チグリジア
@Mahuyu1111
チグリジア
私を愛して
僕は母を殺した。薄暗い部屋に籠る生ゴミと鉄のような匂い。赤い花弁の真ん中に斑点がついた不気味な花が僕を見つめる。母の返り血で真っ赤に染まっていたその花は、今まで見たどんな花より美しかった。
「鈴蘭君、好きです。付き合ってください。」
新学期早々、高校に入って何度目だ。付き合ったところで何かと言いがかりをつけられて別れるのが目に見える。好きとはなんだ。笑ってごめんって言えば泣き出すし、まるで僕が悪人みたいだ。
「佐藤、すずらんさん」
教室中がざわつく。新学期のこの時が嫌いだ。
「せんせー、そいつ鈴蘭って書いてりんって読むんす」
クラスメイトが弁明しないと僕は一生「すずらん」と呼ばれるのだろう。女みたいな名前が嫌いだ。ホームルーム後の騒がしい同級生からの絡みを避けるため中庭に逃げる。一年の時と何も変わらない。こんな平凡な朝をこれから何度繰り返すのか、考えるだけで狂いそうだ。唯一、学校に住みついている猫のダリアがいることだけが、僕の心の支えだ。中庭にあるベンチに僕と、お腹を空に向けるダリアが二人でいるこの時間が僕にとって幸せだ。静かなこの時間が終わらなければいいのに。そう思った時だった。
「やっべ!遅刻」
大きな足音と共にやってきた金髪の男。ダリアも驚いたのか毛を立てて走って逃げていった。迷子のように目をキョロキョロさせる金髪。どうしたの。と優しさ全開の笑みを浮かべて聞いた。思いもしない言葉が返ってきた。
「お前怖いな」
その言葉に引っかかった。金髪は、まあいいやと教室の場所を訪ねてきた。僕は、困惑したまま頷いて教室まで案内した。
「あ!りんやっと帰ってきた。ーそいつ誰?」
クラスメイトに話しかけられている気がする。「怖い。」金髪が放ったその言葉が頭から離れない。「りん!」金髪の呼び声にはっとした。
「大丈夫か?ま、ありがとな、りん」
なんで僕の名前を知っているのか聞く気力もなく、どういたしまして。そう言って席についた。席についた後も「なんか部活してる?身長何センチ?」と質問攻めだった。この金髪うるさい。僕の朝の幸せな時間を返してほしい。そんな気持ちを隠して笑顔で答える。すると、話を遮るように金髪は言った。
「なんでちゃんと笑わないんだ?」
なぜこの金髪はわかるんだ。きっとさっき引っかかったのはこれだ。他の人はみんなこの笑顔を信じる。彼は優しい。彼は笑顔が素敵だ。僕を知る人は皆口をそろえてそう言う。なのに、初対面で数分話しただけのやつになぜ僕の嘘がばれたんだ。思わず席を立ち「帰る」そういって教室を出た。バレて困ることは特にないはずなのに、なんでこんなにも焦っているのか僕にもわからない。廊下を歩く脚が大きく速くなっていく。さっきから頭が痛い。歩くたびにズキズキと痛みが強くなる。後を追ってくる金髪の声も重なって呼吸がしずらくなる。
「りん!おい!」
その言葉を最後に僕は知らない世界にいた。暗い世界に赤い絵の具のようなものがそこら中に広がる。目が痛い。真っ暗の世界に見える赤く染まった花。今まで見たどの花よりもきれいに見えた。手を花に添えても触った感触がない。確かに持っているのに、まるで自分の手ではないみたいだ。「りん」優しい声が聞こえる。包み込まれるような温かい女の人の声が聞こる。どこから聞こえているのか辺りを見渡しても人の気配はない。いくら歩いても景色は変わらない。「りん」声が変わった。さっきとは違って少し高い男の人の声。手を伸ばして探すけど誰もいない。静かに視界が明るくなってくる。電灯のような人工的な灯り。夢を見ていたのだろうか。徐々にさっきまでの夢が遠ざかっていくような気がする。何を見ていたのか、何を聞いたのか、夢を見ていたこと事態覚えていないような気がする。お腹あたりにおもりを感じて起き上がると金髪とダリアが僕を枕にして寝ていた。多分疲れて倒れた僕を保健室に運んでそのまま寝てしまったのだろう。ダリアは、きっとあの裏口の小さい隙間から。僕は笑わず、ありがとう。そう呟いて眠った。その頃には夢を見ていたことをすっかり忘れていた。僕たちが起きたのは先生の怒った声が保健室中に響き渡った頃だった。金髪は結局、初登校日に無断欠席をしたという理由で転校初日の放課後、反省文を泣きながら書いていた。
朝のホームルームが終わり、チャイムと同時に教室を出ていつもの中庭のベンチに向かった。いつものようにダリアが同じ時間にベンチで寝ている。起こさないようにベンチに座って目を閉じる。中庭は静かで良い。暖かい春のふわりとした太陽に照らされて眠りかけていた時だった。
「おい!」
大きな声に「わぁ!」と思わず大きな声を出してしまった。腹を抱えて笑う金髪が目の前に立っていた。ダリアはもう隣にはいなかった。寝起きと太陽の光のせいで目つきが悪くなってしまう。細い視界からうすらと見える金髪の様子が変だった。
「なんで、金髪じゃないの」
僕が心の中で馬鹿にしていた金髪が坊主になっていた。
「校則破ったから」
大きな声で坊主を自慢する金髪。僕としては金髪のままでいて欲しいものだ。断じて、名前を聞く勇気がないとかそんなのではない。一限目の開始のチャイムに驚き、金髪を置いて走り出す。呼びにきたのにと叫びながら僕の後を追いかけてくる。チャイムのなり終わりと同時に教室に入り、ドアを閉める。「りんセーフ」なんてクラスメイトに笑われながら席に着く。先生が来てすぐ後に息を切らしながら金髪が入ってくる。「転校生アウトー」と笑われる金髪。りん足速すぎると息を切らし独り言のように呟きながら席に着く金髪。グループ授業も、休み時間も飽きずに話しかけてくるのに、なぜか腹は立たなかった。昼休みに中庭についてくる金髪に、名前くらい聞いてやろうと思いながらベンチに座った。遠慮なく隣に座る金髪に思わず、「そこに座るな」と大声をあげてしまった。目を見開いて驚く金髪を見て、僕は何も言わず立ち上がり教室に向かった。