第四章 木曽山川源流覚書
第26話
第四章 木曽山川源流覚書
「――る! ――きて!」
誰かの声が聞こえる。
聞き覚えのある、女性の声が。
それは水中で聞く音のように不鮮明で、ハッキリとは聞き取れない。
(……誰かが……俺を呼んでる?)
声を頼りに、俺の意識は暗闇の底から徐々に浮上し始めた。
それに伴い段々と声も鮮明さを増してゆく。
「――起きて! 透!」
「うっ……雨沢……?」
意識を取り戻してまず感じたのは、全身に降りかかる冷たさだった。どうやら、今はどしゃぶりの雨模様らしく、木陰にいる俺たちへも大きな雨粒が容赦なく降り注いでいた。
雨沢は、その端正な顔を涙でぐしゃぐしゃにして俺の顔を覗き込む。
「そうだよ、ボク……雨沢雫だよ! 分かるかい!?」
「ああ……」
「良かったぁ……!」
そう言って、雨沢はひっしと俺の胸元に抱きついてきた。
(……確か、崖から転げ落ちたんだよな)
まだ頭が少しぼんやりとしているが、記憶が確かなら五十メートル近くは落ちている。
命があっただけ儲けものだろうと、変な方向に折れ曲がった自分の右足首を見ながら思った。脳内物質が出ているのか、あまり痛くないのが逆に怖いところだ。右脚以外にも全身怪我だらけで、少し動くだけで筋肉と骨が悲鳴を上げているのが分かる。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
(あれは……にょげんさま、だったのか?)
だとしたら、あんなものを相手にどう戦う。
逃げるにしても、この脚では簡単に追いつかれてしまうだろう。
そもそも、なぜ雨沢は助かったのか。完全に背後から取り付かれたように見えたが……。
(まさか、イワタバコの効力だとでも……?)
――馬鹿が、何を血迷っている。
にょげんさまなんているわけがない。あんなものは犯人の小癪な演出だ。
冷静に分析するなら、『にょげんさま』とはこの山に発生しがちな霞への注意喚起を促す
そのために生まれたのが『にょげんさま』だ。
水を嫌うという弱点は、水の流れる場所が必ず谷底であるからだ。イワタバコという水場に生える野草を嫌うというのも同じ理由だ。霞が晴れるまで谷底でじっとしていれば、視界不良で滑落することはまずない。
俺は、頭を振って非現実的な空想の数々を振り払った。
「……雨沢、ペンションに戻ろう。残してきた二宮が心配だ」
落ち着いてきた様子の雨沢に離れてもらい、携帯の割れたロック画面を確認する。現在時刻は十四時。崖から落ちたのは昼前――大体、十一時くらいだったから、俺は三時間近くここで眠りこけていたことになる。その間に、空は雨雲で覆われ辺りはすっかり薄暗くなっていた。だが、幸いにして懐中電灯はまだ動く。視界はギリギリ確保できるはずだ。
木の幹に手をついて立ち上がろうとした俺を、雨沢が慌てたように制止する。
「ま、まだ動かない方が……それに、助けが来るまでここでじっとしていた方が安全だよ! きっと、下山した檜垣さんたちが助けを呼んできてくれるはずさ!」
「いや……たぶん、もう殺人は起こらない」
「ど、どういうことだい……?」
俺は、檜垣先輩の予期した『予定外の殺人』について雨沢に教えた。
「……恐らく、殺人は既に起こってしまっている」
なぜ俺たちは死んでいないのかと考えた時、俺はその結論に至った。
『犯人はオメェを殺さない』
檜垣先輩が何に気付いたのか。まだ、そこまでは至れていないが、恐らくあの何かに雨沢が襲われながらも助かっているのは、犯人が俺を殺さない理由と何か関係があるような気がする。
となると、殺すつもりもないのにわざわざ犯人が俺たちを襲った目的は何か――。
「犯人は俺たちを足止めしたかった……そうは考えられないか?」
或いは、人知の及ばぬ怪異の存在を仄めかしたかったのかもしれない。
内部犯へ向きつつある容疑を少しでも外へ逸らすために。
「……そうかも、しれない」
「なら、もう殺人は起こらない可能性が高いってことも分かるはずだ」
もし、俺が気絶している間に『予定外の殺人』が行われてしまったとするなら、犯人は既に犠牲者の首輪を手にしているはずだ。その首輪を自分の首輪と付け替えれば、履歴は誤魔化すことができる。
つまり、犯人には更なる殺人に及ぶ動機がない。
無論、これは全て犯人が内部犯であることを前提とした推理にはなるが……。
「ペンションに戻ろう。首輪目的なら殺すのは一人だけで良いわけだから、他に生存者がいるはずだ。彼らと合流し、共に今後の方策を練りたい」
今の言葉も本音といえば本音だが、実際は一刻も早く二宮の無事を確かめたいというのが一番だった。彼女を一人ペンションに残してきたせいで殺されたとなっては、俺は自分で自分が許せない。
「ちょ、ちょっと待ってくれるかい? 一度に色々言われて、まだ頭の中で情報の整理が付いてなくて……」
「……待つよ」
本当は急かしたい気分だが、この場合は逆効果だろう。
雨沢は、辺りを歩き回りながら暫し考え込んだ後、決心したように「うん」と頷いた。
「……分かった。そういうことなら、ボクも一緒にペンションへ戻る。ここに一人残される方が怖いし……」
そう言いながら、彼女は羽織っていた薄手のアウターを脱ぎ、それを使って俺の折れた右脚に添え木をしてくれた。
「そのままだと動きにくいだろう? 見様見真似だけど……」
立ち上がり、無事な左脚で軽くジャンプしてその具合を確かめてみる。即席の応急処置にしては、存外に具合は良かった。雨沢はアウターをかなり固く結んでくれたらしく、激しく動かなければズレることもなさそうだ。
「ありがとう、雨沢。良い感じだよ」
礼を言いながら、俺は改めて雨沢を見つめた。
(その目、信じて良いんだよな……?)
