第9話 北野天満宮『立ち牛』

 日本人であれば、どんな神社であれ、境内に入った瞬間から神秘や畏れなどの特別な感情が湧き上がってくるだろう。その感情を誘発させる大きな要因は、社を城壁のように、深い闇夜のように囲む、鬱蒼とした森である。人は、春の夜の朧月おぼろづきのように、何かに身を隠され、微かにのみその存在が視認できるものに大変な興味や畏怖を覚えるものだ。実態がベールに包まれた平安の歌人、小野小町は今なお絶世の美女として崇敬を集めているし、神社であれば、日本一格式の高い伊勢神宮も、大都会東京に広大な神域を構える明治神宮も、その土地土地で信仰されている小さな神社でさえも、その本殿の周りは濃く立ち込める煙のような木々に包まれ、外の世界から隠されているのだ。


 しかし、洛楽倶楽部が立ち入っている北野天満宮の本殿空間は少し他の神社とは違っていた。


「こんなに人がいっぱいいて、しかも太陽光燦々の明るい境内なのに、さっきまでと雰囲気が変わるのって不思議だよな」


「この感じ、他の神社に感じるみたいな内から静かに湧き出す畏敬の念っていうよりも、絶対的な存在を前に勢いよく噴き出す畏敬の念って感じがする」


「さすが、1万2000社の長って感じでございますね」


 そう言うと、3人は、ほう、と息を深く吐き出した。


 北野天満宮の本殿周りは、全くないというわけではないが、圧倒的に木々に囲まれているという印象が希薄である。四方を見渡しても、ポツポツと大きな木が回廊から顔を覗かせるのみで、外界と隔絶されているという感じはない。上を見上げれば、綺麗な青空を何かに遮られることもなく見ることができてしまう。しかし、そんな神社のセオリーを破っているにもかかわらず、北野天満宮の本殿空間は、総本社にふさわしい莫大な畏敬の念を禁じ得ないのだ。


「この唯一無二の雅で華麗な本殿が、我々をそういった気持ちにさせるのでしょうな」


 腕を組んだススムがふむふむと目を瞑って頷いた。


 白い地面の上に建つ豪華絢爛な日本建築。どっしりと威厳高く構えているその横に長い社は、まるで菅原道真公そのものが、優美な束帯の裾をゆったりと広げ、坐しているようである。さらに、熊の毛皮のような茶色い檜皮葺ひわだぶきの屋根が温かみを醸し出し、その雄大さを強調させ、優雅でなだらかな屋根の破風はふ垂木たるき欄間らんまに施された金の装飾や極彩色の彫刻群が見るものを飽きさせない。


