第3話 馬鹿が嫌いな姉
姉の彩乃と泰恵は九歳も歳の離れた姉妹である。ここまで離れていると、それぞれに取り巻いている時代や環境が異なり、一緒にりかちゃん人形で遊んだとか、プールに行ったとか、そんな甘い思い出は一つもない。泰恵が物心をついた時には、もう既に姉には自分の世界があり、泰恵と積極的に絡んでくれることは一切なかった。
姉は自分の世界のみに関心が強く、自分とは関係性の薄いものに対しては、氷のように冷たくあしらうような子どもだった。姉妹である妹の泰恵のことでさえも、関心を持とうともしなかった。あの当時、泰恵の姿は視界に入っていなかったのかもしれない。
そんな妹の面倒を一切見ようともしない姉のことを両親は、注意したりとか、お願いするとか、叱ることは全くなかった。
なぜなら姉は、小学生の頃から勉学に優れ、常に学年トップの成績を誇っていたからである。中学校に進学してからも、学力面での姉の快進撃は留まることを知らず、卒業式では総代を務めたほどであった。
そして県内でトップの進学校を推薦入試で突破し、またその高校も首席で卒業。その後は一橋大学に進学し、さらに両親を喜ばせた。
自分たちの青春時代に手にすることができなかった、学問においての輝かしい戦勝記録、高学歴は、両親にとって最大の誇りであって、妹の世話を焼かない、構わないなどということは、いつしか一家にとって“たかだか”と表現されるような事柄になり下がっていた。
片や泰恵は、一人で絵をかいて過ごすことを好む子ども時代を送り、小学校に入学してからも学問においては人並みの能力しか持ち合わせていなかった。どの教科でもクラスの中間くらいの学力であり、常に彩乃と比較され、その都度、両親を失望させてしまった。
「彩乃ちゃんはもっと出来たんに。」
「姉妹で、なんでこんなに、差がついてしまうんやろう。恥ずかしわぁ。町内会でも上の子は出来たんに、下の子は普通やねって、きっと笑われとるわ。」
そして終いには、
「姉妹でこれ以上差がついたらいかんし。」
と言われ、小学生のうちから強制的に学習塾に行かされたり、無理やり家庭教師を付けられたりした。
「少し泰恵ちゃんの宿題を教えてやってま。」
手間暇をかけたところで、姉ほど成績が良くならない泰恵に対し、母親がしびれをきらして姉に頼み込み、しぶしぶ姉が泰恵を指導することもあった。もちろん、母の中にも普通の姉妹らしい絡みを見てみたいという思いは少なからずあったからこそ、彩乃に声をかけたのだろう。しかしながら数分後、母の耳を叩いたのは、姉・彩乃の罵声だった。
「数字変えただけの問題が解けんなんて、サル以下やよ。お前あほや。脳みそないやろ。」
彼女は机をバンバン叩きながら、怒りに震えていた。
姉は、どの教科でも悩んだことがないくらい学力には優れていたが、唯一、理解に苦しんだ事柄があった。それは『自分が理解できた課題・問題を、理解できない人間の存在』というものだったようだ。
その存在がまさしく妹・泰恵だった。
理解に苦しむ人間と対峙することをだんだん嫌がるようになり、姉は母に頼まれても無視するようになっていった。
姉は一橋大学卒業後、地元では知らぬ人はいないと言われる新聞社に就職し、周りが羨むようなエリートコースを順調に歩んでいった。そして順調にキャリア形成をしていた三十二歳の時、取材先で知り合った地元の有力企業勤務の男性と恋に落ち、結婚をした。
「東京大学工学部出身で、大学院まで出ている人なんや。ゼミの教授の紹介で、石川県の七尾市にある武山製作所に就職したんやって。年収八百万円やよ。もう彩乃ちゃんは働かんでもいいわ。旦那さんに食べさせてもらえるしね。」
姉の結婚が決まってからというもの、母は毎晩のように相手男性の高学歴とキャリアの素晴らしさを語りたがった。そして結婚式は、姉がこうしたいと言ったイメージを全て叶えてあげた。後でわかったことだが、結婚式代は両家で折半だったらしく、姉の結婚式のために親は父親の退職金から、五百万円以上使っていた。エリートをゲットするという、我が家に更なる名誉をもたらした姉の存在は両親にとって、この時すでに絶対的なものになっていた。
泰恵は地元の人しか知らないような四年制大学に進学し、たびたび姉と嫌らしい比較をされ、屈辱的な思いを抱くこともありながらも大学生活を謳歌していた。
姉が結婚して実家を出て行ったすぐの大学四年の初めの頃、泰恵は一度その当時付き合っていた彼氏を家に連れてきて、母親に紹介したことがあった。
母は、その場では
「優しそうな子やないの。これからも泰恵をよろしくね。」
など、目を細めていたものの、彼が帰った後、すぐさま血相を変えて、こう言い放った。
「大学卒業したら、あの人と結婚するとか言わんといてや。泰恵と彼が通っている大学なんて、石川県の人以外、誰もなんも聞いたことない大学なんやからね。大したとこ就職できんやろ。彩乃ちゃんの旦那さんが勤めとるような大企業は、もちろん勤められんやろいね。大学にも本人にもコネもないやろうしね。姉妹でこれ以上差がつくのは嫌やし、そんな人と付き合わんと、もっと上の人と付き合えんがんか?」
子どもの頃から苦々しい思いで味わってきた、この暴力的な引き算を、自分と関わる人間に対しても応用してくる母親に対して、この時、泰恵の心の中に、殺意の波動が起こることをはっきりと認めた。心の柔らかい箇所は、もう耐震の限界を超えていた。
これ以上、親元にいたら心が腐りきってしまうと判断した泰恵は、地元で就職活動は行わず、大学卒業まで終始、両親の前では気の触れた芝居を繰り返し、忌々しい母の引き算から逃げるように地元を離れ、上京した。
上京後、派遣社員などしながら昔から憧れていた漫画家を目指し、様々な出版社が行っているコンテストに応募し続けた。そして上京して二年目の夏、文芸館が主催しているコンテストで準グランプリを受賞し、ペンネーム、キサラ★ボロネーゼとして、漫画家のデビューを勝ち取った。その後も、順調に新作漫画の連載を続け、三作品目の『見返り美人』が大ヒットし、テレビドラマ化までされた。
これを機に姉妹の立場が逆転し始めた。
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