先程に見た宙に浮かぶ無色透明の人面は、水を操る雨沢の異能〔
(……しかし、雨沢はにょげんさまの身体が霞で出来ており、『霞天狗』の異名を取ることを知っていたのか?)
俺と柊先生が祠で会話していた時、雨沢は遠く離れた木陰でダウンしていたはずだ。別にやましいことがあったわけでもないから声量などには気を遣っていなかったが、会話の聞こえる距離ではなかったように思う。
(しかも、あの人面のディティールはかなり細かかった)
普段、雨沢は単なる球の形でしか水を扱わない。そして、それは『普通の異能者』ならば当たり前のことである。人面のような凝ったディティールを〔
(やはり……【内部犯説】の最大のネックは『覚醒』についてだな……)
それに、まだ外部犯の可能性だって完全に消えたわけではない。
(確たる証拠もない以上、今のところは雨沢を信じるしかない……か)
仮に雨沢が犯人でも、証拠がなければ裁判にかけても罪に問うことはできない。
そして、仮に証拠があったとしても、この状況では真っ向から糾弾することもできない。
実力行使に出たとして、恐らく覚醒者である犯人に対し、こちらは異能を使うことすらできないのだから、策を練らねば赤子の手をひねるように殺されて終わりだ。
(……これなら、にょげんさまが犯人だって方がよっぽどやりやすい……)
オカルト的な対策を打って、後はオーナーよろしく祈っておけば良いのだから。
僅かな逡巡の末、ひとまずは雨沢のまっすぐな瞳を信じることにした。
そして、添え木のお礼というわけではないが、俺はジャージの上着を脱いで雨沢の肩にかけてやった。彼女は照れくさそうにジャージの端をキュッと掴んで引き寄せる。
「別に、服ぐらい良いのに……」
「透けてるぞ」
「っ……エッチ」
俺たちは互いに顔を見合わせ笑い合った。
一瞬緩んだ空気が流れたが、俺はすぐさま意識を切り替えて周囲の状況を観察する。
崖肌には、上から下までまっすぐ線を引いたような滑落の痕跡が二本残っていた。
一つは俺たちのいる場所のすぐ側に、もう一つは少し離れたところに。
前者は俺たちが、後者は柊先生が滑落した跡だろう。
(柊先生の方も気になるが……今はペンションへの帰還を優先しよう)
滑落の痕跡を辿って登れば、元の道へ復帰することができるだろう。
だが、右脚の骨折がなくとも、この急峻な崖を道具なしで登れそうにはなかった。
(回り道をするしかないか)
そう考えると、崖が急峻であることは不幸中の幸いと言えた。急峻ゆえに木や草などが崖肌にあまり生えていないので、下からでも滑落前の道がある程度目視できる。そのおかげで方向感覚は失っていない。
現状把握も終わったところで、俺は懐中電灯を付けて一歩踏み出した。そこへ、すかさず雨沢が駆け寄ってきて俺の肩を下から支えてくれる。慎ましくも柔らかな感触が、俺の脇腹に当たった。
「無理しないで、ボクが支えるから」
「……悪いな。そっちは、怪我とかないのか?」
「うん。もしかしたら骨にヒビくらいは入ってるかもしれないけど……その程度だよ。キミが身を挺して庇ってくれたおかげでね。といっても、それでも雨が降ってくるまではボクも気を失ってたみたいだけど……」
俺はバランスを取るために軽く雨沢の肩を掴んだ。
(細い肩だ……少し力を入れただけで折れてしまいそうなほどに……)
そうだ、ここには雨沢もいるのだ。
ゆっくり、慎重に行こう。
まずは二人で無事にペンションへ戻る。
話はそれからだ。
「行こう」
「うん」
俺たちは、まるで最初から三本足の一個の生命体だったかのように、息を合わせて未開拓の薄暗い山道を進んでいった。
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