第5話
スヤスヤと眠るチェルシーの額に唇を寄せ、起こさないようにそっとドアを閉める。自分の部屋に行こうとして、方向転換、階段を降りていく。
夜更かししないと決意したものの、中途半端なまま放置している物を終わらせたい気分になったので、あたたかい飲み物が飲みたかった。
明かりはまだ付いている。明日の朝ごはんの準備でもしているのだろう。邪魔にならないようにしないといけない──……と思ったのだけど、朝ごはんの準備ではなく晩酌の最中だったらしい。交わった視線がそっと逸らされた。
「ひとりで晩酌するとか狡い、誘ってくれればいいのに」
「あんた、そんな酒好きじゃないだろ」
「お酒は好きじゃなくてもおつまみは食べたいの」
「チェルシーは寝たのか?」
「うん、グンナイスンスス」
言ったあとで、はた、と気付いた。グンナイスンススは伝わらないのではないかと。イヴァンをちらっと見ればニュアンスは伝わったのか「そうか」と一言。
……気にしてないみたいだからいいか。
「ねぇねぇ、何のおつまみ? 食べてもいい?」
「ああ、待った。あんたの好きじゃない味付けだからやめとけ」
「そうなの?」
「そうだよ。……腹空いたのか?」
「うーん、そういうわけじゃないんだけど、見てたらお腹空いてくるよね」
椅子に座るとイヴァンが立ち上がる。もしかして今から作るつもりなのかと見ていると、イヴァンはこの世界では見慣れない黒い物体と茶色の物体──おはぎを持って来た。テーブルの上にそれを置いて、着席。
「試作。食うだろ?」
「こんな、こんな時間帯におはぎとか禁忌じゃないですか……!」
「食べないのか?」
「食べるよ? 食べますよ? でもね、深夜におはぎを食べるとか許されざる行いだってことを理解してほしい。ケーキとか揚げ物じゃないだけまだいいのかもだけど、いやこれっぽっちも良くはないんですけど、アラサー間近だからカロリーを燃焼できる気がしないっ……!」
「大丈夫だよ。お前には糖分が必要不可欠なんだから余裕で燃焼される」
「言ったな? 信じるぞ? 太ったらイヴァンのせいだからね」
「はいはい。そうなったら元の体型になるようお手伝いしますよ」
お行儀が悪いような気もするが、あんこを手に取ってあぐり。控えめなあんこの甘さが口の中に広がって、幸せだなぁと素直に思えた。おまけに、夜遅い時間帯に甘いものを食べている背徳感もそこにプラスされるのだから、これはもう。
「はぁ……至福。このために生きてきたと言っても過言ではない」
「そこは過言であってくれ。ちゃんと甘いか?」
「うん、ちゃんと甘いよ。私はもうちょっと甘いのが好きだけど、陛下とチェルシーはこのくらいの甘さが好きだからこれでいいと思う」
ああ、そうだ、チェルシーで思い出した。
「ねぇ、チェルシーの一人称ってもう変えるべきかな?」
「一人称?」
「うん。自分のことをチェルシーって呼んでるのはすっごい可愛いんだけど、チェルシーと同年代くらいの子は私とかあたしって呼んでるみたいなの」
どうしたらいいと思う? と、イヴァンを見ると、穏やかな顔が浮かんでいた。慈愛を感じさせる柔らかな笑みはロウィーナが私に向けるものと似ていて、「成長したね、愛娘」と頭を撫でてくる。……ようするに、彼は私を子供としか見ていないのだ。年はあまり変わらないであろうに、私の成長の喜んでいるのだ、この男は。
「母親らしくなってきたな」
「そう……? 母親らしいことなんてできてないと思うけど」
「できてるよ。そうじゃなかったら『ママ』って呼ばないだろ」
「あれは陛下の入れ知恵。私は『メーデン』って呼ばせる気でした」
口をとがらせると、くつくつと喉で笑われる。
「心配しなくても、あの子はあんたを母親だと思ってるよ」
「心配なんかしてないよ、してないけど、……私とあの子は血が繋がってないのに?」
「血の繋がりが全てじゃないのはあんたの方がよく解ってるだろ」
……ロウィーナと私の関係は、母娘で師弟となっている。母娘であるけれど、当然、血の繋がりはない。今世では血の繋がりが全てじゃないことをよぉく理解している。
身をもって理解しているけれど。
けれども。テーブルの下で手を握り締め、修正する。
「……チェルシーの一人称は変えた方がいいと思う?」
イヴァンは肩をすくめた。
「まだいいんじゃないか?」
「かわいこぶってるって思われない? 大丈夫?」
「かわいこぶってるんじゃなくてチェルシーは可愛いだろ」
「それはそう」
親バカと言われるかもしれないがチェルシーはとっても可愛い。本当に可愛いのだ。天界から舞い降りた天使なんじゃないかな、と毎日思っている。
残りのおはぎを全部食べる。食べたのだから当然、お皿の上には何もない。しょんぼり。
「ところで……なんでおはぎ?」
「あんたが前にツキミがどうのこうのって話を思い出して作りたくなった」
「なるほど。じゃあ、月にちなんだ愛の告白について話そうか」
「なんでだよ。俺はジパング語分からねぇぞ」
「大丈夫、そこまで難しい話じゃないよ。んーと、私が『月が綺麗ですね』って言ったら、イヴァンはなんて返す?」
「あー……そうだな、か?」
「そこで会話が終わる返答じゃないですか。イヴァンらしいけども」
「うるせぇ」
