第三章 既知の襲撃者
第16話
第三章 既知の襲撃者
カーテンの隙間から降り注ぐ朝陽の光で俺は目を覚ました。
首をもたげて枕元の置き時計を確認すると、時刻は午前五時だった。あれから二時間しか眠れていない計算だが、不思議と疲労感はなかった。どうやら危惧したような犯人の襲撃はなく、無事にサマーキャンプ三日目の朝を迎えることができたようだ。
俺は、自分の腕に絡み付く雨沢を見やった。
(雨沢も……眠れたみたいだな)
あんな事件が起きた直後とは思えないほど、雨沢は穏やかな寝顔をしていた。それを見ていると、昨日彼女を跳ね除けなかった判断は正しかったのだと思えた。
窓に手を伸ばし、静かにカーテンを開ける。どしゃぶりだった雨はすっかり上がっており、薄く烟る霞の向こうでは野鳥が鳴いていた。そんな平和そのものと言って良いような景色を眺めていると、根拠もなく「もう大丈夫なのではないか」という思いがしてくる。
だが――やはり、そんなものはただの錯覚に過ぎないのだった。
「キャ、キャアアアアアアア!」
突如として、絹を裂くような悲鳴が響いた。
(今の声――北条先輩か!?)
俺は、未だスヤスヤと眠りこける雨沢を引き剥がして、すぐさま部屋を飛び出した。
廊下に出ると同時、西隣の部屋のドアも開いた。そこは二宮の部屋――二宮は、北条先輩と同じ最後の見張り役だったはずなので、彼女も悲鳴を聞きつけて出てきたのだろう。
(良かった、二宮は無事か!)
ドアの隙間から顔を覗かせた二宮とアイコンタクトを交わしてから、俺は北条先輩の部屋を乱暴にノックした。
「大丈夫ですか!? 北条先輩!」
ガチャリ――と、ドアから解錠音が鳴る。
俺は一も二もなくドアを開け放って、その中に飛び込んだ。
「一体、何が――!」
北条先輩は窓の外を指さしていた。
小さく震えるその指の先には――柊先生がいた。
物言わぬ死体と化した、柊先生がいた。
ペンション前の広場の向こう、一際大きな針葉樹の木に寄りかかるようにして、柊先生は立っていた。窓辺に寄ってよく見ると、前頭部に火かき棒が突き刺さっており、彼女は呪いの藁人形の如く木の幹に打ち付けられているのだと分かった。
(あの火かき棒……確かBBQの時に使ったものだ)
火かき棒は、本来は食堂の暖炉の灰を掻き出す際に使われていたもので、BBQの時にも炭をいじるのに使わせてもらった。BBQの片付けは南先輩の捜索が始まったせいで中途半端なところで切り上げられたため、あの火かき棒も恐らくは広場に放置されていたものだろう。
その時、不意に北条先輩が俺の手をガシッと掴んだ。
「な、なんか……枝葉の向こうに人がいるような気がして……でも、霞の向こうで、よく見えなくて、だから見間違いじゃないかって……でも、朝になって霞が晴れ始めて、朝陽がさして、見えるようになって……!」
「北条先輩、もう大丈夫ですよ。とにかく、あれは犯人ではなさそうですから、落ち着いて。後は俺たちに任せて少し休んでいてください」
激しく狼狽する北条先輩をベッドに導き、俺は部屋を出た。そして、見張り役だった二宮と、俺と同じく悲鳴を聞き付けて起き出してきたらしい他の面々と合流する。
「どうします?」
「……見に行かないわけにはいかねえだろ」
それもそうだ。特に反対意見も出なかったので、北条先輩以外の全員で柊先生の死体を検分しに行くことに決まった。
「とにかく、これで柊センセーを疑わなくてよくなった……それだけは喜んで良い。犯人は、外部犯――『容疑者X』だ」
皆に言い聞かせるように、檜垣先輩はそう言った。
うっすらと霞の烟る外へ出ると、こちらも騒ぎを聞きつけたのかオーナーが柊先生の死体の前で手を合わせて拝んでいた。
「ああ、にょげんさま……! どうか、この者の尊き血でお静まりくだされぃ……!」
相変わらずの様子だ。俺たちはオーナーを無視して柊先生の死体を観察した。
柊先生の格好はペンション前で別れた時と同じ、動きやすそうなスポーティーな服装のままだった。ただ、その全体はボロボロになっており、ところどころ繊維が解れている。そして、取りに行ったという荷物はどこにも見当たらない。
死体は、全身がずぶ濡れだった。雨の中に随分と長いこと放置されていたのか、地面にも体にも血の跡が全くと言って良いほど残っていない。さながら、猟師が獲物を取った後に放血をするように、傷口から死体の血液が雨で流されていったのだろう。
血の気を失い青ざめた肌には、打撲や骨折、切り傷などが散見される。犯人と争った時、或いは逃げ回った時に付いたものだろうか。だが、見る限りどれも致命傷には至りそうもない小さな傷だ。恐らく、頭に突き刺さっている火かき棒が致命傷となったのだろう。
衣服のポケットを漁ると、小銭、ゴミ、バス移動の際に途中で寄ったサービスエリアのレシート、そしてペンションの部屋の鍵が出てきた。
(……鍵がある?)
