第29話 南への旅立ち

 二日後、未だ夜も明けきらぬ早朝。王都ファンタジアはまだ、半ば眠りについています。


 城門前には、旅支度を整えた博士とクロコディウスの姿がありました。博士は普段通り、お気に入りの紺のローブに身を包んでいます。クロコディウスのほうは鱗鎧を身に付け、背中にはカタス・ギル鋼の剣で武装していました。この世界へ初めてやってきたときと同じ装備です。朝の光が鎧に反射して、きらりと光りました。


 二人の後ろには、二頭の馬が並んで立っています。王国の運命を背負って旅立つ二人への、せめてもの気持ちを込めた女王からの賜り物でした。博士の馬は芦毛のグレイライト、クロコディウスの馬は黒鹿毛のアイアンランス。王家所有の名馬の中から、頑健さを買われて特に選び抜かれた二頭です。


 見送りに立つのは、従者を伴ったイザンハートただ一人。目立つことは極力避けての旅立ちなのです。


「いよいよ旅立つ時だな。まずは、これを。女王の信任状だ。旅の途中で何かあれば、これを使うといい」


 自らの紋章の入ったマントをつけて正装したイザンハートが、博士に書状を手渡します。博士は一拝してそれを受け取り、しっかりと仕舞いました。


「別れの杯を交わそう。異世界の習慣は知らないが、今回はこの世界のエルフ式でやらせてもらうぞ」


イザンハートの言葉を合図に、従者が小型の円テーブルを運んできます。


 テーブルの上には白ワインの瓶とグラスが三つ、それに、三十センチほどの長さに切られた木の枝が一本並べられていました。クロコディウスが見たことのない種類の木です。博士が、感嘆したように言いました。


「ほほう、ブラウドリアムの枝じゃな。古式ゆかしいのう」

「なんだそりゃ?」

「別れを惜しみ再会を願う、送別の儀式じゃ。昨今は、こんなことをして送り出してくれる者も少なくなった。イザンハートの心尽くしじゃぞ」

「儀式は心を定めてくれる。それに、これは私だけの気持ちではない。この枝は鉢に挿し木をして、二人が帰還するまで王太后様がお育てなさりたいそうだ」


 イザンハートはワインの栓を開け、三つのグラスにワインを注ぎました。白ワインの上品な香りが、ほのかに漂います。


 博士とクロコディウスにグラスを渡すと、イザンハートはブラウドリアムの枝を手に取りました。枝の切り口を、自らのワインに軽く浸します。そしてその枝を、博士に渡しました。


 枝を受け取った博士も、同じように切り口をワインに触れさせます。次はクロコディウスです。見よう見まねで同じことをしました。差し出されたイザンハートの手に、枝を返します。


「幸運を。そして、無事の帰還を」


 声を合図に、三人はワインを飲み干しました。これで、別れの儀式も終わりです。


 最後の抱擁を交わし、博士とクロコディウスは馬に跨りました。馬上の人となった二人に向けて、イザンハートは直立不動の姿勢で敬礼します。


「イザンハート、世話になったのう」

「ありがとな。最高のワインだったぜ」


 馬首を巡らせて離れていく二人を、イザンハートはいつまでも見送っていたのでした。






 その頃、ヴィジンダナ女王の姿は『三つ子の騎士』の塔の一つ、青騎士の塔の最上階にありました。


 三つ子の塔は、白騎士の塔、赤騎士の塔、青騎士の塔と名前が付けられ、それぞれ、城の三方を睥睨するように配置されています。白騎士の塔は北を、赤騎士の塔は西を、そして女王が今いる青騎士の塔は東南を向いているのです。つまり、この青騎士の塔からは、王城の東南に広がる王都の町並みが一望できるのでした。


 縦長の見張り窓の縁に手を置いて立ち、女王は城門付近の様子を見ています。今まさに、博士とクロコディウスが馬に跨り、門を出ていこうとしているところでした。


 本当なら自分も見送りに立ちたかった女王ですが、それは自重しました。こんな朝早くに、女王が城門までお出ましになったと人々が知れば、大きな噂になってしまいます。あらぬ憶測が飛び交い、パニックが起きるかもしれません。そんなことはできないのです。


「お願いします。どうぞ幸運を」


 女王は一人、呟きました。


 塔を登ってくる微かな足音と、軽い衣擦れの音がしました。女王は振り返ることもしません。確かめずとも、誰なのか、ちゃんとわかっていました。


 王太后は静かに歩み寄ると、女王の隣に立って窓を眺めました。眼下では、馬に乗った二人が王城を離れていきます。王太后は、女王の手を握りました。


「行ったわねえ」

「ええ」

「必ず、帰ってきますよ」


 明けゆく東の空と、旅人となった二人の男を見つめながら、二人は佇むのでした。






 徐々に明るくなりつつある空を正面に見ながら、博士とクロコディウスは王都東門へと馬を進めます。


 まだ早朝の王都は人もまばらです。朝の早い農夫や行商人が仕事の準備を始めていますが、昼間の賑わいとは比べ物になりません。そんな静かな通りを、小気味よい蹄の音を石畳に響かせながら二人は進みました。


 空はよく晴れています。王都で過ごす間に暑さのピークは過ぎたというものの、まだまだ空気は夏のそれです。今日も暑い一日になるでしょう。


 中央広場まで来た時です。二人は、自分たちに向かって手を振る人影を認めました。女性です。横には、一頭のラバの姿もあります。


「やっほ。おはよー」


 それは、予想通りビアンカの声でした。グリフォン探しをした時と同じ、冒険用の出で立ちです。


「朝っぱらから何やっとるんじゃ?」

「えっへん。あたしも一緒に行くことになったんだよ」

「そんな話、聞いてねえぞ?」

「えーだってもう決まってるし。断る自由ないもん」

「死ぬかもしれないんじゃぞ。遊びに行くわけではないのじゃよ」

「わかってるって。わかって言ってるんだからさ」


 博士とクロコディウスは顔を見合わせました。しかし、断ってもついてくることは間違いありません。


「仕方ねえな」

「やったねー」


 ビアンカは喜々としてラバに跨ります。ラバの尻には膨らんだ荷袋が二つ、左右に分けて積まれていました。さらに、クロスボウまで積んでいます。


「このラバ、どうしたんだよ? かっぱらったのか?」

「違うよ。おじさ……ギルドマスターが買ってくれたんだ。せんべつ代わりだって」

「名前はなんというんじゃ?」

「名前? そういえばまだ付けてなかったなあ。……うん、ラバだからラバっちにしよう」

「お前な、なんでも『っち』を付けりゃいいってもんじゃねえだろ。もうちょっと考えてやれよ」

「えー、かわいいじゃん。今日からお前はラバッチだぞー」


 ラバッチはブフフと鼻を鳴らしました。しかし、鼻息だけでは喜んでいるのか不満なのか判らないのが悲しいところです。


「クロスボウまで持ってきやがって。使えるのかよ?」

「んー。練習は、した」


 いかにもビアンカらしい答えが返ってきました。どうやら、実戦であてにするのは止めたほうがよさそうです。


 開門の時刻です。朝日のなか、門がゆっくりと開かれました。三人は東門をくぐります。ついに、南への旅の一歩が踏み出されたのでした。

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