第30話
シャワー後、服を着替えた俺は再び一階へ下りた。
すると、二宮、雨沢、北条先輩の三人が食堂の一角に屯しているのを見つけた。確か、彼女たちは俺が二階へ上がった時から、そこでそうしていたはずだ。興味を惹かれ、俺は食堂へ入りながら彼女たちに声をかけた。
「なあ、皆でずっと何の話をしているんだ?」
すると、雨沢が顔を上げて事もなげに答える。
「柊先生の残した資料から、にょげんさまへの対策を練っているんだよ」
彼女たちの手元には資料類が散乱しており、覗き込むと昼前に雨沢が暗唱してみせた『菜逃ぐ』や『イワタバコが~云々』という文章が書かれていた。これらの資料は、恐らく俺がシャワーを浴びている間に柊先生の部屋から持ってきたものだろう。
じっとその資料類を眺めていると、雨沢が眉をひそめる。
「何か言いたげじゃないか、キミ」
「……そりゃあな」
「分かるよ。でも、ボクらの言い分も聞いてくれ。下山もできない。異能も使えない。犯人が誰かも分かっていない。キミは降伏が最良の道だと言ったが、実際それで『はい、そうですか』と納得なんかできっこない。せめて、神頼みやおまじないに縋るぐらい良いじゃないか」
「冗談だろ! あのオーナーに影響されたってわけじゃあるまいし……」
俺は吐き捨てるように言う。
「それに、殺人はもう起きないと説明したはずだ。皆も――雨沢だって、あの推理には納得してくれていただろう!」
「透っち、待って! これはあたしが雫ちゃんにお願いしたことなの!」
二宮が、雨沢を庇うように会話に割り込んでくる。これは早とちりだった。てっきり、今の熱の入りようからして雨沢が言い出したことかと思っていたが、違ったようだ。
雨沢は、今の二宮の話を肯定するようにコクリと頷く。
「不安なんだよ、皆。ただ、それだけ……ボクも含めてね」
それはズルい。それを言われると、こっちは何も言えなくなってしまう。どう答えたものか。安易に否定して良いものか思案していると、二宮が「それに――」と付け加えた。
「にょげんさまは、全く眉唾の存在でもないんだよ!」
そう言って、二宮は資料の一つを引っ張り出してきた。そこには、にょげんさまの見た目が霞でできており、『霞天狗』の異名を取ることが記されていた。
「ほら、皆が見たのってまさにコレでしょ?」
「……資料は柊先生の部屋にあったんだ。そして、施錠もされていなかった。誰でも入れたし、その見た目を知って模倣することができたはずだ」
「んー……じゃあ、こっちは!?」
二宮が次に差し出してきたのは酷く古びた日記帳だった。ノートを日記帳代わりにしていた南先輩とは違い、革張りの高級感ある装丁に〝DIARY〟と金字で綴られていた。
「これはね、オーナーさんが貸してくれた奥さんの日記帳なんだけど……」
先程、三人がにょげんさま対策について話し合っていると、いきなりオーナーが話に首を突っ込んできたという。
『それはあの先生の研究資料かい?』
そして、オーナーは続けて謝罪の言葉を口にした。
『すまんなあ。儂は、にょげんさまのことをもっと知りたい一心で、あの先生に祠の調査を許可したんだが……今思えば、それがにょげんさまの怒りを買ってしまったのかもしれん。何か分かったら儂にも教えてくれ』
それから、オーナーは一度スタッフルームに引っ込んだかと思うと、今度はこの日記を持って戻ってきたという。
『サマーキャンプ初日、誰ぞかに「一人でやっているのか」と聞かれた時、儂は「元は夫婦で始めたが、妻には病で先立たれた」と答えたな。――あれは嘘だ』
この日記には、オーナーの奥さんの『死の真相』が書かれているのだという。
二宮はパラパラと日記をめくり、後半部分に差し掛かったところで止める。そして、俺が見やすいように上下を引っくり返して机の上に広げた。
『最近、どうにも物音が気になって仕方がない。ずっとふせっているせいだろうか?』
『今日も窓を叩く音がする。昼夜問わずひっきりなしに……ノイローゼになりそう』
『コンコン、コンコン、と。まるで私を黄泉に誘っているかのよう……』
文章は、日付が進むに連れて暗澹たる雰囲気を醸し始める。それに伴い、最初は楷書のように整った筆致も、段々と殴り書きのような乱雑なものに変わってゆく。
『彼の希望でここにペンションを建てたことを後悔している。人間風情が神聖なる山に住み着くなんて無礼千万の行いだった』
『きっと、そのせいでにょげんさまの怒りを買ってしまったのだ』
『あの誘いに乗って、この窓を開け放てば……私は自由になれるのだろうか』
そして、二宮は更にページをめくる。
『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫をお許しください』『にょげんさま、どうか夫を――……』
……日記は、そこで終わっていた。
「この後……奥さんは、滑落死体として発見されたんだって。その首には歯型がついてたらしいよ……」
『妻はにょげんさまに喰い殺されたのだ』
オーナーは、にょげんさまの怒りを鎮めるために己の命も捧げる覚悟だったという。