無骨なキーホルダー付きのシリンダーキーだ。
普通のホテルの場合、こういうシリンダーキーはセキュリティの観点から外出時にはフロントに預けるのが一般的だ。
しかし、このペンションではそういう厳密な鍵の管理は行っていない。個々人がペンションの中でも外でも自由に鍵を持ち歩くことができる。
外部犯ならそのことを知らなくても無理はない。
だが、もしこれが内部犯による犯行ならば、この鍵は殺人の順序を知る上で重要な手がかりとなるだろう。
「あぁっ……!」
不意に声を上げたのは葛山先輩だ。彼女は、あわあわと柊先生の手元を示した。
「な、なにか『紙』みたいなのが左手の中にあるよぉ!」
俺たちは一斉に柊先生の左手に注目した。すると、指の隙間から『紙』のようなものが僅かに飛び出しているのが見えた。
俺たちは、とにかくその紙のようなものを取り出してみることにした。
柊先生の手は死後硬直により固く結ばれていたが、俺と檜垣先輩で強引にこじ開けると、少しずつ隙間が広がっていった。ある程度広げたところで、俺が出てきた紙の端っこを指先で摘み、〔
出てきたのは一枚の紙きれだった。手の中に握り込まれていたこともあって全体がくしゃくしゃだ。だが、そのおかげであまり濡れておらず、大きく形が崩れてはいないし、書かれている文字も少し滲んではいたが問題なく読み取れた。
『祟り神の抜け殻はどこへ行く?』
走り書きの字だったが、内容はこれで合っているはずだ。
(これは――ダイイングメッセージ!?)
そして、俺はその中の『祟り神』というワードに聞き覚えがあった。
「これは恐らく……俺に向けて書かれたものだと思います」
本当か、と皆が俺の言葉に食いつく。
「柊先生と『祟り神』の話をしたのは俺だけでしょうから。もし、他にもいるならこの場で教えてください」
皆の顔を見回してみたが、俺の他に名乗り出るものは誰もいなかった。
「なら、このメッセージの意味が分かったのかよ!?」
檜垣先輩が前のめりになって聞いてくる。
期待してくれているところ大変申し訳ないが、俺は首を横に振らざるを得なかった。
「……すみません。引っかかるものはあるんですが、今はなんとも」
祟り神……というのは、にょげんさまのことだろうか?
だとしたら、意味が分からない。にょげんさまの別名は霞天狗、それは身体が霞でできていることに由来するのだから、抜け殻なんて存在しないはずだ。そして、その抜け殻が行く場所というのも、まるでピンと来ない。
(せっかく、柊先生が何かを残してくれたというのに……!)
焦りと悔しさで歯噛みしながら、ダイイングメッセージの意味について必死に考えていると、葛山先輩がおどおどと思考に割り込んでくる。
「ちょ、ちょっと待ってぇ! もしかして、その紙は透くんが後から握り込ませたものなんじゃないのぉ……?」
いきなりのことに話が見えず、困惑気味に葛山先輩へ目を向けると、彼女は「うっ」と怯んで目を逸らしつつも続けた。
「だだ、だってぇ……! そんな都合よく、透くんだけ容疑が外れるようなことって、あるわけぇ……?」
「……死後硬直もありますし、死体に紙を握り込ませるのは容易じゃないと思いますよ。今も取り出すのに相当苦労したじゃないですか」
「いやいや、死んだ直後の死体は硬直してないはずでしょぉ? そもそも襲われながら文字を書くなんて絶対無理だしぃ……やっぱり、それは後から握り込ませた偽装以外にないよぉ!」
ダイイングメッセージの信憑性を疑うという試み自体は別に間違いではない。葛山先輩の言う通り、犯人の偽装という可能性は大いにある。警察の捜査においても、あまりダイイングメッセージを重要視しないと聞いたことがある。しかし、現時点で偽装だと断定するのは早計だ。
「襲われている最中に書いたとは限りませんよ」
「か、仮に襲われる前とか、一回逃げた時とかに書かれたものだとしてぇ……それが、どうして磔にされても死体の手の中に収まってたのぉ……?」
なるほど。死後硬直は死亡から二時間後にようやく始まるという。しかも、手足などの末端部位が硬直するのはかなり後の方だ。死体の運搬や磔にした時の衝撃で紙が手から零れ落ちなかったのは不自然だ、という指摘か。
なかなか鋭い指摘だが、ある可能性を見落としている。
「激しい運動の最中に死亡した場合、筋肉の弛緩が起こらずそのまま硬直することもあるそうです。『弁慶の立ち往生』や『木口小平の突撃ラッパ』などがそれだと言われています。死後硬直を理由に、ダイイングメッセージが偽装だとは言い切れません」
檜垣先輩が「強直性硬直だな」と補足してくれる。
「瞳。この段階で偽装と言い切るのは性急すぎやしないか?」