金髪は後を追ってこなかった。教室中に聞こえるほど大きなため息をついた。クラスメイトが駆け寄って何か言っているけど、金髪のあの顔が頭から離れず、もう一度大きなため息をつくと、金髪が帰ってきた。何もなかったかのように大人しく席に着くと、携帯を開いて何か見ているようだった。友達になれるかもなんて考えた僕が馬鹿だった。昨日までの日常に戻るだけだと開き直って、教科書を開いた。嫌だなんて思ってしまう自分に苛立ちを覚えながら午後の授業が始まった。集中力が続かず、授業がいつもより長く感じた。午後の間、金髪は授業が終わるとすぐに教室を出てギリギリに帰ってくる。それを繰り返していた。ホームルーム終わりもすぐに教室を出ていったので結局午後は一言も話していない。肩を落として帰ろうとした時、ダリアにカリカリをやるのを忘れていたことに気づき中庭に走る。いつもは昼休みに一緒に食べるからきっとお腹を空
せていると、全力で走った。そこには、お腹を空かせた様子のダリアはいなかった。僕が見たのは、金髪と楽しそうに遊ぶダリアの姿だった。
「ダリア」
思わず声を出してしまった。驚いた様子の金髪だったが僕の顔を見て、「バレた」そういって笑い出した。ダリアも、僕に気づくと足元に来て頭をなすりつけてくる。
「りん、ごめん。この席こいつのだったんだよな。りんに怒られた後、こいつが草のとこから出てきて、お腹空いてるみたいだったから、いろいろ持ってきたんだけど、なんも食べないから、りんも帰ってこないし、俺のせいでこいつもうご飯もらえないんじゃないかと思って。」
返す言葉が思いつかなかった。緊張のようなものが溶けて立っていられなかった。心配して駆け寄ってきた金髪に言った。
「名前、教えて」
目を点にして、沈黙が続いた後に今かよとお腹を抱えて笑い出した。僕に手を差し出して、握手をしたまま彼は言った。
「ゆうぜん、工藤友禅。よろしく」
この日僕に、初めて友達ができた。
「そういや、こいつダリアっていうのか?」
「うん、僕の家族だよ。」
友禅の手を握ったまま立ち上がった。ダリアに会ったのは、高校一年の春、ちょうど一年前のこの時期、ここで、真っ黒なダリアに出会った。ひとりぼっちで、何か恵んで欲しくて人に媚を売る。まるで僕のようだった。うちはマンションだから猫は買えないけど、僕たちは家族になった。
「なんでこいつダリアっていうんだ?」
ダリアの毛並みを整えながら僕の顔を見て言った。
「ダリアの花言葉は感謝。ダリアがいなかったら僕が生きる意味なんてなかった。それに、この白い毛並みとピンクの肉球、本物のダリアみたいだろ」
饒舌に話す僕を前に、友禅はスマホを取り出した。画面に映る薄くピンクがかった白い花を僕に見せながら、「ネーミングセンス最高」そう笑っていた。仰向けになっているダリアのお腹を撫でながら、お前のおかげでりんに会えた。なんてかっこいいセリフを恥ずかしげもなく呟いて笑う。よく笑うやつだ。僕にはこの笑顔が本物かなんてわからない。でも、本物だと信じたい。他人のことなんて興味も持てなかったのに、こいつのことはもっと知りたいと思った。
「そういや俺らお揃いだな。名前」
「俺も友禅菊って花が由来らしい」お揃い。友禅は子供みたいだ。花言葉を一生懸命思い出そうとしている姿が面白くて、声を出して笑ってしまった。本当は、お揃いと言われて嬉しかった。今まで自分の名前を嫌っていたのが馬鹿みたいだ。
「友禅。老いるまで元気でか、良い名前だな。」
日が沈み、野球部の声が聞こえなくなった。ダリアに手を振り学校を出る。街灯と店の光を頼りに横に並んで歩道を歩く。友禅は、かばんをリュックのように軽々と背負って両手をズボンのポッケに押し込んで歩く。これをかっこいいと思っているところが幼稚だ。人が多い大通りを通ったのは久しぶりだ。相変わらず明るくてうるさい。僕が苦手なところだ。駅のフォームの前に着くと、ここでいいと言ってぎりぎりの電車に乗って帰っていった。今日は騒がしい一日だった。明日は何をしよう。静かな暗い家に一人、笑みを浮かべながら眠りについた。
次の日、先に声をかけてきたのは友禅だった。
「おはようりん君」
不気味な笑顔でそう言って僕の顔を覗き込んできた。おはようと小さくつぶやくと、今からテストをすると言って名前を覚えているか確認したいのか、呼んでいるのを馬鹿にしたいのか、しつこくつきまとってくる。
「僕ご褒美ないとやる気出ないから、もし僕が君の名前答えてあってたら購買のふわサクメロンパン奢りね」
そういうとすぐに引き下がった。鼻で笑いながら、中庭に誘うと犬のように喜んでついてくる。いつかこんな生活が終わってしまうとしても今はずっとできるだけ長くこのままがいい。友禅と、ダリアと三人で。そう思った矢先だった。静かな中庭のベンチの上、僕の隣に座る友禅が僕の膝に座っているダリアを撫でながら言った。
「俺さ、ちょっとの間留学行ってくる」
突然だった。出会ってそんなに経ってないのに、僕は泣きそうになってしまった。「そっか。気をつけて」なんて心にないことを言いながらダリアを膝から下ろし立ち上がった。笑って教室に帰ろうと友禅に手を差し出すと、僕の目を見て心配したのか、絶対帰ってくるから心配すんな。あったかい手で僕の手を握りしめながらそういった。僕が本物の笑顔に戻ったと気づいた途端勢いよく走り出した。教室まで競争だという割に足が遅いので、すぐに追い越し、教室に着く。クラスメイトに「仲良いな」なんて言われるのが少し嬉しかった。
「俺さ、ちょっとの間留学行ってくる」
そう言われて、一週間ほどで友禅は学校に来なくなった。その日からダリアはご飯も食べないし、体調が悪いようだった。餌を置いて教室に戻ると、クラスメイトがうざいくらいに絡んでくる。「廊下に女子がお待ちかねだぜ」なんて笑いながら廊下に押し出された。色違いのスリッパを履いた女子が、付き添いであろう女子に背中を押されながら小さい声で「好きです」そういった。告白なんて最近されなかったので、断り方も忘れていた。そういえば、少し前友禅が文句を言っていた。
