第25話

 祠を目指し、俺たちはペンション裏から獣道に入った。

 軽装の雨沢に代わって俺が先導して道を整えてやりながら昨日と同じ道を進む。


「……曇ってきたね」


 頭上にはちらほらと雲が増え始めていた。


「そうだな、急ごう」


 行きと帰りを合わせても道中でかかる時間は三十分前後。捜査は軽く済ませる予定だから、その時間を含めて多めに見積もっても、一時間ぐらいあれば昼までに帰ってこれるだろう。そうそう昨日のような大雨には降られないはずだ。

 昨日休憩したところから少し進むと道幅の狭い道に入る。左手側には高い崖が壁のように立ちはだかり、右手側にもまた急峻な崖が遥か下方まで伸びている。謂わば、階段と階段の間にある「踊り場」のような隘路を、山腹を巻くように行く道だ。


「滑落にだけは気を付けよう」


 俺は雨沢に注意を促しながら、慎重に歩を進めた。

 程なくして、進行方向に何かが落ちていることに気が付いた。


「あれは……」


 見覚えのあるリュックサックだった。辺りをよく見回してみると、斜面の下の方にこれまた見覚えのある荷物が散乱しているのが見えた。近付いて確かめるまでもない。あれは柊先生の荷物だ。


(柊先生は荷物を持って来た帰りに、ここで……?)


 どうにか斜面を下りられないかと考え始めたその時、じっとりとした不快な感触が俺の手を包んだ。驚いて振り返ると、汗ばんだ雨沢の手が俺の手を掴んでいた。


「雨沢? どうし――」

「しっ!」


 雨沢は人差し指を口に当てて俺の言葉を遮った。そして、滝のように汗を流しながら、まるで誰かに追われているかのように、忙しなく右へ左へ首を振る。つられて俺も辺りを見回してみたが、周囲には何の異常も見られない。ただ、風が強いのか木々や草花が気持ち激しくざわざわと揺れている程度のことだ。

 俺は雨沢を脅かさないようにゆっくりと振り向いて、彼女の手を優しくほどいた。


「雨沢、不安なのは分かるが……誰もいやしないぞ。何かいるように見えても、それはきっと木々のざわめきか何かだ」

「キ、キミは感じないのか……?」

「……なにを?」

「気配だよ!」


 そう叫んだ雨沢の顔には鬼気迫るものがあった。土手っ腹にナイフや拳銃を押し付けられていたら、人はこんな顔をするかもしれない。そんな、差し迫った危機に直面した人間の顔……。


「ずっと付いてきてる! ボクだって最初は勘違いだと思ったさ! でも、確かにボクたちの側を何かがピッタリとくっついてきてるんだ!」


 灰色の雨雲が、天を覆い隠す。

 ――それが合図だった。


(何か、来る……?)


 それは唐突に訪れた。


«……――キィイイイイィェェエエアアアアアァァァアア――……»


 山鳴りのような、得体の知れない獣の叫声のような、とてもこの世のものとは思えない怪音が耳をつんざいた。

 ここで俺もようやく知覚する。

 その濃密な存在感、その気配を。

 ――何かいる。

 目に見えない何かが、確かにこの場にいる。

 非現実的な可能性――だが、俺はその存在にどうしようもなく心当たりがあった。


(にょげん……さま?)


 ありえないと即座に否定するも、理性は怯える心を律することはできなかった。

 恐怖で身体は強張り、思考は迷走する。


『にょげんさまは人を喰う』


 まさか、俺を食いに――そんなわけがない!

 気のせいだ――本当に?

 怖い――怖くない! 


 非生産的な自問自答の堂々巡り。怪談を聞かされた俺が陥る、いつものお決まりの思考パターンだ。一度こうなったら、抜け出すには時の流れが恐怖の記憶を薄れさせるのを待つしかない。

 その時、すっかり意識の外に追いやられていた雨沢が悲鳴を上げた。


「う、うわああああああああああ!」

「――雨沢!?」


 いきなり、雨沢はもと来た方へ走り出した。まるで迫りくるから逃げ出すかのように。俺は「危ないぞ!」と制止の声をかけようとした。

 だが、それは未然に終わる。

 雨沢の方を振り返ったその瞬間に――俺は見た。

 俺の隣を鳶のように追い越してゆく、無色透明な人面を。


「きゃあっ!」


 背後からにぶつかられた雨沢が、悲鳴を上げて狭い道の上でよろける。彼女は蹈鞴を踏んでもがき、左手に持っていたイワタバコの花束をに押し付けた。


«……――キュアアア――……»


 再び怪音が響くと同時、雨沢の体が大きく弾かれ、落ち葉のように宙空を舞う。

 ――落ちる!

 激しいデジャヴに襲われ、考える前に体の方が先に動いた。


「雨沢――ッ!」


 俺は、崖を転げ落ちてゆく雨沢に飛び付いた。この狭い足場の上では、彼女を引き上げるような余裕はなく、庇うように固くひしと抱きしめるのが精一杯だった。

 あえなく、俺たちは諸共に一つの塊となって崖を転がり落ちてゆく。

 回転する視界の中で俺は必死に崖肌を探し、どうにか石や木の幹を掴んでブレーキをかけようとした。だがその最中、不意に後頭部へ強い衝撃を受けた記憶を最後に、俺の意識は深い暗闇の底へと落ちていった。

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