『だが、待てども待てどもお迎えは来ない。儂は許されたのか……それとも、これが罰なのか……』
そうして、オーナーは涙ぐみながらスタッフルームの方へ引っ込んでいったという。
俺はパタンと日記を閉じ、天を仰いでふうと息を吐いた。
完全に、気が変になっている。
オーナーとその奥さんがではなく、彼女たち三人がだ。
「これをにょげんさまの実在証明として提出できる気が知れない。普通に考えれば、まず奥さんが病を苦に気が狂い。その影響を受けて、オーナーまでおかしくなってしまったんだろう」
「そうかもしれないけど……でも、あたしも聞いてるんだよ! この――『コンコン』って音!」
「なっ……!? 二宮も……?」
すると、雨沢が「ボクも聞いたことあるよ」と乗っかってくる。
だが、北条先輩は聞いていないらしく、不思議そうな顔で首を横に振った。
「……三人もノック音を聞いているなら、それは幻聴とかではなく現実にある音なんだろう。だが、それが必ずしもイコールでにょげんさまと結びつくとは限らない。家鳴りや風の音かもしれないだろ!」
「そうかもしれないけど……でも、日記にもあった通り奥さんは病気でふせってて、一人で満足に出歩くこともできなかったんだよ? どうして、外で滑落死なんかしてたの?」
「可能性ならいくらでも考えられる」
奥さんが最期の力を振り絞って自ら身投げをしたとか、或いは事故だったとか、他殺だったとか、はたまたこの日記も病気の話も全部オーナーのでっちあげだったとか……。
しかし、それらの可能性を口にすることは叶わなかった。
不意に鳴り響いた大きな音が俺たちの意識を強かに打ちつけ、話を遮ったからだ。
――バン!
爆竹を鳴らしたような音に驚き、俺たちは揃って首を竦めて音の出どころである窓の方を振り向く。だが当然、そこには何もない。誰もいない。雨粒が暗闇の向こうからガラスに吹き付けているだけだ。恐らく、建付けの悪い窓が風でガタついて音が鳴ったのだろう。それ以外に考えられるか。
何とも言えない決まりの悪さを感じつつ視線を戻すと、そこには雨沢のニヤケ面が俺を待ち構えていた。
「なんだ、キミも怖いんじゃないか」
「そりゃあ、俺だって気は立ってるさ!」
恐怖する以上に俺は苛立っていた。俺がこういう類の話を苦手だってのは雨沢も知っているだろうに。すると、横から見かねたように北条先輩が「ねえ」と声を上げる。
「子供じゃあるまいし、私たちもそんなに真剣じゃないわ。でも、実際に人死にが出たりして、変な化け物に襲われたりもして……やっぱり、普通の精神状態じゃいられないのよ」
北条先輩がそれを言うのかと思っていると、言葉にせずとも伝わってしまったのか、彼女は申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。
「今朝は……ごめんなさい。頭では分かっていながら、やっぱり取り乱しちゃって……でも、さっき透くんが『もう殺人は起こらない』って説明してくれたでしょ? 私、あの推理に結構説得力を感じて納得してるから……今は、もう大丈夫」
とにかく――と、北条先輩は強引に話を仕切り直す。
「それでも、理性では拭い切れなかった不安をやわらげるために……心の拠り所が欲しいの。ほんと、それだけ……だから、そう深刻に捉えないで。ほら、透くんだって初詣ぐらいは行くでしょ? これは、きっとそれくらいの次元のことなんだから」
「そうそう!」
と、にょげんさま対策の発起人である二宮も首を縦に振る。
確かに、俺も過敏になりすぎていたのかもしれない。気が付かないうちに俺も精神的な余裕をなくしていたみたいだ。彼女たちが求めているのは、本当に気休め程度のことなのだろう。あんまり躍起になって否定しても空気を悪くするだけか。
コンコン。
不意に響いたノック音に再び俺たちの意識が緊張する。だが、音の発生源にいたのは当然にょげんさまなどではなく、辛気臭い顔をしたオーナーだった。
「生徒さんたち、そろそろ食堂は消灯の時間だよ」
もうそんな時間になっていたのか。雨沢が机の上に広がった資料やら日記やらを急いでひとまとめにし、俺たちはぞろぞろと席を立つ。
「妻の日記、せいぜい役立ててくれ」
「……ありがとうございます」
一応、礼は言っておいた。癪には触るが、これでも奥さんの遺品だ。無碍には扱えない。
それからオーナーはスタッフルームへ向かい、俺たちは二階へ向かった。
二階に着いたところで、俺はヘアピンのケースを返却した。
「二宮、これを返しとくよ。ありがとう」
「うん。……あ、そうだ。透っち、タブレットはどうする?」
ケースを受け取った二宮は、その反対の手でタブレットを差し出してきた。
どうしたものか、少し悩む。
このまま異能的に容疑の薄い二宮に預けておくのが妥当だが、そうすると犯人がタブレットを確保しようとした際、彼女の身に危険が及ぶかもしれない。
「……俺が預かろう。皆、それで良いか?」
三人の了承を得て、俺はタブレットを二宮から受け取った。
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