友禅と歩いて帰っていると、前に告白された子と一緒にいた女子とすれ違った。横目で睨みつけられたので、友禅が化け物を見たかのように目を見開いて「知り合い?」そう心配そうに聞いてきた。事情を話すと今度はゴミを見るかのような目で文句を言い始めた。半分が遠回しに羨ましいと言っているかのような内容だったので聞いていなかったが、駅の手前で放った言葉はなぜか頭に残った。
「告白って、一生分の勇気つぎ込んでするもんだろ?だから、告白される側って、その勇気もらった上でちゃんと返事しないとだよな。っていつも考えてるのに告白されねえから、俺もう一生分の勇気かけて告白したいと思うやつ探そうと思ってる。」
その時は鼻で笑ったけど、そんなこと聞くと、この子の小さな好きは、僕が想像もつかないほど勇気がこもっているんだと感心してしまう。
「ありがとう。すごく嬉しい。でも、君の勇気は受け取れない。頑張って告白してくれてありがとう。」
笑顔でそういった。彼女は涙をハンカチで拭いて、「ありがとうございます」と笑った。お礼を言われた。こんなの初めてだった。悔しいけど、友禅のいうことが正しかった。心から、本当の笑顔で人を見れるようになった。今まで知らなかった、「嬉しい」「楽しい」という感情が、いたいほどわかる。友禅は、僕の知らないことをたくさん教えてくれる。友禅が帰ったら、説は正しかったと笑いながら言ってやろう。楽しみを心に教室に戻った瞬間だった。ひどい頭痛に襲われ、辺りが歪み始め、だんだんと視界が暗くなっていった。目が覚めるとそこは、暗いのにまぶしい、不思議な所だった。赤いもやのようなものが、全体に広がって小さくなっていく。消えたと思って下を見ると、赤い花が落ちていた。すごく綺麗なのに、どこか寂しそうな花だった。知っているような優しく温かい声が突然響き出した。その声が引き金だったかのように目を覚ました。僕の目からは涙が流れていて、体を起こすと保健室の先生がベットを仕切っているカーテンから顔を出して朝のことを話してくれた。話が終わると、見ていた夢のことをすっかり忘れていた。教室に戻るとクラスメイトが心配して駆け寄ってくる。鉄分不足だの、レバーを食えだの心配の方向性に疑問を抱き笑いながら席に着いた。午後の授業を受けてダリアの様子を見にいく。朝置いていったカリカリはそのままだった。
まだ日も落ちていないのに真っ暗な裏の道を一人で歩く。家に帰ると自販機で買ったコーヒーを片手にベランダに出る。月が雲に隠れたせいで今日の夜は一段と暗く感じる。僕には悩みというか、不思議だと思っていることがいくつかあった。両親のことやお金のこと。知り合いも親戚もいない。両親を知っている人もいない。両親は僕が小さい時に死んだものだと思っていた。顔も何も覚えていない。関係しているのかわからないけど、昔知らない人に封筒に入ったお金をもらったことがある。その時はお金がなくて気が動転してそれを奪って逃げたけど、さすがに自分のものかも知らないお金なんて使えなくて、バイトを始めた。その頃、僕の癒しは花しかなかった。なぜ好きなのかも、花に詳しいのかもわからなかった。家の近くの少し大きい花屋が出していた求人広告を見て引かれるように店に入った。その時、自分でもびっくりするくらい花に詳しいことを知った。喜んでいいのかわからないが、名前が花の名前だったのですぐに採用された。花に似合わない金髪の若い店長は、「すずらんちゃん」なんて呼び出す変なバイト先。でも、店長だけには本当の自分を魅せられていた。店長はよく昔の話をする。この近くに住んでいた年下の少年の話。この花屋は、亡くなったご両親が残したものらしい。
小さい頃から花屋で手伝いをしていて、そこに毎日のように来る常連さんがいた。長い黒髪を一つに縛った綺麗なお姉さんと、そのお姉さんによく似た小さな少年は、無口だけど、花が大好きだった。滅多に喋らないのに、新しい花を見ると目を輝かせて花の名前を聞いてくる。その少年のために毎日図鑑で花を調べたり、新しい花が入ったら必ずチェックするようになった。弟のような存在だった。いつの日か少年は、一人で訪れるようになった。小さな手でお金を握って毎日違う花を買って帰った。少年はよく笑うようになった。でもその笑顔は、涙が出そうになるくらい悲しい笑顔だった。いつも花に見せるような輝いた笑顔を見たくて、花をあげたり、新しい花を自分から見せにいったりいろんなことをして笑わせようと努力した。少年は毎日少しずつやせているようだった。そして、木の葉が色づく季節、少年は来なくなった。あの頃からずっと、その少年がこの店に来るのを待つためだけにこの花屋を継いだ。そんな昔話。
店長は、最近の僕の笑顔を見てその少年に似ていると寂しい顔をする。僕にとってこの人は兄のような存在だと思う。店長の前で言うと調子に乗るから言えないけど、家族のように思っている。
目が覚めると外は日が昇っていた。ベランダの窓を開けたままそこに足を出して眠っていたらしい。学校の準備をして、家を出る。二階建てのボロアパートに似合わない赤い自販機でコーヒーを買って飲みながら学校に向かう。学校の近くの公園にあるゴミ箱にコーヒーの空き缶を投げ入れたのが外れてわざわざ取りに行く。丁寧にゴミ箱に入れるとため息をつきながら公園を出る。校門を通り靴箱でスリッパを取ると後ろから聞き慣れた声がした。
「おはよう」
振り向くと、そこには見慣れた顔があった。泣きそうな顔を必死に隠した。そして背を向け言った。
「おはよう、友禅」
友禅が帰ってくるとダリアもご飯を食べるようになった。でも、友禅は日に日に顔色を悪くしているような気がした。マスクをして顔を隠しているようだが明らかに体調が悪そう。友禅は最近、早退や遅刻が増えたような気がする。
