第27話

 雨の中、一時間ほど歩いただろうか。

 その間に雨雲は更に厚さを増し、辺りはもうすっかり真っ暗闇となっていた。

 星の光も、月の光も、ここには一切届かない。

 心を蝕むような暗闇を懐中電灯の頼りない光で照らし出し、雨でグチャグチャになった山道を少しずつ慎重に進んでゆく。

 やがて、暗闇の中にぼうっと白い光が浮かび上がってきた。


(あれは――ペンションの窓から漏れる室内灯の光だ!)


 誘蛾灯に惹かれる羽虫のようにその光を目指し、俺たちはようやくペンションの裏手へと辿り着いた。

 ペンションの白塗りの壁を見た途端、別に我が家というわけでもないのに胸中に安堵が広がるのを感じた。示し合わせたわけでもなく、二人の歩調も緩やかなものになってゆく。

 その時、気が緩んだのか俺の腹がグゥと鳴った。

 そういえば、襲撃を受けたせいで昼飯を食べ損ねていた。腹を押さえて少し顔を俯けると、下から悪戯っ子のような笑みを浮かべた雨沢が覗き込んでくる。


「ふふっ、こんな時でもお腹は空くものなんだね」

「生理現象だ。からかうなよ」


 雨沢はくすくすと童女のように笑った。


(……少しは、いつもの調子に戻ったか?)


 崖下で俺を起こした時の雨沢は、かなり追い詰められたような顔をしていた。

 このまま持ち直してくれると良いのだが……と思った、その時。


「――開けてぇ! お願いぃぃぃ!」


 必死の叫び声と、ドンドンと強かにドアを叩く音が雨中に響き渡った。

 弛緩しかけていた体が再び一瞬で強張る。


「葛山先輩の声だ!」


 声は、表の正面玄関の方から聞こえていた。

 俺たちは互いに顔を見合わせ無言で通じ合うと、急いでペンションの表へ回り込んだ。


「助けてぇ! 助け――ヒィィッ!」

「落ち着いてください。俺です、透です。雨沢も一緒にいますよ」


 俺たち同様、濡れ鼠となった葛山先輩が、怯えきった様子でペンションの玄関ドアにへばり付いていた。そこに、共に下山したはずの檜垣先輩と北条先輩の姿はない。


「……葛山先輩、何があったんですか?」

「お、襲われたのぉ……変な、変な奴に襲われたのぉ……!」

「変な奴? それって――」


 その時、もたれかかる葛山先輩を押しのけるようにして玄関ドアが少しだけ開いた。


「三人とも早く中へ入りなさい」


 ドアの隙間から、オーナーのしわくちゃな顔がにゅっと飛び出してくる。

 思考が纏まらずぐちゃぐちゃだが、俺の最優先事項はいつだって二宮だ。俺は右脚が折れていることも忘れて、前につんのめりながらオーナーに訊ねた。


「オーナー! あの、二宮は……!?」

「二宮……あの子か? さっきまで食堂でアンタらを待っていたが、体調が悪そうだったから二階へ上げたぞ」


 それを聞いて、俺はほっと息を吐いた。


(二宮は生きている……!)


 つまり、襲われたのは檜垣先輩か北条先輩のどちらかということになる。

 不謹慎かもしれないが……俺は、その事実に安堵した。

 いくらかの落ち着きを得て、冷静な目でちらと葛山先輩の様子を窺う。今の彼女は、話ができる状態になさそうだ。詳しい話は、もう少し彼女が落ち着きを取り戻してからの方が良いだろう。

 ひとまず、濡れた体をなんとかしようということになり、俺たちはペンションに上がって各々の部屋へ向かった。

 濡れた体を拭いて乾いた服に着替えた後、右脚の急ごしらえな添え木を外し、オーナーから借りた救急箱の包帯で巻き直す。本当ならゆっくり温かいシャワーも浴びたいところだが、それは後にしよう。

 ペンションまでの道中、最後まで包帯の代わりを全うしてくれた雨沢の服を持って部屋を出ると、いきなり誰かが俺に抱きついてきた。


「――透っち!」


 それは二宮だった。彼女は啜り泣きの声を上げながら、俺の胸元に縋り付く。


「生きててよかった……透っち、全然帰ってこなかったから、あたし……心配して……」


 心配したのは俺だって同じだ。

 しかし、今は何も言わず彼女の気が済むまで吐き出させた方が良いだろう。


「あたしが体調不良なんかになったせいで、透っちも殺されちゃったのかなって……あたし、一人ぼっちになっちゃったのかなって……ずっと、不安で……!」


 視界の端で、いつの間にか部屋から出てきていた雨沢が、俺の手から服を回収しつつ「慰めてやれよ」とでも言わんばかりに顎をしゃくった。そんなこと、言われるまでもない。俺は、二宮を優しく抱きしめ返した。


「あたし、無理だけはしないで、って言ったのに……! こんな、骨折までして……」


 向こうから襲ってきたのだから仕方がないだろうという言葉を飲み込み、俺は彼女を安心させるために優しく声をかけた。


「心配かけて悪かった……。でも、殺人はこれで終わるはずだ」

「えっ……それってどういうこと……?」

「詳しくは皆がいる時に話す。先に夕食を取ろう。昼を食べ損ねたから腹が減ってるんだ」


 すると、タイミング良く再び俺の腹がグゥと鳴る。

 それを聞いた二宮は涙ぐみながらもくすりと笑った。


(そうだ。お前に泣き顔は似合わない)


 少し和やかになった雰囲気を感じながら、俺たちは食堂へ向かった。

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