第3話

 八時頃、ようやく沢に遊びにやってきた他の参加者たちと入れ替わるようにして、俺はペンションへ戻った。もう体力が限界で、ぶっ倒れそうだったからだ。

 一方、南先輩は他の参加者たちとまだまだ沢で遊ぶらしい。南先輩の体力は底なしか?

 シャワーを浴びて学校指定のジャージに着替え、疲れた体をベッドに横たえる。

 手伝いは十時集合という話だったから、まだ二時間ある。その間に休んでおこう。

 三十分ほどベッドに寝転がっていると、どうにか動ける程度には体力が回復した。


(……そろそろ、彼女の様子を見に行くか)


 実は、ペンションに戻ってきたのは休憩だけが目的ではない。

 彼女――俺と同じ一年生の二宮にのみやはあとの様子を見舞うという目的もあったのだ。

 俺は、疲れた体に鞭打ちのっそりとベッドから起き上がった。

 このペンションの居室は全部で八部屋。二階建てペンションの二階部分、東西に伸びた長方形の間取りの中に、正方形の居室が均等に配置されている。

 俺の部屋は東端、裏口のある北側に位置する角部屋だ。

 その一つ西隣の部屋へ向かい、そのドアを気持ち優しくノックして呼びかける。


「おーい……二宮、大丈夫か~……?」


 返事はない。まだ寝ているのだろうか。

 二宮は、昨日ペンションに到着するなり「気分が悪い」と言い出して、それからずっと部屋に籠もっている。なんでも彼女は重い方らしい。本人がそう言っていた。

 食事などはオーナーが運んでくれているようだが、朝食を乗せたトレーは廊下に置きっぱなしで手を付けた形跡はない。単に寝ているだけなら良いが、食事も喉を通らないようなら心配だ。


『あたしのことは気にせず、透っちはサマーキャンプを楽しんで!』


 いくら本人にそう言われても、やはり心配してしまうのが人情というもの。南先輩の沢遊びに付き合いながらも、頭の片隅では彼女のことがずっと気がかりだった。だから、南先輩に他の遊び相手が来たタイミングで、休憩も兼ねてこうして様子を見にきたのだ。

 とはいえ、俺の心配ばかりを押し付けても、かえって二宮の負担になってしまうことだろう。昨日からドアノブにかけられっぱなしのDDドント・ディスターブカードを見て、俺は後ろ髪を引かれる思いながら一度引き下がることにした。

 その時、廊下中央の階段を挟んで更に一つ西隣の部屋のドアが開いた。


「ふわ~ぁ……」


 大あくびをかましつつ、のそのそと部屋から出てきたのは友人の雨沢あまさわしずく。人形のように整った顔立ちをした美少女なのだが、今は女っ気の欠片もないスウェット姿なのもあってもったいないくらいに野暮ったかった。

 雨沢も、俺や二宮と同じ一年生。だが、クラスが違うこともあり、知り合ったのは夏休みに入るほんの一、二週間前だ。その時にちょっとしたトラブルがあって、それをきっかけに知り合った。

 雨沢は、ボブカットに切り揃えられた黒髪を手ぐしで整えつつ、水墨画のように透き通った瞳で俺を捉える。そして、首の電子首輪をその細指でカリカリと引っかき、ふっと皮肉げに口角をつり上げた。


「キミ、今起きたところかい? お寝坊さん」

「今のお前にだけは絶対に言われたくなかった台詞だな。こっちはもう、沢でひと泳ぎしてきたところだよ」

「そりゃまた……お元気なことで」


 雨沢はクツクツと喉奥で笑った。


「ボクはこれから朝ごはんを食べるところなのだけど」

「そうらしいな」

「……付き合ってくれないかい? キミしか知り合いがいないから肩身が狭いんだ。暇してるなら話し相手になってくれよ」


 交友関係を広げる気もないのに、どうしてサマーキャンプという社交的なイベントに参加したんだよと思わなくもなかったが、手伝いの時まで暇なのは確かなので付き合ってやることにした。