「なんかあった?女の子にフラれた?」
店長の声でレジが混んでいたことに気づいた。列がなくなり一息つくと再び店長が笑いながら話しかけてくる。フラれたとかめんどくさいことしか言わないので仕方なく友禅のことを話した。すると急に店の裏に入っていった。少しして戻ってきたと思ったら、花を一輪持っていた。見かけない可愛い花を無言で手渡された。「なんですか?」そう聞くと、かっこつけてたのにと少し落ち込みながら説明しだした。
「アマドコロだよー、花言葉知ってると思って持ってきたのに。勉強不足なすずらんちゃんには教えなーい」
そう言ってまた裏に入っていった。家に帰ると花を水につけて図鑑を開いた。見つけた瞬間笑って図鑑を閉じた。次の日、店長にもらった花を入れた紙袋を持って学校に行った。友禅の靴箱に靴はなく、教室にも姿はなかった。お昼になっても友禅の姿はなく、花を渡すのは諦めようとしたけど、店長も心配してくれてたので、仕方なく職員室に行って担任に何かと理由をつけて友禅の家を聞き出した。電車なんていつぶりだろう。切符の買い方を駅員さんに聞いて電車で一駅。メモの通りに進んだ。紙に記された家に着くと、衝撃でしばらく口が閉じなかった。大きくて、お城みたいな家だった。インターホンを押すのに戸惑っていると近所に住んでいるらしいおばさんが声をかけてきた。
「工藤さんに御用?気をつけてね、ここの奥さん変わってるから。」
話を聞くと、ひどい過保護らしく、地域との交流はしないくせにゴミや動物には厳しく指摘してくるらしい。ぼそっと独り言のように呟いた言葉を聞いてしまい、気づいたらおばさんの肩を強く握っていた。知っていることを全て吐き出させ、インターホンを何度も鳴らしたが応答がないので、走って学校に戻った。ちょうど帰ろうとしていた担任を呼び止めて友禅のことを聞いた。もちろん先生は話してくれなかった。本人の意思だと、何度も謝られた。この反応で、さっきのおばさんが話していた事は事実なんだとわかったけど、何もできなかった。本人の口から聞きたかった。自分の無力さに、自然と体が動いていた。膝とおでこが黒くなるまで地面に額をこすりつけ、泣きながら言った。
「お願いします。本当のこと、教えてください。僕は友禅がいないと何もできない。友禅から、生きる楽しさを教わったんです。僕じゃ力にはなれないけど、友禅が、友達が大変なのに、黙っていろって方が苦しくて、辛いんです。」
浅くため息をついた後、先生は、僕のかたに手を置いて、微笑んでみせた。そして、僕の目を見て、大事なことを避けるように友禅のことをつらつらと語る。話す先生の顔は、今にも泣き出しそうな悲しい笑顔で、それ以上は聞けない。そう思ってしまった。諦めかけた時だった。僕の顔を見て同情したのか、先生は話を続けた。
「ごめんね、本当に仲がいいんだね。私には隠すことはできそうにないです。」
先生は、カバンから紙とペンを取り出し何かを書き始めた。そして目を合わせないまま話し出した。
「佐藤くんが聞いた通り、彼は寿命を言い渡されこの学校に通い始めました。病気を持って産まれ、小中と学校に通えず、ご両親の歪んだ愛情による監禁状態のようなものが続いたそうです。中三の秋頃、彼は寿命半年と言い渡され、それを機に高校に行こうと決めたそうです。」
先生が知っていること、全て話してくれた。予感はしていたが、思ったより辛かった。自分の方がよっぽど大変なのに、友禅はいつも僕のことばかり気にかけて、全力で笑いかけてくれていたと思うと、余計苦しくなる。先生はペンをカバンに直し、何か書かれた紙を無言で渡した。病院の住所だった。先生に頭を下げ走り出した。切符を買って、駆け込み乗車注意のアナウンスを無視してギリギリの電車に乗り込んだ。息を切らしながら腕の時計を見る。すでに八時。九時には入れなくなると言うのにマイペースに進む電車に腹を立てながら窓に映る自分を見る。鬼の形相とはこのことかと自分の顔を見て思う。何も言ってくれなかった友禅と気づけなかった僕自身。全部に腹が立つ。電車は時間通りに着き、今出せる全力で走った。九時五十二分。入り口にチェーンをかけようとする看護師さんに汗だくの姿で息を切らしながらたずねた。
「まだ、入れますか?」
回答は、だめだった。看護師さんの優しい目を見れなくなった。腕にかけていた紙袋を渡して欲しいと預け、今にも倒れそうなほどふらつきながら走ってきた道を戻った。友禅にあったところで、何を話す。そもそも話せるだろうか。花は無事だろうか。花をかばっている暇なんてなかった。明日は、ちゃんと綺麗な花を届けよう。
学校は休みだと言うのに携帯のアラームがうるさく部屋中に響く。重たい体をゆっくり起こしてお風呂場で水を浴びる。さっとタオルで水を拭き取り首にかける。服を着て、朝ごはんがわりのアイスを食べる。ベランダで風にあたりながら髪を乾かす。最近風が吹かなくなってきた。夏になるからか、暑さも増してきた。雨も多くなったし、外の風じゃ髪が乾かない時期になってきた。押し入れの扇風機壊れてないかな。そんなことを思いながら部屋に戻る。アイスの棒をゴミ箱に投げ入れ、財布と携帯を持ってドアを開ける。この日は初めて、お客として、花屋「ペニチュア」に行った。店長の大きな歌声が聞こえて来る。ほうきをスタンドマイクに見立ていろんな角度に体を片むけ歌う姿が目に入る。目を合わせないように下を向きながら店の中に入る。気づいた店長が後を追うように入ってくる。
「今日シフト入ってた?買い物?告白か!なー無視すんなよー!」
花を見ていると言うのにしつこく話しかけてくる。店長の声を無視して花を見ていると、ある紫の花に目が止まった。綺麗な花だった。店長の声が聞こえなくなったと思ったら、花の説明をしだした。
「じゃぁこれ、昨日みたいにりぼんつけてくれませんか?」
心ここに在らずというか、ぼーっとしているようだった。近距離で何度も店長の名前を呼んだのに、気づいたのは僕が店長の肩を揺すった時だった。
