対策をやってみたら? 少しは気が紛れるかも」
「そうですね……せっかくですし、やってみます」
さっきはあれだけ否定しておいて何だが、これで恐怖を紛らわせることができるのならと、俺は順番に一つずつやってみることにした。
(まずは金属類をドアや窓の前に置く、か)
俺は荷物の中から金属が使われていそうなものを集め、ドアや窓の前に置いた。
(次は湿気を上げる……確か、にょげんさまは水と『混ざってしまう』のだったな)
部屋に加湿機能付きの空気清浄機があったので、それに水を入れて加湿モードをONにした。
(イワタバコの花びらを千切って部屋中に撒く)
雨沢から貰ったイワタバコの花束は少し元気がなくなっていたので、部屋に戻ってからは花瓶にさしてあった。それを手に取り、俺は部屋中に花びらを千切って撒いた。
(そして、最後は……部屋の風通しをよくする?)
すると、まるで狙いすましたかのようなタイミングで、ドアの向こうから北条先輩の声が響いた。
「ああ、それ? 雨沢ちゃんが言ってたんだけど、妖怪とか悪魔とかの邪な存在って家主の許可がないと中に入れないらしいの。だから、窓とドアを開けても問題なくて、逆に風通しを良くすることで部屋の中の邪気を追い出すのが良いんだって!」
「へえ。窓と……ドアも?」
「開けるって言っても、ほんの少し隙間だけ開ければ良いから!」
北条先輩の補足説明に背中を押され、俺は鍵を開けてドアノブに手をかけた。
だが、そのノブを捻りかけたところでグッと踏みとどまる。
「――ちょっと待ってください」
違和感……そう、違和感があった。
何か、変だ。
金属類を置くのは良い。邪なる怪異は総じて金気に弱いとも聞いたことがある。
湿気も問題ない。にょげんさまは水と『混ざってしまう』という弱点があるのだから。
しかし、本当にイワタバコを千切ってしまっても良かったのだろうか。花束一つでにょげんさまを退ける力をむざむざ分散させるより、懐に抱いて寝た方がよほど効果的だったのではないか?
それにドアと窓を開けるってのも変だ。妖怪や悪魔は家主の許可なしには入れない――にょげんさまがそういうタイプかは知らないが、それ自体は俺も聞いたことがある知識だ。吸血鬼などが有名だろう。
しかしそれならば、むしろ開けるよりそのまま閉め切っておいた方が良いように思える。
湿気だって……せっかく上げたのに。
そして、俺はもっとも大きな無視できない違和感を口にした。
「なぜ……俺が今、ちょうど4番目の指示に着手していると分かったんですか……?」
そうだ、あまりにも声をかけるタイミングが良過ぎた。
北条先輩が、ずっとドアの前にいたのはなんとなく気配で分かっていた。俺が作業を終えるのを静かに待ってくれているのかとも思ったが、それはそれでおかしいように思う。なぜなら、彼女だってこの状況に不安を感じているはずなのに、一人で廊下に待たされたまま、一言も喋らないなんてことがあるだろうか。不安な人間ほど、むしろ多弁になるものではないか。
今の俺のように――。
「北条先輩、急に黙ってどうしたんです? 俺は、なぜ分かったのかと聞いて――」
「――あははっ!」
場違いなほどに明るい笑声が、ドア越しにくぐもって響いた。
「あっははは!」
「北条……先輩?」
「ごめんね? 笑っちゃって……ふふっ。透くんがそんなに怖がりだったとは思わなくて……くっ、ふふっ……」
北条先輩は、堪えきれないといった感じでなおも忍び笑いを漏らす。
答えになっていない。
その時、不意に背後で「プルルルルル」と大きな音がして、俺の両肩が飛び跳ねた。
バッと振り返って音の出どころを探ると、枕元にある固定電話のオレンジ色のライトが音に合わせて点滅しているのに気付いた。
(電話線は切られているはず……もしかして、内線は生きているとか?)