「なんか本殿ひとつが美術館みたいだな」


 トオルが骨董品の鑑定士のように、じっくりと本殿を眺めた。


「お、トオル殿、なんとも良い表現をするではないですか」


「でも確かに見てるだけで面白いよね!あと梅の名所なだけあって、屋根の妻の部分が梅色なのもなんか面白い」


「言われてみれば確かに!」


「アユミ殿は目の付け所が違いますな!」


 3人は目を見合わせ、楽しそうに笑い合った。すると、何かを思い出したようにトオルがススムに声をかける。


「そういえばヤマさん、この本殿には深い曰くがあるってさっき言ってたけど、それってなんなの?」


 聞いたところによれば、この本殿は国宝で桃山時代に建てられたものらしい。桃山時代の建物だとすれば、秀吉やら家康やらの逸話なのだろうか。


「ああ、それはですね」


 そう言うと、ススムは賽銭箱手前まで近づき、指を上に向けた。


「あの牛の彫刻です」


 トオルとアユミはススムが指差した先を見る。賽銭箱の真上、拝殿の中央の欄間のそこには、後ろ足を伸ばし、今にも駆け出しそうな牛の彫刻が彫られていた。


「おー、牛だね」


「うん、牛」


 トオルとアユミは特に驚いた様子も見せず淡々とつぶやいた。天満宮と牛のセットは有名だし、本殿に来るまでの道中でも、それはそれはたくさんの牛の銅像を見てきたからだ。


「この牛の彫刻がどうしたの?」


 トオルが彫刻を指差し続けているススムに尋ねた。


「お二方、何かこの彫刻の違和感に気づきませんか」


「「違和感?」」


 トオルとアユミは難しそうに首を傾げた。


「んー違和感かぁ。強いていえば、この牛、ロデオしてるのかなってくらいかな」


「いやいや駿河さん、そんなアクロバティックなのが答えなわけ……」


「いや、あながち間違いではありませんよ」


「マジで!?」


 トオルは驚いた様子で、体を後ろに退いた。


「ええ、お二方、思い出してほしいのです。道中見てきた数々の牛の銅像はどういった体勢をしておりましたか?」


 トオルは頭の中の記憶を探すように、目を彷徨わせる。


「えっと……確か足を折り曲げて座ってた……」


「あっ!」


 アユミが何かに気づいたように声を上げた。


「おや、アユミ殿。気づかれましたかな?」


「うん!この彫刻の牛は、今まで見てきた牛とは違って座ってない!」


「あぁ!確かにこの牛だけ他と違う!」


 トオルとアユミは謎解きを解いた時のように、すっきりとした表情をした。


 ススムが人差し指をピンと伸ばし、塾講師のように語る。


「そうです。北野天満宮にはたくさんの牛のオブジェがございますが、唯一この牛の彫刻だけが『臥牛』でない、つまり座っていないのです」


「え、この牛だけなの!?」


 トオルは驚きのあまり、彫刻を撮っていたスマホを地面に落とした。北野天満宮には本当にたくさんの牛の銅像や彫刻がある。それを見て偉く牛推しだなとも思ったものだが、そんな多数の牛の中で唯一というのは驚きだ。


 アユミが、そういえば、とススムに尋ねる。


「そもそもなんで皆んな座ってるの?というか、北野天満宮だけじゃなく、天満宮にある牛の像って大体座ってるよね」


「それは菅原道真公の故事に由来しているのです。道真公は遺言で、遺体を埋葬する場所は『人にひかせず牛の行くところにとどめよ』と遺しました。そして、遺体を太宰府、今の福岡県から京都へと運んでいる途中で、牛車の牛が座り込んで動かなくなり、その場所に道真公を埋葬しました。それが今の太宰府天満宮なのですが、まあ、そういった伝説を基にして、天満宮で祀られる神牛は伏した牛の姿であらわされているのです」


「へぇ……そんな裏話が……それじゃあ、この牛が立っているのはどういった理由なの?」


 アユミは「立ち牛」の彫刻を指差しながら、再度質問を重ねた。


「それが、これに関しては謎なのですよ」


「そうなの?」


「ええ、なのでそれを考察するのが楽しいところでもあるのですがね。アユミ殿はどう思われますか?」


 アユミは人差し指を頬にリズムよく叩きつけながら思案する。


「んー、彫刻を彫った人が、さっきの臥牛の背景を知らなかったとか?」


「全くロマンはないですが、否定はできないですよね」


 ススムとアユミは、うーん、と唸りながら、しばらく彫刻を眺めた。


 そんな2人の横でトオルがゆっくりと口を開く。


「道真はここで生きている……っていうことを表現したかったんじゃないかな」


 立ち牛を見つめるトオルに、ススムは興味深そうな視線を送る。


「ほう、その心をお聞かせいただけますかトオル殿」


「ああ、いや、さっきの臥牛の話聞いててさ、なんか伏した牛が道真の死を象徴しているような気がして。だから、臥牛とは逆の、元気に立った牛を拝殿のど真ん中に彫ることによって、道真の魂はこの本殿で生きているっていうことを参拝者に示したかったんじゃないかって思ったんだ」


 遺体の埋葬地を牛が座り込んだ場所に決めた。つまり、その牛が座り込んだ瞬間こそ、道真の魂が神に変わったときであるから、そのときの牛の様子を天満宮の神聖なものとするのは真っ当であろう。しかし、やはりその伏した牛の姿は道真の死を象徴するものであることにも変わりはない。そこで、彫刻師は、あえて立った牛の姿を彫ることにより、魂はこの本殿でしっかりと生きていて、参拝する者を見守っているということを伝えたかったのではないかとトオルは感じたのだ。


「なるほど……うん、なんかすごいしっくり来るかも」


「さすがトオル殿でございますな」


 ススムとアユミは、感嘆の様子でトオルに拍手を送る。


「ちょ、やめてよ、ヤマさんはどうなの?」


 トオルは両手をブンブンと振り、話題をススムへ変えた。自分の少しポエミーな考察を褒められるのがなんとなく照れ臭かったのだ。


「あたくしですか?あたくしの考察はですね『元気な牛が道真公のご利益を参拝者のもとへお届けします説』でございます!」


「ウーバーミチザネじゃねえか」


 トオルはススムの胸あたりに手の甲を当て、ツッコんだ。


 しかし、トオルは理解していた。ススムのこの考察が間違いではないこと、かといって正解でもないことを。公式の見解として謎とされているのだから正解はない、間違いもない。龍安寺の石庭のように、自分自身でその答えはいくつも生むことができるのだ。そして、それに楽しさを覚えている自分がいた。これから散歩のときは、1分でもいいからこの彫刻を眺めて、考えを巡らせよう。トオルは、立ち牛の彫刻を見ながらそう思った。


「さて、それでは参拝いたしますか!」


 ススムが財布から小銭を取り出した。


「そうだね!2人の考察聞いてたら、なんかすごいご利益ありそうな気がしてきた!何お願いしよう」


「甲斐さん、大学生が天満宮にお願いすることなんて1つしかないでしょ!」


 そう言うとトオルとアユミも小銭を取り出し、3人一斉に投げ入れ、二礼した。



 パン!パン!



 ––––––単位が取れますように!

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