「あ、悪い。りぼんな、ちょっと待ってろ」
そう言ってその花を一輪取ってレジでりぼんを巻き始めた。五百円玉をレジの机に置き、丁寧にリボンを巻かれる花を見つめていた。喋らないと死んでしまう店長は、リボンを巻きながらも話をする。
「昨日言ってた友達か?花、渡した?」
昨日のこと全部を話すと終わりが見えないので、人に頼んだとそれだけ伝えて花を受け取った。花を見ながら店を出ると、急に視界が歪んだ。駆け寄った店長の顔が二重に見えた。何か言っているようだったけど声も何も聞こえなかった。確か、前にも同じようなことがあったような気がする。だんだん視界が遠ざかり、気づいたらそこは、暗闇の中だった。一歩も動かずに立ち止まっていると、小さく声が聞こえる。その声は、だんだん大きくなってくる。
「この花は、アネモネ。花言葉は、君を愛す。これはガーベラ。ー」
同じ声が何十にも重なって聞こえる。頭が張り裂けそうなほど痛い。すると、目の前に中学生くらいの少年が現れた。顔を見ようとすると余計に頭が裂けそうになる。その少年は、色のついたものを持って現れては消え、また現れる。毎回形の違う色を持って、現れ、消える。少年は、だんだんと大きくなり、色を持たなくなった。そして、声は聞こえなくなった。少年は、僕の目の前に座り消えることなく、誰かを待っているようだった。僕は、彼に手を伸ばした。すると、少年は、僕に気づき、前髪で目は見えなかったけど、見覚えのある笑みを浮かべ涙を流した。少年は、僕の手をそっと握った。その瞬間、少年は消え、暗闇に目を開けられないほど強い光が差し込み始めた。ゆっくりと目を開けると、痛いくらいに僕の手を握る店長の姿があった。目があいたことを確認すると、赤ん坊のように泣き始めた。後で聞くと、僕が倒れた後店長が救急車を呼び、病院に運ばれたという。病院の先生には、貧血だろうと言われた。店長は、泣きながら、話し始めた。
「心配したんだぞ!良かったぁ…」
大の大人が病院で騒ぐので、とにかく店長を泣き止ませようと必死で病院を出た。病室を出る時から僕の腰にがっしり捕まって泣き喚くのでいい迷惑だ。でも、心配してくれていたと思うと少し嬉しいと思ってしまう。太陽が沈み、月や電灯が辺りを照らす。家の近所の公園のベンチに座らせ、お茶を買って渡すと、さすがに落ち着いたようだった。今から友禅の病院に行っても無駄だと思い、自分でよければ話を聞くと言って背中をさすった。赤くなった目で僕を見つめ、地面に目線を落とし鼻を啜りながら話し出した。
「ごめん、前に話した子の笑顔が、今日のお前にそっくりで。ちょっと期待したのかも。お前も、いなくなっちゃうんじゃないかって…あの話には続きがあって、その子が来なくなってちょうど一週間後、うちの近所で事件が起きたんだ。三十代半ばの男が川の近くで殺されたんだ。心臓を二回、刃物で刺されたんだって。その次の日、その男の家が燃やされたんだって。その家には、一人の女の人の遺体があったらしい。後でわかったんだけど、その女の人は、前にうちによくきてた髪の長い綺麗なお姉さんだったんだ。だから、もしかしたらあの子も死んじゃったんじゃないかって。でも信じたくなかったんだ。遺体もなかったんだし、生きてるってそう思いたかった。俺、あの子のこと好きだったから。」
そう笑って、また下を向き泣き出した。今度はさっきとは違って、息を凝らして苦しそうに涙を流す。背中をさすりながら、慰めるつもりで、きっと生きてますよなんて呟いた時だった。今まで感じたことのない痛みだった。頭を抑え、地面に横たわりさっきの店長より大きな声で叫んでいた。息ができなくて、何かが頭の中で暴れているような痛みに耐えられず、地面に頭を叩きつけた。地面の砂が赤く染まるのが見える。しばらくすると痛みは消えた。それと同時に頭の傷が痛み出した。店長が心配して病院に行こうというのを止め、地面に座ったまま店長の腕を掴んだ。
「店長、僕、友禅のところ行かないと。」
なぜかわかんないけど、後悔するような気がした。何か思い出せそうなのに、記憶に靄がかかったような感覚だった。すると、公園の横を見覚えのある車が通った。
「すいません、僕、帰ります。」
そう言って立ち上がり、ふらつく足で走ろうとする。地面をうまく掴めず倒れそうになった所を店長が受け止めてくれた。そのまま店長に担がれ、おんぶみたいな格好になった。軽いななんて言いながら走って家に向かってくれた。家の前には、さっき見た黒いボックスカーが止まっていた。うちのボロアパートの二階から人が降りてきた。担任だった。汗だくで僕を見つけすぐに近寄ってきた。いつもはマイペースな優しい先生なのに、この日は信じられないくらい早口で鬼のような顔をしていた。
「不審者?警察呼ぶ?」
店長ですら困るほどだった。落ち着いてと深呼吸をしてもらい話を聞いた。
「探しましたよ。その頭どうしたんですか!いや、すいません、今すぐ病院に行きましょう。工藤くんの。」
店長に説明して、先生の肩を借りて車に乗り込んだ。シートベルトをすると、ドアミラーから店長が心配そうに車を見つめているのが見える。そんなこと気にせず車は走りだした。
「絶対帰ります」
窓から顔を出し、そう叫んで前を向く。先生は、ハンドルを巧みに操りながら詳しい話をしてくれた。
「工藤くんの容体が今日の夕方、急変したそうです。もしかすると今日…。でも、君なら奇跡を起こせると思います。だから、君を迎えにきました。君は自分の名前が嫌いかもしれないけど、鈴蘭という花は、幸せをもたらす奇跡の花です。そんな素敵な名前羨ましいと思います。あなたは、奇跡を起こせると思います。」
