第28話

 食堂に入ると、オーナーが温かいココアを手に俺たちを出迎えてくれた。


「聞かずとも分かる。アンタら、にょげんさまに襲われたのだろう?」

「……それらしき何かです」

「信じたくない気持ちも理解できる。だが、とにかく今は生き残った幸運に感謝しようじゃないか。くわばらくわばら、南無南無……」


 オーナーは適当な念仏を唱えながら、俺たちに熱々のマグカップを手渡してゆく。

 全く、さっきまでの和やかな雰囲気が台無しだ。

 暫くココアを飲み、再び空気が落ち着いてきたところで俺は話を切り出した。


「葛山先輩、そろそろ話せますか?」

「う、うん……」

「下山中に何があったんです?」


 すると、葛山先輩はぶるぶると体を震わせ、ガチガチと歯を鳴らした。


「と、途中までは順調だったんだけどぉ……少し行ったところが昨日の雨のせいか物凄く土砂崩れしててぇ……。そこで雨も降り出してきたから、土砂を回り込んで下山するか、一旦ペンションに戻るか相談してたのぉ……そしたら……そ、そしたらぁ……!」

「襲われた、って言ってましたよね。それは空中に浮かぶ人面……『霞』の体を持つ怪異ではありませんでしたか?」

「う、うんっ! それ! そんな感じの奴だったよぉ……!」

「こっちも似たようなのに襲われたんです」


 そして俺は、もっとも気になっていたことを訊ねる。


「誰が、襲われたんですか?」

「え、えーと……無我夢中で逃げて来た、から……分かんない、かもぉ……でも、誰かの悲鳴っぽいのが聞こえた……気がする、かもぉ……」

「……そうですか」


 残念ながら犠牲者が誰かは分からなかったが、他のことはいくつか分かった。

 雨が降ってきたという状況から推察するに、先に襲われたのは俺と雨沢の方だ。

 俺たちが襲われた時は、まだ曇天になったところで雨は降っていなかった。


(ということは、犯人が俺たちを襲った理由はやはり足止めか……?)


 一人、沈思黙考の海に浸りかけたその時。

 ――ドン! と、大きな音がした。


(今の、玄関の方からか……!?)


 不意を討たれた俺たちは、バッと玄関の方を振り返った。

 それからすぐにドスドスと乱暴な足音が食堂へ近付いて来る。

 この時、誰の頭にも犯人の存在が過ったことだろう。

 しかし、食堂のドアが勢いよく開け放たれると、俺たちの緊張は瞬く間に霧散する。

 そこに立っていたのはずぶ濡れの北条先輩だった。


「北条先輩! 生きていたんですか!」


 安心したのも束の間、北条先輩は血走った目をぐるりと回転させ、食堂の隅っこで震える葛山先輩を見付けると、大股で彼女のもとへ詰め寄っていった。


「こんの――クズがッ!」

「ク、クズじゃないですぅ! 葛山かつらやまですぅ……!」

「ふざけてんのか!」


 北条先輩は、振り上げた手を素早く振り下ろし、葛山先輩の頬を平手で張った。それはまさに電光石火の一撃であり、止めようもなかった。遅まきながら、俺はびっこを引きつつ慌てて二人の間に割り入る。


「ちょ、ちょっと待って! 落ち着いてください。どういうことですか、北条先輩」

「こいつッ! このクズは私たちを囮にしたのよ!」

「囮……?」


 北条先輩は、まるでマシンガンのように怒声を撒き散らした。


「私たちは得体の知れない化け物にいきなり襲われたの! そこで翔くんは勇敢にも私の肩を掴んで庇うように前へ出たわ! その時、このクズはどうしたと思う? こっちに突進してくる化け物に向かって、庇ってくれた翔くんと私を押し出したの! そして、脱兎のごとく荷物を捨てて逃げ出していったわ。呆れるほど迅速な状況判断だった!」


 今の話は本当なのかと葛山先輩に視線で問いかけてみた。しかし、葛山先輩は「ちがう……ちがう……」とうわ言のように繰り返すばかりで、ロクな弁解が出てこない。


「翔くんは化け物に喉笛を食い破られて死んだ! 最後の最後までこのクズの心配をして! 化け物に襲われながらも、『オレが喰われてるうちに早く逃げろ! 瞳を頼む!』って……! だから、私は――!」

「しょ、しょうがないじゃないですかぁ……!」


 へらへらと、葛山先輩はにやけ笑いを浮かべる。


「だだ、誰だって命がかかってたら、自分優先なのは当たり前ですぅ……! へ、へへっ……それが普通っていうか、別に責められる謂れはないですよねぇ……! ――そう、緊急避難! 緊急避難ってヤツですよぉ、これぇ……!」