「……で、でもぉ、透くんの物を転移させられる異能なら、今みたいに手の中に紙を握り込ませることなんて簡単だしぃ……」
言われてみればその通りだ。ついつい俺自身の異能については推理から外してしまっていたが、確かに物を転移させる俺の異能〔
それにしても、葛山先輩は俺に強い疑心を抱いているようだ。
昨日は、それほどではなかったと思うのだが……。
とにかく、俺の無実は俺が一番良く知っている。皆が間違った方向へ行ってしまわぬように、ここはキチンと反論しておくべきだろう。
「そうですね。俺の異能なら手の中に握り込ませることは可能かもしれません」
「ほ、ほらぁ……!」
「では、こうしましょう。偽装か本物かが疑問なら、筆跡を見比べてみるというのはどうでしょうか。幸い、柊先生の部屋には参照できる手書きの文章が大量にありましたよね?」
『祟り神の抜け殻はどこへ行く?』
この紙に記された字のうち『の』と『ど』なんかはかなり特徴的な形をしている。柊先生の部屋から手書きの文章を持ってきて、筆跡を調べてみればハッキリするはずだ。
「そ、そんなのぉ……わたしたちは専門家でもなんでもないんだから、真似して書かれていたら分かんないよぉ!」
「うーん、確かに。この場での証拠能力には欠けますかね」
困った。このままでは埒が明かない。
言葉だけで無実を立証することは難しい。推定無罪の原則を唱えたところで、葛山先輩の疑心は晴れないだろう。何か、動かぬ証拠でもあれば……。
……ないものねだりをしても仕方がない。
俺は少し反論の切り口を変えてみることにした。
「しかし――そもそもの話、葛山先輩はなぜ俺をそんなに疑っているんですか。なにか他に根拠でもあるんですか?」
「じょ、状況証拠しかないけどぉ……透くんの異能なら殺害も解体もできるしぃ、人影も用意できるしぃ、アリバイとかも関係ないしぃ、昨日は内部犯をヤケに否定して異能を使えるようにもしたしぃ……そそ、それに、なんか妙に落ち着いてるのも怪しいよぉ!」
落ち着いている、か。それは極めて表面的で相対的な物の見方だ。俺だって人前にいる時は震える心を虚勢で塗り固めているだけにすぎない。それに、葛山先輩と比べたら誰でも落ち着いているように見えるだろう。
疑り深い彼女に苛立ちを覚えつつも、俺は努めて冷静に議論の流れを誘導してゆく。
「仮に俺が犯人だったとして、筆跡まで似せるほど苦労して作り上げたダイイングメッセージには、一体何が書かれていると思いますか?」
「……きっと、誰か別の人の名前が書かれているんでしょぉ……たぶん」
「その目的は?」
「決まってるでしょぉ!? その人を犯人に仕立て上げるためだよぉ!」
その言葉を待っていた。
「――気付いていますか。それは今、葛山先輩がやっていることそのものですよ」
そう言うと、葛山先輩はハッとして閉口した。そして、わなわなと口元を震わせたかと思うと、弾かれたようにペンションへ駆け込んでいった。
さて、小煩い葛山先輩を黙らせたのは良いが、これは事件の解決とは何も関係がない。
(なぜ柊先生はダイイングメッセージを暗号に……?)
葛山先輩との論戦の中で、彼女に言わせた『誰かの名前が書かれている』という言葉が頭に引っかかっていた。
(柊先生は、俺にのみ通じるであろう暗号を残した……何のために?)
もし、犯人が外部犯であるのなら、こんな小洒落た暗号なんて必要ない。もっとシンプルで直接的な警句で事足りるはずだ。つまり、逆に言えばこれは俺以外に秘す必要があるメッセージだということ。
(もしや、柊先生は内部犯だと言っているのか……?)
では、この暗号の答えは本当に『内部犯の名前』を示しているのだろうか。
『祟り神の抜け殻はどこへ行く?』
一通り生存者全員のフルネームを思い返してみても特に何も閃かない。
その時、檜垣先輩が「……悪いな」と、謝罪の言葉を口にした。
「檜垣先輩が謝ることじゃないですよ」
すると、檜垣先輩は心底申し訳なさそうに目を伏せて首を横に振る。
「いや、オレもペンションに戻る。だから……悪い。ここはオメェらに任せた」
予期せぬ言葉に、俺は暗号についての考察を一時中断しなければならなかった。
檜垣先輩は、その目元になみなみの情愛を湛えて言った。
「瞳には、オレが付いててやらないと駄目なんだ」
それは共依存気味ですよ、なんて安易に指摘できるような状況でもなかった。
「透。とりあえず、ダイイングメッセージはそのままオメェが持っとけ」
そう言い残して、檜垣先輩は俺たちに背を向けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます