第10話

 檜垣先輩が葛山先輩のもとへ戻ると、食堂は再び沈黙に包まれた。

 本降りになった雨の音、厨房から微かに聞こえる料理の音、そして古めかしい振り子時計の秒針の音だけが場を構成する全てだった。

 ふと、時計を見た。


(――午後六時?)


 振り返って窓を見ると、外はもう完全な真っ暗闇になっていた。まるで、このペンションだけが世界から隔離されてしまったかのような錯覚に襲われ、妙な孤独感に苛まれる。窓を叩く横殴りの雨粒だけが、外界の存在を証明する唯一の物証だった。


「先生は、まだ帰ってこないのか……?」


 柊先生と別れてから既に二時間が経過している。いかに雨が降っているからといって、一度行って帰ってくるだけであれば所要時間はやはり三十分程度。加えて、先生が祠へ向かった時は今ほど雨足も強くなかった。二時間だなんて、それほどの時間がかかるものだろうか。


「まさかぁ……先生も遭難しちゃったんじゃぁ……!」

「嘘だろ? 注意した本人が二次遭難してんじゃ世話ないぜ……!」


 参ったな、檜垣先輩のおかげで軽減した不安がまたぶり返してきてしまった。


「……生徒さんたち」


 オーナーが、夕食を載せたトレーを手に厨房から出てくる。


「これを食べたら今日のところはもう寝なさい。こんなに暗くなってからじゃあ、捜索も救助もろくすっぽできやしない。なに、あの先生の言う通り夏だからそうそう死にはしないだろう。こんな大事になるとは思ってなくて少し遅くなってしまったが……これから救助要請もする」

「え、でも、どうやって救助要請を……? ここは電波が入らないんでしたよね?」


 聞くと、オーナーは食堂の隅にあるレトロな黒電話を指し示した。


「電話線は通っとる」

「えっ!?」


 と、食堂の外から驚きの声が上がる。見ると、声の主はちょうど今、二階から下りてきた北条先輩だった。彼女は必死の形相でオーナーに詰め寄る。


「あの、それホントですか? 借りて電話しても……」

「……この雨では、いつ救助要請を出しても到着は明日以降になるだろう。儂は二階の生徒さんたちを呼んでくるから、その間、好きなように使うといい」

「ありがとうございます!」


 北条先輩は喜び勇んで黒電話に飛びついた。彼女もまた心に不安を抱えていたのだろう。南先輩がどこにもいないと判明してから、随分と落ち着かない様子だったから。

 俺も後で家族に連絡しておこうかなんて考え始めたその時、北条先輩が困惑気味に耳から受話器を離した。


「あれ……通じない?」

「なに?」


 二宮用だろうトレーを持って食堂を出ていこうとしていたオーナーが、クルリと踵を返して黒電話を調べに向かう。そして、はっと息を呑んだ。


「……電話線が切られている」


 無惨にも引き千切られた電話線を見て、俺たちは遅まきながらようやく理解する。

 これは決して不幸な『事故』などではなく、確実に何者かの意思が介在する『事件』であることを。


「キャアアアアアアアア!」


 惨劇の始まりを告げる叫声が強かに俺たちの耳朶を叩いた。

 悲鳴を聞いた俺は弾かれたように食堂を飛び出し、二階へ続く階段を駆け上がった。正義感や義憤に駆られての行動ではない。ただただ不安だったのだ。一秒でも早く悲鳴を上げた彼女の無事を確かめなければ気が済まなかった。

