九月十日

 朝起きたら、部屋の中にミノリがいた。生きたままの姿を保って、こちらを見ていた。

 幻覚であることは一目見たときからわかっていた。役に立たなくなった脳みそでも、それくらいはわかる。

 ミノリは憎悪に満ちた目で、声で言った。この人殺し、と。

 殴られたような衝撃が頭に走った。割れたかと思った。視界が赤くなって、覇気が催して、耳元で誰かががなり立てているようにガンガンと鼓膜が震えた。家具の直線がぐにゃぐにゃにゆがむ。

気が付いたら、ミノリの姿は跡形もなく消えていた。カチカチと音を立てている時計を見て初めて、何時間もそこで何もせず放心していたことに気が付いた。押さえつけられているような重さが身体に残っていた。

この人殺し。ミノリの幻覚は言った。幻覚は幻覚でしかない。その言葉は結局のところ、ぼくの頭が作り出したフレーズのはずだ。思いのほか、ぼくの頭脳はまだ機能しているみたいだ。

ミノリが自殺するなどありえない。そんなこと、絶対にありえないのだ。どんなにつらいことがあっても、打ちのめされても夢が破れても挫折をしても、ミノリはそれを乗り越えて笑っていた。彼女はどこまでも、強く美しい人間だった。そんな彼女が自殺をするなど、やはり考えられない。

だとしたら、ミノリは殺されたのだ。

 そう考えたほうが明らかに自然だ。遺書がなかったこともそれを裏付けている。海に行く予定を立てていたのも当然だ。ミノリはちゃんとこの先の人生を生きようとしていた。それを何者かによって壊されてしまった。

 だが疑問点がある。聞いたところによると、玄関の扉も勝手口も、出入りができそうな窓もすべて施錠されていたらしい。殺人だったなら、犯人はどこから外へ出たのだろう。ひょっとして、鍵を持っている人間の犯行だったのではないだろうか?いや、警察が自殺と判断したのだ。きっと鍵はきちんと管理されていたのだろうし、ミノリが死んだ時間に鍵を持っていた人間がどこで何をしていたのか、しっかり調べ上げられているのだろう。警察だって無能じゃない。

 誰がミノリを殺したのだろう。彼女の憎悪を晴らしたい。包丁を持った人間が自分に襲い掛かってくる恐怖は想像を絶する。どんなにミノリは怖かっただろう、痛かっただろう。彼女は追い詰められて、助けを呼ぼうとしただろうか?叫んでも誰も助けてくれなかった悲しみや絶望。それを考えただけで胸がどうしようもなく苦しくなる。

 また頭が痛くなってきた。何かを書いたって少しも症状が改善されているとは思えない。まだ二日目だ。これから変わってくるのかもしれないけれど、それはミノリを忘れることにつながる気がする。たぶん、そうやって苦しみを乗り越えていくのが普通のことなのだろうけど、その機会すらミノリは奪われてしまったという事実がまた頭を打ち付ける。もう何も考えたくない。

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