先生は真剣な目をしていた。僕の名前はそんな大した名前じゃないかもしれない。でも、もし奇跡を起こせたら、この名前を好きになれると思う。ドラマや映画ではお決まりの、大事な時に限って渋滞にはまる。まさに今、その現象に遭遇している。これもお決まりにはなるが、渋滞なんて待つ理由もなく車を降り走った。風で傷が痛い。息が苦しい。友禅は、まだもっと苦しかったんだ。そう思うと息ができないなんてどうってことない。傷に汗が染みる。地面が歪む。でも、とにかく走った。病院の入り口はすでに閉まっていて、誰もいなかった。「開けて!誰か!」そう叫びながら入り口の強化ガラスを叩く。外にいた白衣を着た男の人が患者だと思ったのか、中に連れて行かれた。息が切れて声が出なかった。待合室で待つように言われたのを無視して院内を走り出した。すでに体力は限界で、後ろから医師や看護師が追いかけてくる。二階、三階。階段を使って、病室の名前を探した。大きな病院なので、病室が数え切れないほどあった。四階に上がった時、地面が歪み、階段で足を滑らせもうだめかと思った。その時だった。階段の上に白い蕾のような花が落ちていた。昨日、渡した花びらが、階段を上がり終えた四階の廊下にあった。ふらつく足を無理やり動かして、四階の廊下を走る。絶対ある。そう信じて走った。そして、一番奥にあった一人部屋。ドアに貼ってあったのは、工藤と書かれたネームプレートだった。唾を飲んでドアを開けた。ひとつのベッドを知らない男女二人と、医師や看護師が囲んでいた。「誰だ」「出ていけ」そんな言葉、聞く余裕なんてなかった。ベッドにいたのは、弱った姿で眠る友禅だった。後から追ってきた医師たちにも見つかり、追い出されそうになった。
「友禅!僕だよ!起きろ!」
ドアの外に引き摺り出された時、笑い声が聞こえた。
「なに、してんだよ、りん」
勝手に涙が流れた。声を抑えることなく、笑いながら泣いた。後から追ってきた医師も驚き僕の腕を離した。その隙に友禅がいるベッドに駆け寄った。いろんな機械に繋がれ、苦しそうに息をしていた。でも、笑っていた。
「ごめん、気づけなくて。」
友禅は、呼吸器をつけたまま話をしてくれた。
「謝るなんて、本当に、りん?俺も、言わなくて、ごめん。見て、わかる通り…もう、俺死ぬかも」
笑いながら言った。友禅の話を邪魔するように言った。
「知ってるか?鈴蘭の花言葉。再び幸せが訪れる。僕は、友禅に幸せを知ってほしい。僕は、友禅からたくさんもらったから。話すことがいっぱいあるんだ。ダリアも待ってる。だから、死ぬとか言うな」
友禅は、やっと涙を流した。生きたい。そう叫びながら泣いた。両親と思われる人たちに抱きしめられて、小さな子供のように泣いていた。僕は、そっとその場を離れた。ドアのところには担任が立っていた。優しく微笑んで、帰ろうと優しい声で言ってくれた。ドアを閉めようとすると、友禅がいつもの明るい声で言った。
「俺、お前のおかげでもう幸せだ!ありがとう!ーまた明日!」
一気に涙が溢れ出した。息を整え、いつもの声で言った。
「おう!ダリアの飯当番、忘れんなよ!また、明日!」
そして、病室を出た。念の為と頭の傷を治療してもらってから家に送ってもらった。家の前には店長がドアを背もたれにして眠っていた。叩き起こすといきなり抱きついてきて、泣きながら喜んでくれた。朝までに帰ってこなかったら警察に連絡しようとしていたらしい。仕方なく部屋に入れて布団に寝てもらった。僕も、安心したのか、疲れからすぐに眠りについた。目が覚めると携帯は午前九時を指していた。「遅刻!」そう叫んで起き上がると、台所で鼻歌を歌いながら朝食を作る店長の姿があった。僕が起きたことに気づくと、泊めてくれたお礼と言って朝食を僕の前の机に並べ始めた。こんな光景初めてかもしれない。手を合わせいただきますと言ってすぐご飯を食べた。箸が止まらなかった。
「うまい」
ご飯を食べていると、知らない番号から電話がかかってきた。恐る恐る電話に出ると、担任の声だった。今日は一人で病院に行くと伝えると、先生から一言だけ返ってきた。
「工藤くんが、亡くなりました」
僕は耳に当てていた携帯を床に落とした。何かに取り憑かれたように家を出て走り出した。昨日の病院まで走った。無我夢中というのか、何も考えられなかった。まだ春だというのに、外の気温は三十度超えで、夜とは違って太陽が体力を奪う。足が動かなくなった時、後ろから声がした。店長の声だった。
「いきなり飛び出すなよ。言えば送るのに。」
花屋の軽トラックから顔を出し親指を助手席に向け乗れと言っているようだった。助手席に乗り込み、トラックが走り出す。車の中で会話はなく、ただエンジン音が鳴り響いていた。病院につき車を降りようとすると店長に紙袋を渡された。その中には、昨日渡せなかった友禅菊が一輪入っていた。頭を深く下げ走り出した。昨日の病室に行くと、ドアの外に担任がいた。僕に気づいて顔を逸らした。病室に入ると、昨日つけていた機会が全て外され眠る友禅の姿があった。足に力が入らず、膝から崩れ落ちた。それに気づいた友禅の母親は、僕の前に立ち、無理やり立たされた。そして、思いっきり頬を叩かれた。何度も、何度も。先生や看護師、医師がみんなで友禅の母親を取り押さえた。
「あなたのせい!私たちの言うことを聞いていればもっと生きられた…学校で、友達なんて作るから…学校なんて行かずに治療を続けていれば治ったかもしれないのに!」
泣きながらそう叫んだ。何もできなくて、ただ病室の冷たい床に座っていることしかできなかった。今までの思いを全て吐き出すように大声で僕のことを責め続ける。すると、友禅の父親と思われる人物が、手を差し出してくれた。それを掴むことができず、ただ地面を見つめていると、その手を僕の頭に置いた。思わず顔を上げて目を見てしまった。涙を堪えるような苦しそうな顔で「ごめん」そう呟いた。深く深呼吸をすると、僕の目を見たまま話し出した。