 俺は一目散に二宮の部屋へ向かい、そのドアを叩いた。


「二宮、大丈夫か!?」

「と、透っち……?」


 消え入りそうな声だったが、返事があるということはひとまず二宮は無事なようだ。


「ああ、そうだ。俺だ。透だ。何があった?」

「い、いま、外に変な『人影』が……それで、あたし……驚いちゃって……」

「何だって……人影!?」


 俺は、最初に追いついてきた檜垣先輩と顔を見合わせる。不安と自信の綯い交ぜになった彼のまっすぐな瞳が、俺の心をいくらか落ち着けてくれた。

 深呼吸をして、俺は二宮に訊ねる。


「二宮、そいつはまだ外にいるのか?」

「い、いや……でも、見間違いだったかも」

「大丈夫だ。それでも責めない。そいつはどこへ行ったか分かるか?」

「こ、小屋……みたいなところに入ってった……」

「小屋?」


 二宮の部屋は裏口側に位置しているため、その窓も裏口側に面している。

 俺は、ペンションの裏手に小屋があったかどうかを思い出そうとした。だがその前に、追いついてきた残りの集団の中にいたオーナーが「倉庫ならある」と答えた。

 すると、それを聞いた檜垣先輩が何か思い付いたような顔をする。


「もしかしたら、センセーかセンパイかどっちかが帰ってきたんじゃねえか? ここまで来るのに力を使い果たして、雨宿りのために手近な建物――つまり、その倉庫に入ったんだ! 変な人影ってのは……まあ、怪我でもしてたんだろ」

「しかし、倉庫には儂がしっかりと鍵をかけておいたはずだが……」

「人間、忘れることだってあるぜ!」


 それもそうだ。それに、ここで意味のない議論をしている時間ももったいない。


「とにかく、その点も含めて実際に行って確かめてみませんか? 見間違いなら見間違いで、それでも良いじゃないですか。この雨と暗がりでも見える倉庫までなら、そう距離は遠くないはずでしょう?」


 俺の提案に、オーナーを含むその場の全員が同意した。

 懐中電灯が三人分しかなかったので、倉庫に行く人員は必然的に案内役のオーナーと、男手である俺と檜垣先輩に決まった。俺たちは傘を差して裏口から暗闇の中へ出発する。


「倉庫はこっちだ」


 足の早いオーナーに置いていかれぬよう、俺と檜垣先輩はどしゃぶりの雨に身を濡らしながら付いてゆく。横殴りの雨に対して傘は全くの無力だったので、途中で閉じて壁にたてかけた。北西方向へ二十歩ほど行ったところで、倉庫の輪郭が徐々に暗闇の中から浮かび上がる。倉庫は、白塗りのペンションと違って地味な色合いをしていた。道理で印象が薄かったわけだ。

 オーナーが懐から鍵を取り出して入口に向かう。

 だが――その鍵が使われることはなかった。


「鍵は……開いているようだ」

「ほらな! やっぱり閉め忘れてたんだよ!」


 オーナーは釈然としない顔をしながら出したばかりの鍵をしまい、グッと力を込めて横開きのスライドドアを開いた。


「うっ……!」


 呻き声を上げたのは果たして誰だったか。そんな瑣末事に注意を払う余裕はこの場の誰にもなかった。なぜならその時、俺たちの意識は三本の光に照らし出された『物体』へと吸い寄せられていたからだ。

 噎せ返るような血の匂いが、暗い倉庫の中を真っ赤に染め上げる。

 まるで――ミンチだ。

 倉庫の床には、滅茶苦茶に損壊された人体が山のように堆く積み上げられていた。精肉工場ならともかく、ここは山奥のペンションである。

 それは、あまりにも不釣り合いな赤だった。

 肉の赤、血の赤、死の赤――。

 遅れて、全身に怖気が走る。

 俺は「それ」を見付けてしまった。

 肉の山から少し離れたところに――もう一つ、何かある。

 恐る恐る懐中電灯をそちらに向けると、白い踏み台の上に鎮座する『バスケットボール大の肉塊』が照らし出された。その瞬間、どこか現実感がなくふわふわと浮ついていた意識が、一気に奈落の底へと叩き落とされるのを感じた。


「あ、あぁ……!」


 丸みを帯びていた頬骨がひしゃげていても、艶やかだった金髪のツーサイドアップが毟り取られていても、小振りな頭蓋骨が月面のクレーターのように陥没していても、筋の通っていた鼻が鷲のクチバシのように曲がっていても、キュートだった八重歯が半ばから折れていても、大きな瞳が赤黒く腫れた瞼に隠されていても、全体が二倍ほどに膨らんでいても。

 やはりそれは――。


「南、先輩……!」


 やはりそれは、南先輩の頭部に違いなかった。

 俺は、血で汚れるのも構わず四つん這いになり、その上で何度も何度もえずいた。だが、既に昼食を消化し終えた空っぽの胃からは、胃液の一滴すらも出てくることはなかった。

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