九月十一日
幻覚であることは一目見たときからわかっていた。役に立たなくなった脳みそでも、それくらいはわかる。
ミノリは憎悪に満ちた目で、声で言った。この人殺し、と。
殴られたような衝撃が頭に走った。割れたかと思った。視界が赤くなって、覇気が催して、耳元で誰かががなり立てているようにガンガンと鼓膜が震えた。家具の直線がぐにゃぐにゃにゆがむ。
気が付いたら、ミノリの姿は跡形もなく消えていた。カチカチと音を立てている時計を見て初めて、何時間もそこで何もせず放心していたことに気が付いた。押さえつけられているような重さが身体に残っていた。
この人殺し。ミノリの幻覚は言った。幻覚は幻覚でしかない。その言葉は結局のところ、ぼくの頭が作り出したフレーズのはずだ。思いのほか、ぼくの頭脳はまだ機能しているみたいだ。
ミノリが自殺するなどありえない。そんなこと、絶対にありえないのだ。どんなにつらいことがあっても、打ちのめされても夢が破れても挫折をしても、ミノリはそれを乗り越えて笑っていた。彼女はどこまでも、強く美しい人間だった。そんな彼女が自殺をするなど、やはり考えられない。
だとしたら、ミノリは殺されたのだ。
そう考えたほうが明らかに自然だ。遺書がなかったこともそれを裏付けている。海に行く予定を立てていたのも当然だ。ミノリはちゃんとこの先の人生を生きようとしていた。それを何者かによって壊されてしまった。
だが疑問点がある。聞いたところによると、玄関の扉も勝手口も、出入りができそうな窓もすべて施錠されていたらしい。殺人だったなら、犯人はどこから外へ出たのだろう。ひょっとして、鍵を持っている人間の犯行だったのではないだろうか?いや、警察が自殺と判断したのだ。きっと鍵はきちんと管理されていたのだろうし、ミノリが死んだ時間に鍵を持っていた人間がどこで何をしていたのか、しっかり調べ上げられているのだろう。警察だって無能じゃない。
誰がミノリを殺したのだろう。彼女の憎悪を晴らしたい。包丁を持った人間が自分に襲い掛かってくる恐怖は想像を絶する。どんなにミノリは怖かっただろう、痛かっただろう。彼女は追い詰められて、助けを呼ぼうとしただろうか?叫んでも誰も助けてくれなかった悲しみや絶望。それを考えただけで胸がどうしようもなく苦しくなる。
また頭が痛くなってきた。何かを書いたって少しも症状が改善されているとは思えない。まだ二日目だ。これから変わってくるのかもしれないけれど、それはミノリを忘れることにつながる気がする。たぶん、そうやって苦しみを乗り越えていくのが普通のことなのだろうけど、その機会すらミノリは奪われてしまったという事実がまた頭を打ち付ける。もう何も考えたくない。
今日も一日、部屋の中にいた。長い期間を閉じこもっているわけではないけれど、今の状況はまさに「引きこもり」と称するのがふさわしい。外へ出る気力がどうにも起きない。ドアノブに手をかけた瞬間に腕がじいんとしびれるように重たくなる。部屋に閉じこもっているというよりも、部屋に閉じ込められているという感じだ。
ふと、思ったことがある。ミノリの親が誰かに鍵を渡して、そいつが彼女を殺したのではないだろうか。根拠は一つもないけれど、論理的には考えられる可能性だ。家が施錠されていたことにも説明がつく。もっとも、どうしてミノリの親が彼女を殺すようなことに加担したのかという謎は新たに生まれるけれど。
犯人がいまだに家の中に隠れていて、そもそも外へ出ていないという可能性も考えた。密室である家の内側にずっといたという可能性だ。しかしこれはあまりに突飛すぎる。警察だって家の中に隠れている犯人を見落とすほど無能じゃないだろう。
ミノリは誰からも愛されていた。そして誰をも愛していた。もちろん親からも十分すぎるほどの愛を受けて育てられていたし、彼女のほうからも家族に愛をふるまっていた。好かれることはあっても、ミノリが殺されるほど憎まれることなんてあるはずがない。親が彼女の殺人に関わっていると考えるのはやはり不自然だろうか。
いや、ひょっとしたら犯人は、持ち主に気づかれないように鍵を盗み、事に及んで鍵を返却したのかもしれない。
その動機を考える。どんな凶悪な人間が、ミノリのような善良な人間を殺すことを思いつく?彼女は誰からも愛されていたはずなのだ。
可愛さ余って憎さ百倍、ということわざがある。ミノリを好きすぎるあまりに、殺してしまったのだろうか。犯人はストーカー?もしストーカーだったなら、彼女の家庭事情も知っていただろうし、親がどのような人間か把握して鍵を盗むこともできただたろう。
憎い。ミノリを殺した人間が何よりも憎い。もし犯人を見つけたら、同じように包丁で腹を突き刺してやりたい。それがぼくにできる唯一の彼女への手向けだ。ミノリがそれを望んでいようが望んでいまいが関係ない。ミノリはもう生きていない。ミノリの望みも何もかもを奪った傲慢な殺人者が、今は何よりも憎い。
これ以上この部屋の中で考えていても犯人は見つからない。やはり外へ出て情報を集めるべきだろう。なにより引きこもってばかりではこの手で犯人を殺せない。
ただやみくもに走り回ったって、徒労に終わることは目に見えている。何か戦略を立てなければならない。こちらは一個人、警察の捜査能力にはどうしたって劣るのだ。しかし警察が知らなかっただろうことをぼくは知っている。警察はミノリがどんな人間だったのか、実際に彼女自身に会って理解したわけじゃない。それが自殺という馬鹿げた答えを導き出してしまった。そんなことあるはずないのに。
今日はここで終わることにする。少しだけ気分は楽になったかもしれない。生きる気力もわずかに湧いてきた。ミノリを失った人生がこの先続いていくことを想像しただけで、頭が壊れそうになるけれど、今は自分ができることをやることにする。
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