俺はドアの前を離れて受話器を取ろうとした。
だが、そこへ鋭い制止の声がかかる。
「――出ないで!」
「北条先輩……? 急に、どうしたんですか……?」
「その電話に出ちゃダメ」
なぜなのかと訳を聞いても「電話に出るな」と、彼女はとにかくその一点張りだった。
「……本当にどうしたんです? 北条先輩、さっきから様子がおかしいですよ」
「おかしいのは透くんの方だよ! だって、電話線は犯人に切られてるんだよ? それなのに電話がかかってくるなんて……どう考えてもおかしいって!」
「内線は生きてるのかもしれません。俺たちは、その可能性を見過ごしていました」
「そんなわけない! 大体、こんな時間に誰が電話をかけるっていうの? 変だよ、絶対に出ない方が良いよ!」
全く埒が明かない。
その間も「プルルルルル」と、まるで急かすように受話器は鳴り続ける。
「そんな電話なんか放っといて……ねえ、早くこのドアを開けて?」
コンコン。
北条先輩が急かすようにドアをノックする。
鍵は、既に開いている。だが、そのことを彼女に伝える勇気はなかった。
コンコン、コンコン、コンコン――。
プルルルルル、プルルルルル、プルルルルル――。
二つの騒音に板挟みにされて、俺はもう頭がどうにかなりそうだった。
だがそれでも、まだ俺の脳みそには最低限合理的な判断を下すだけの余裕が残っていた。
「電話に出ます」
怪しいのはどちらも同じだ。
しかし、ドアを開ければ即その向こうにいる相手と対面するのに比べ、電話に出たからといって死ぬということはまずあるまい。
「――ダメ!」
北条先輩の声を無視して、俺は宣言通り受話器を取った。すると、まるで潮が引いたように彼女はピタッと黙りこくる。
妙な気味の悪さを感じつつ、俺はおそるおそる受話器に向かって話しかけた。
「もしもし……?」
「あ、繋がった……?」
受話器から聞こえてきたのは、なんてことはない雨沢の声だった。俺は、ほっと息を吐く。そらみたことか、嫌な怖がらせ方をしやがって。やっぱり内線電話だったではないか。
胸を撫でおろしてベッドに腰かけると、雨沢が静かに話し始める。
「夜遅くにごめん。もしかして起こしちゃったかい? 正直、繋がると思ってなくて……」
「いや、起きてたから大丈夫だぞ。少し驚きはしたがな。そっちこそどうしたんだ? こんな時間に。また不安にでもなったのか?」
「……うん」
電話越しに聞く雨沢の声は、先程別れた時よりも格段に弱々しく聞こえた。
「でも、部屋を出る勇気が出なくて。ほら、にょげんさまが入ってきたらと思うとさ……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……!」
「……急にどうしたんだい?」
俺の視線はドアに釘付けになった。
正確には――そのドアの向こうにいるであろう、北条先輩に。
「ドアとか窓は……やっぱり開けない方が良いのか?」
「一般的にはそうじゃないかな。家屋や部屋というのは、それ自体がまず結界のようなものだと聞いたことがあるし……にわか知識だけど……」
俺もそんな話は聞いたことがある。
なら、北条先輩はどうしてあんなことを……?
「じゃ、じゃあ! 北条先輩に『窓やドアを開けろ』とは指示していないんだな!?」
「北条さんに……?」
ゴクリと生唾を飲み込む。自分の喉で鳴るその音を鮮明に聞き取ってしまうほど、俺は聴覚に全神経を集中させていた。電話越しに、雨沢の浅く息を吸い込む音が聞こえる。
「窓やドアの開け締めについては、特に何も指示していないけれど……」
「きひっ」
ドアの向こうから奇っ怪な声が聞こえた。
それは紛れもなく、どうしようもないほどに――北条先輩のものだった。
「きゃははははははははは!」
ブツ――と、電話が切れる。
だが、そんなことは目先の異変を前にしては些細なこと。
俺の意識は既にドアに釘付けだった。
「北条、先輩……?」
「ア~ぁ……モウ、少しダッタのに……」
ドサッ、と何かが倒れたような音がした。
全身から血の気が引いてゆく感覚の中、俺は必死に床からイワタバコの花びらを掻き集めた。
(これは幻覚だ。幻聴だ。俺の恐怖が生み出した虚像だ……!)
断じて――にょげんさまなどではない!
ドアの前に置いていたサバイバルナイフを拾い、俺はドアを睨み続けた。
いや……ドアを睨むというよりは「窓から目を逸らしていた」と言った方が正しい。
もし、窓の外にそれらしき影でも映っていようものなら、きっと俺は恐怖で気が変になってしまう。そのことが本能的に分かっていたから、俺は窓から目を逸らしてドアを睨み続けるしかなかったのだ。
ドアを開けてその向こうを確かめる勇気も、戦いを挑む勇気もなく、俺は萎びたイワタバコの花びらとサバイバルナイフに縋り、ただ、逃れようのない恐怖に打ち震えた。
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