「言わせておけば――!」


 北条先輩が間に入った俺を押しのけ再び手を振り上げると、葛山先輩は「ヒィッ!」と情けない悲鳴を上げて縮こまった。

 その手が振り下ろされる寸前――俺は、北条先輩の手首を掴んで止めた。

 葛山先輩が潤んだ目で俺を見上げ、北条先輩が「止める気?」と横目で俺を睨む。

 俺は、そんな二つの視線から逃げるように目を閉じた。

 北条先輩の怒りは理解できる。自分まで死ぬかもしれないところだったのだから。

 しかし、それはひとまず置いておく。


(俺の……これはどういう感情だろう)


 檜垣先輩ほど、葛山先輩のことを考えていた人間はいなかった。

 彼女の肉親と同じくらい――いや、それ以上に彼女を愛していたはずだ。

 そこまで愛されておきながら情の一欠片も感じることなく、一顧だにせず、躊躇いもなく、自己保身のみに邁進できる人間がこの世に存在するなんて、にわかには信じがたかった。俺自身、愛情が深い方だという自覚があり、檜垣先輩の葛山先輩を想う心に共感シンパシーを感じていたからこそ、余計にそう思った。

 そもそも、檜垣先輩が下山すると言い出したのだって、葛山先輩のためだろうに……。


(ああ……こんなこと、檜垣先輩は望んじゃいないだろうな)


 だが、いつの間にか檜垣先輩の存在は俺の中で殊のほか大きくなっていたようだ。

 葛山先輩の卑屈に歪んだグロテスクな面を眺めていると、どうにも我慢が利かなかった。


「と、透く――んぶぅっ!」


 俺は葛山先輩の頬を張った。

 この惨劇から生き残ったとして、彼女の魂が救われることはないだろう。

 ある意味、殺人よりも罪が重いかもしれないことを彼女はやってしまったのだ。


「貴方は……生き残りました。これから先、何十年と続く人生の中で再び得られるか分からないほど大きな愛を代償にして」


 支払った代償の大きさは、後になればなるほど彼女の人生に重くのしかかってゆくことだろう。例え、緊急避難が適用されようと、その事実は変わらない。

 だから、これ以上彼女を責める必要はない。

 そして、そんな権利はこの世の誰にもないのだ。

 俺が頬を張ったのは罰を与えるためではなく――ただの、八つ当たりだ。

 弱々しく啜り泣きを始めた葛山先輩と、未だ憤懣やるかたない様子の北条先輩を引き剥がし、俺は皆に呼びかける。


「この件は、これで終いです。断罪の必要はありません。なぜなら、『殺人はこれ以上起こらない』からです。内部分裂を引き起こすような振る舞いはなるべく避けましょう」


 纏め役だった檜垣先輩がいなくなってしまった今、皆の心がバラバラになってしまうことが一番怖い。なので、僭越ながら俺が新たなリーダーとして音頭を取らせてもらう。


「それ……『殺人が起きない』ってやつ、さっきも言ってたよね? そろそろ詳しく説明してほしいんだけど……」


 二宮の控えめな要望に応じて、俺は『予定外の殺人』について話し始めた。


「檜垣先輩は、この殺人を予期していました」


 俺は、犯人が首輪に記録される『履歴』を失念していた可能性、そのために『予定外の殺人』に及ぶ必要性が生じたこと、そして――その殺人は終わったことを説明した。


「つまり、犯人は檜垣先輩を殺して別の首輪を確保できたわけですから、もう殺人は起こらないという推理です」

「一つ、良いかい?」


 雨沢が小さく声を上げる。


「それって、全て内部犯を前提とした推理……だよね?」

「そうだが……何が言いたい?」


 俺が苛立ちまじりに雨沢を睨み付けると、雨沢はうろたえながら答えた。


「え、いや……外部犯の可能性は本当にもうないのかな、と思って……さ。余計なこと言ったかな……ごめん」


 ああ、全く。

 余計なことを言いやがって。


(……1%だ)


 外部犯やにょげんさまの可能性は現状でも1%くらいはあると俺は見ていた。

 俺の心には、その拭いきれない1%の不安が常に付き纏っていた。


(リーダーを気取るなら、この不安を皆には悟られたくなかったんだが……)


 明らかに、俺の態度を見た皆に動揺が広がってゆく。リーダーは常に堂々としているべきだと思っているが、やはり小心者で神経質で怖がりな俺のこと、心中の不安がどこからか滲み出てしまっているのだろう。その伝播は、もはや留めようがない。


「……外部犯の可能性は極めて低い、と思っている」


 重く沈んだ空気の中で、俺の言葉が寒々しく響いた。

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