「君の話は友禅からよく聞いていたよ。ダリアちゃんだったかな、二人で飼っていた猫のことも。あの子は、君のおかげで普通の子になれた。病気を忘れられたと思う。あんな幸せそうな笑顔を、僕たちはあの子から奪っていたみたいだ。昨日、僕たちの前で初めて泣いたんだよ。弱音を吐いたんだよ。君のおかげだ。君がきてくれたから、最後は笑って行ってくれたよ。本当にありがとう。」
低くて暖かい声に涙が溢れた。そして、急に頭が痛み始めた。いつもとは違って気が遠くなると言うより、もやが晴れるような頭が重くなる感覚だった。激しい痛みに声が抑えられず、病院中に響くほどの大声で叫んだ。一粒の涙が流れたと同時に痛みが引いた。そこにいた僕は、僕ではなかった。
そこにいたのは、母親を殺した少年だった。過去の記憶を、痛いほど鮮明に思い出した。
僕が生まれた家には父親がいなかった。でも、僕は幸せだった。母が大好きだった。母は、花が好きだった。同じ花瓶に違う花を一輪刺して、それを見て笑っていた。でも、母はよく泣いていた。僕が眠った後に。僕は、母を笑わせようと努力した。その努力は、実ることはなかった。僕はいつからか、笑い方というのを忘れてしまっていた。同級生が言う「楽しい」「嬉しい」そんな感情を共感できなくなっていた。中学生になり、人を嫌うようになった。この時からだろうか、僕は感情を演じるようになった。空気を読んで、口角を上げる。時には歯を出して腹を抱えて笑う。真似事なのに、人はこの笑みを信じる。家に帰り玄関を見る。その日も母の靴はなかった。僕は、年齢を偽ってバイトを始めた。いつ母が帰ってきてもいいように、この家を守らないといけないから。貯金を家にひとつしかない母の机の引き出しにしまう。ある雨の日だった。空は怖いくらいに暗く、ボロボロの透明がさに身を縮め、家の雨漏りを心配しながら帰った。玄関に着くと、いつもと様子が違った。ポストに入れていたはずの母の合鍵がなくなっていた。急いで家の鍵を開け中に入った。そこは、もぬけの殻だった。入ってすぐにあった傘置きも、お風呂場にあったタオルや歯ブラシ、洗濯機も。リビングに入ると、机やタンスはもちろん、カーテンや僕の勉強道具まで。僕のお金も。その日、僕の心は無くなった。感情を持たない、息をしているだけの人間になった。雨の中、公園のベンチに座りブランコを眺めていた。母と、よく二人乗りをしていたブランコ。公園の中の草むらに横になり、眠りについた。何日が経っただろう。気づけば僕は、一人で起き上がることもできなくなるほど弱っていた。気絶するかのように目を瞑ると、母の匂いがした。暖かい花の匂い。死んだと思った。でも、僕は生きていた。目が覚めると昔より細くなった母がいた。母を見ると、心が暖かくて、優しい気持ちになれた。でも、なぜかそんな気持ちにはなれなかった。胸のところが熱くて、頭の中は真っ暗だった。骨が浮き出た手で赤い花が飾ってあった花瓶をベッドの横にある机から落とした。割れたガラスを握りしめ、思いっきり母の首に刺した。血が、床に落ちた赤い花に飛び、暗くて眩しい色に変わった。息をするように三回くらい心臓に突き刺した。母は、口を動かし、何か言いながら笑顔で目を瞑った。僕は、夜の道を笑いながら走った。川で血を拭い、ふらつく足をなんとか動かして、きた道を戻った。するとその家は、僕の服についた赤と同じ色で燃えていた。急な頭痛に襲われ、家の火が消える頃、僕の記憶も無くなっていた。
その後、知らないおじさんにお金をもらった。君のものだと言われ、受け取ると走って逃げた。近所で一番安かった家を借り、家の近くの花屋でバイトを始め、あっという間に高校生になった。高校に上がる頃、やはり僕の感情は無かった。「面白い」「最悪」「楽しい」一度は感じてみたい。きっと僕は、このまま空気を読んで、感情の演技をして死んで行くんだ。そう思っていた。
僕はこれからどうしたらいいのだろう。血で染まった手を見ながら考える。今この記憶が戻ったのは、きっと僕が友禅からもらったものが、母に奪われたものに似ていたからだろう
。笑う、泣く、怒る。長く感じなかった感情が、僕の記憶を起こしたのだろう。こんな記憶なら戻らない方がよかった。警察に行く勇気もない。頼れる人は、一人しかいなかった。
「店長」
葬式用の花をトラックに詰め込み、一息つく店長に、話そうとした。でも、話せなかった。自分でもわからなくて、こっちを見つめる店長に「なんでもないです」そう言って店の中に入った。後から追ってくる店長は、笑いながら言った。
「お前は、友禅君のそう言うところに愛想尽かしたんだろ?困ってるなら、相談しろ。困った顔して大丈夫なんて言うもんじゃない。」
店長の目が見れなかった。この人に、余計な心配をかけていいのか。話すことで突き放したりされないだろうか。前に友禅が言っていた。ありのままの自分を受け入れない奴は、友達と思うな。と。店長は友達じゃない。どっちかというと騒がしくて嫌いだ。でも、この人はきっと僕を受け入れてくれる。僕は、ゆっくり口を開いた。ちゃんと話せなかったけど、震える手をあったかい手で包んでくれた。泣き出すと、背中をさすってくれた。顔色ひとつかえず優しい目で真剣に聞いてくれた。話し終えると、優しく抱きしめてくれた。
「何も悪くない…そう言ってやれたらいいんだけど…でも、俺は、お前を探し続けてた。生きてると思ってずっとここで待ってた。記憶がなかったとは思わなかったけど、お前は生きて、ここにきてくれた。それだけで俺は嬉しいよ。」