 雨沢と共に再び食堂へ赴くと、中には誰もいなかった。

 他の皆はもう朝食を食べ終えて沢へでも遊びに行ったのだろう。

 雨沢はオーナーから朝食を受け取り、テーブルで待つ俺の向かいへ座った。


「――人間が取り得る最上級の『マウント行為』って、何だと思う?」

「いきなりなんだよ」


 席に着くなり、脈絡がなさすぎる。

 俺の不興面をちっとも気にせず、雨沢はバターロールパンを手に続けた。


「別に、ただの雑談だよ。で、何だと思う?」


 夏休み中、山奥のペンションに来てまでする話がそれなのか。

 彼女との付き合いはまだ浅いが、クラスで「浮いてる」という噂に違わぬ変人ぶりをこんな時でも見せ付けてくれる。まあ、それが嫌いというわけではないが。


「うーん、まずその『マウント行為』の定義ってのは、『自己の優越』や『他者の劣等』を暗に、ないしは直接的に表現すること……で良いのか?」

「わざわざ不必要なくらいに小難しい言い回しをされて、ボクは大変ビックリしてるけど。まあ、そんな認識で構わないよ」

「あのさぁ……そういう嫌みな言い方もマウントの一種なんじゃないか?」

「さあ? そうかもね」


 雨沢は自分で話を振っておいて、興味なさげな態度でつまらなさそうにパンを齧った。

 ……まあ、定義の話はさておき。


「しかし、難しいなあ。最上級というと……あ、そういえばこの前、こんなことがあった」


 俺は、いつの日か自分のクラスで展開されていた日常の一幕を思い起こしつつ語った。


「クラスメイトが雑談の流れで『私、教師になるのが夢です』って言ったんだ。俺も周りも『へー』って感じだったんだけど、一人だけ様子が違って……その子はいきなり怒り出した」

「怒ったって……なぜ? 教師が夢、別に良いじゃないかとボクは思うよ。ありきたりといえばありきたりだけれど、まあ素敵じゃないか」


 言い方。


「……俺も素敵だと思う。けど、その子が言うには『教師なんて薄給激務のブラックだ。そんなところを目指すなんて間違ってる』って、そういうことらしい」


 そこまでいうと、何の話をしているのかと訝しげだった雨沢も、ようやく俺の言いたいことにピンと来たようだ。


「それが、キミの思う最上級のマウント?」

「ああ。教師が薄給激務のブラックだというのは、真実なのかもしれない。でも、互いの価値観の差異を無視して一方的に『間違いだ』と断じる態度は、決して『友人の親切』では片付けられない行いじゃないか?」


 マウントの本質は『価値観の創出』だと思う。ブランド然り、思想然り。

 自然状態には、ブランドの「優」も、思想の「劣」もなかったはずだ。しかし、高度に発展した人間の精神はそこに優劣を見出した。ニーチェも、ルサンチマンの話の中で似たようなことを言っていた。

 俺の今の話で言えば、怒った生徒は職業選択の自由や、給料より生きがい・やりがいを重視する価値観を無視して、自らの価値観だけを正しいものと主張しているわけだ。


「価値観の伝播による自己の拡張、支配欲の発露だ。さっきの定義で言えば、怒った生徒は『他者の劣等』と、それを指摘する『自己の優越』を同時に表現している。ありふれたことかもしれないが、こういった行為こそが最上級のマウント行為なんじゃないか?」


 こんなところでどうだろうと雨沢の反応を窺ってみると、彼女はパチパチと乾いた拍手をくれた。


「ありがとう。長々と、語ってくれて」

「だから、そういう言い方はやめろって」

「ふふ、ごめんごめん。実は、マウント行為に関してちょっとした思い付きがあって、それを披露したいがために前座として軽い回答を求めただけなんだ。だから、そんな理屈っぽく大真面目に答えてもらって……少し引いてる」

「引くなよ、聞いといて」


 くすくすと忍び笑いを漏らす雨沢は、きっと俺をからかっているだけなのだろう。そういう性格の終わってる奴だから友達がいないのだろうに。

 俺はため息をつきながら訊ねる。


「それで? その思い付きとやらは一体全体どんなものなんだ? 是非とも後学のために教えてもらいたいものだ――『最上級のマウント行為』って奴をさ! ここまで引っ張ったんだから、思い付きで言わされた俺よりも遥かに優れたさぞかし素晴らしいお言葉を賜れるんだろうなあ!」

「おお、怖い。そう威圧しないで、お手柔らかに頼むよ」


 俺の熱い要望に応え、雨沢は「ボクが思うに」とその思い付きの内容をドヤ顔で語った。


「人間が取り得る最上級のマウント行為というのは――『殺人』だと思うね」

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