「まあ、イヴァンの『そうだな』も分かるよ? 月が綺麗ですね、なんて突然言われたらそうですねとか言えないもの。気を取り直して……私はイヴァンに愛の告白をしたけど見事に流されてしまいました。残念、フラれました」
「……はぁ!?」
「月にちなんだ愛の告白だって言ったでしょ?」
「月が綺麗ですねが愛の告白だとは思わないだろ!」
「しーっ! チェルシーが起きる!」
ハッと慌てて口を塞いだ。物音は聞こえない、起きた気配も感じない。ほっ、と息を吐き出して話を続ける。
「ジパング語は基本的に奥ゆかしい……お上品だから、ストレートに『
「遠回しだと伝わらねぇこともあんだろ」
「そうなんだけど、日本……じゃなくて、古代の人達は日常的に『愛してる』はあんまり言わなかったの。直接的なものよりも間接的なものが好まれていて、なんか美しさとか情緒を感じない?」
「感じない」
「そうですか……」
これが感性の違いってやつなのだろうか。遠回しだと伝わらないことがあるのは事実で、拗れることだってあるのだからストレートがいいのもわかる。あと、言葉よりも行動で、が良い人間もいるだろう。そこはもう個人の好みなので何も言えない。
「それで、告白の返事の仕方も種類があって、一番有名なのは『死んでもいいわ』だったかなぁ。この死んでもいいわはオッケーのときの返事ね」
イヴァンがギョッと目を開く。予想通りの反応に笑う。
「……重くないか、その返事」
「そう? 月が綺麗ですねの定番の返しだよ」
「いや、重いだろ。死にたいくらい嬉しいってことか?」
「えっとね……確か、私はもうあなたのものよって意味合いだった気がする。……そんな引いた目で私を見ないでよ、私が考えたわけじゃないんだから」
遺憾の意。じっとりとイヴァンを睨みつけて、そういえば、とつぶやいた。
「前から気になっていたことがあるんだけど」
「気になってたこと?」
「そー、イヴァンって陛下が居ると口数が少なくなるでしょ? なんで?」
イヴァンは途端に困ったような顔をする。
「なんでって……あの方はこの国の王で、俺みたいな奴が気安く話していい存在じゃねぇだろ」
「陛下はイヴァンの雇い主じゃないですか」
イヴァンを私の護衛にするって言い出したのは陛下だった。ロウィーナは『こんな怪しい奴を愛娘の護衛にするとか正気かよッ!』と大反対。それを押し切って陛下は、警戒していたイヴァンを私の護衛として雇った。
「それは……」
「それに陛下はイヴァンの料理を気に入っているし」
「それは関係ねぇな」
「いやいや、関係大ありですって。胃袋掴むのは結構大事だよ? 恋愛沙汰においても胃袋を掴んでおけばなんとかなるってよく聞いた」
「それとこれとはまた違うだろ……」
「同じでしょ」
……たぶん、とぽそり。呟いた言葉はイヴァンには聞こえなかったようだ。
「私が言いたいのはさ、陛下はもうイヴァンのこと警戒なんかしてないよってこと。あのときみたいにいきなりやべぇ魔法をぶち込むことはないと思う。……今思うと、あれは確実に殺す気だったな?」
「……今は別の意味で警戒されてる気がするけどな」
「ん? ごめん、聞いてなかった。なんか言った?」
「いや、別に。おはぎのお代わりは?」
「え、おかわりがあるの……? ちょっと待ってね、真剣に考えるから」
真剣に考えた結果、おかわりはした。私が悪いんじゃなくて、こんなに美味しいおはぎが悪い。そう、おはぎが悪い。美味しい。
「なぁ、明日チェルシーと買い出しに行くけどあんたも来るか? 急ぎの仕事はないんだろ?」
「ンー……ない、けど……」
外は、森の外はあんまり、好きじゃない。
「娘と一緒に買い物なんて母親らしいと思わねぇ?」
「イヴァン」
「母親らしいことができてないって思うんなら、今からそれをしてやればいいんだよ」
子どもに言い聞かせるような、柔らかな声音に言葉を詰まらせる。きょろきょろと忙しなく視線を泳がせ、イヴァンを見れば優しい目をしていて、ため息を吐いた。
「……わかった、行くよ、行きます。最近、家にこもっていたからたまには外に出ないとだし。護衛お願いしまーす」
「ハハ、お願いされました」
ぽやぽやとイヴァンが笑った。気が抜けている笑い方はどこか幼くて、とっても可愛らしい。可愛いと言うと、拗ねた表情で口をとがらせるので言わないでおいた。それがまた可愛いことを彼は知らないのだけど。
「お酒ちょっとだけ飲みたい」
「あんたすぐ酔うだろ。明日二日酔いになっても知らねぇぞ」
「一口だけだから。ね、いいでしょう?」
「ったく……」
差し出されたカップを受け取って一口。ぐっと眉間にシワを寄せれば苦笑いされる。
「……あまくない」
「酒は捕まるからさすがに作れねぇな。ちょっと待ってろ、果物剥いてやるから」
「ありがとう、ママ」
「誰がママだ」
しょうがない奴とでも言いたげな、苦笑混じりの微笑。呆れを滲ませた、空気に溶けてしまいそうな静かな声。でも、優しい声だった。優しくて、あたたかくて、柔らかくて、子供に向けるようなそんな声。
むず痒い気持ちを誤魔化すように、あまくないお酒を一口。
「……にっが……」
「だから飲むなって」
呆れ果てた顔をしているイヴァンに、そっぽを向いた。
古代言語学者 真中夜 @mid_night
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