そう言って笑った。僕は子供のように泣いた。訳もわからず、体内の水分を全て吐き出す勢いで息をきらしながら泣いた。僕は、母を殺した。親友も亡くした。でも、担任が言った。「奇跡を起こせる」。店長が言った。「生きててくれて嬉しい」。友禅が言った。「生きたい」。僕の周りはみんな変人だと思う。友禅の「生きたい」が頭を駆け回る。僕は、あるところに電話をした。店長に、車を出して欲しいと頼むとすぐに準備をしてくれた。軽トラの助手席に座り行き先の書いた紙を渡すと心配そうにこっちを見つめた。「大丈夫」そう言うと、戸惑いながらも車を出してくれた。車が止まったのは警察署。車を降りて、自動ドアを通った。心配性の店長が車で待っていられるはずもなく、物陰に隠れながらついてくる。隠れてはいるがバレバレで、挙動不審な店長は警察の人にも声をかけられていた。そんなことはどうでもよくて、本題は、ある人に会いにきたのだ。受付でその人の名前を伝えると簡単に中に通された。その人は、僕がやった放火事件の担当をしていた刑事さんだった。白髪まじりの頭にきっちりしたスーツを着て、二人分のコーヒーを持ってきた。たくさんの刑事さんたちがいる部屋の隅にあった机に通された。ソファーに腰掛け、名刺を渡された。昔もらった封筒の五十万のお札に紛れて入っていた古い名刺と同じ名前だった。沈黙の中、話し出したのは僕だった。
「あ、あの、僕、昔知らない男の人からこのお金を受け取って、あなたの名刺を見つけたんです。母のこと、知りませんか?」
刑事さんは、少し顔を曇らせてから、僕の目を見て話し出した。
「よく知っています。佐藤さんには、相談を受けていました。君のお父さんのこと。その封筒を渡したのは、私です。」
僕は、この時、真実を知る覚悟が足りていなかったと思う。刑事さんは、知っていることを全て話してくれた。
約十年前のことです。赤ん坊を連れた綺麗な女性がここを訪ねてきました。その時、彼女は今の君みたいに、声を振るわせながらも自分から話し出してくれました。最初は驚きました。いきなり服を脱ぎ出すんですよ。でも、彼女なりに必死に伝えようとしていたのだと思います。彼女の体には、痛々しい傷跡やアザがいくつもありました。それを見ただけですぐに把握できました。でも、彼女は、助けを求めにきたわけではありませんでした。女性刑事たちに子守りをされている君を指差して、あの子を守って欲しい。そう言いました。本人が望まない限り逮捕に踏み出すこともできず、調査をすることすら断られました。できるだけ安い家を探し、そこに身を潜めるように言いました。その代わり、週に一回、電話でもいいので状況を報告して欲しいとお願いしました。彼女は、君が成長するにつれ、仕事を増やし、夜の仕事まで始めていました。私は、彼女を止めることができなかった。彼女は、私たちに電話をすることも無くなりました。家を訪問すると、そこは空き家になっていまた。大家さんに聞くと、君のお母さんと、知らない男が家のものを全て大きなトラックに乗せて、去っていったと言うのです。その何日か後に、私たちが独自で調べていた男、君のお父さんが、彼女に貸し出した家の近くの川から、遺体で見つかりました。その次の日、受付に私あての通帳が届きました。その通帳には、手紙がついていました。君のお母さんからでした。「りんに返して欲しい」とだけ書かれていました。君のお父さんは、心臓を二回刃物で刺されていました。私は、彼女が関係しているのではないかと思い、この事件の担当を自ら受けもちました。調査を進めると、あなたのお父さんは、無職だと言うのに、大量のお金で毎日遊び歩いていたことがわかりました。でも、借金など、人にお金を借りることはなかったと証言が取れました。調査を始め二日目、近所のアパートの一室が燃えていると通報がありました。そして、黒焦げになった遺体が見つかりました。それがあなたのお母さんでした。あなたのお母さんは、人を殺し自殺した。そう記されることになりました。私が知っているのはここまでです。
信じられなかった。僕は、母を悪者にして、母を殺した。悪いのは全て父だった。母は、顔も知らない父から僕を守っていたことを知った。正直信じたくなかった。でも、きっと事実だ。母は、いつも僕のために動いていた。自分の話はせず、僕を笑わせてくれていた。一緒には食べられないご飯も、美味しかった。どんなに忙しくても、毎日一緒に、手を繋いで花を買いに行った。母はいつも、僕の味方だった。このお金も、やっと分かった。父から、この封筒だけは守ってくれたんだ。涙が、手に持つ茶色く分厚い封筒を濡らす。時間だけが流れる。僕は、その場に起立して、直角に頭を下げた。顔をあげ、最後に、もう一つのお願いを聞いてもらった。外に出ると、腕を組んであっちに行ったりこっちに行ったり、落ち着きのない様子の店長がいた。僕に気づくと、急に抱きついてきた。無理矢理離して店長にもお願いをした。刑事さんにもらった紙を渡し、車に乗った。途中白いカーネーションを買って向かったのは、母の遺体が見つかったアパート。アパートといっても空き地になっているので、母がいるかはわからないけど、空き地の入り口に二つの花を置いて、手を合わせた。封筒を握りしめ言った。
「ごめんね、気づけなくて。ほんとにごめんなさい。」
そして、上を向いた。
「そっちに僕の親友が行ったんだ。うるさいけど、母さんにそっくりだよ。仲良くしてやってください。僕も…。いや、大好きだよ」
深呼吸をしてトラックに乗り込んだ。窓を全開にして、風を浴びながら帰る。途中「ペニチュア」によってチグリアを買って歩いて帰った。店長に呼び止められ、振り向くと、「また明日」そう笑った。深々と頭を下げ、「また明日」そういって背を向けた。赤いチグリアを一輪握りしめて、満月に重ねた。普段は不気味な花にしか見えなかったのに、綺麗な色に、笑みを浮かべた。すると、急に視界が明るくなった。腕で光を隠すと、大きな音とともに光が近づいてきた。一瞬だった。友禅のお葬式に出て、海にでも身を投げようと思ってたんだけど。地面に広がる赤い血を見ながら涙を流し笑った。僕のチグリアも、血で染まってしまった。あの日の母の血の色だった。これからは、ずっと一緒だよ。母さん。友禅。小さくだが聞こえる。友禅のうるさい声が。仰向けになり、最後の呼吸と共に言った。
「ありがとう、僕は、幸せだ。」
チグリジア @Mahuyu1111
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