第2話 嫌味を添える姉

休診日の日曜日は正面玄関が閉まっているため、泰恵は通用口から入った。エレベーターホールに向かう途中の売店の前で、姉の彩乃が険しい表情で立っていた。

「遅いわー。母さん、ずっと待っとってんよ。」

「糸魚川駅付近で信号機の故障が起こった関係で、新幹線が遅れとるって、メールしたやろいね。」

「そんなもん知らん。どうせ駅とかで、サインやら写真に応じとったんやろ。あんた昔から、ちやほやされるの好きやし。」

姉は泰恵と対峙するとき、必ずと言っていいほど、語尾に嫌味を添えることを忘れない。これは、漫画家として泰恵が生計を立てられるようになってきた十年くらい前から見受けられるようになった傾向である。二十代の頃は、姉による度重なる細かい嫌味の襲撃に対し、泰恵の心の中にも、軽い殺意の水音が聞かれたこともあったが、現在はそんな水音は、はたりと聞かれなくなった。姉の放つ害悪に、毎度イラついていられるほど、捨て時間を持てなくなったからだ。

またここ数年の姉の様子を見ていると、泰恵に対して何か言うとき、絶対に視線は合わせようとしてこないことが分かった。妹に対して、ちゃんと嫌味を言うことが怖くなってきたのかもしれない、と泰恵は推測していた。

 母の病室は四階の北側病棟だった。泰恵が病室に入るやいなや、久々の再会のあいさつもそこそこに、姉はこの個室のスペシャルを、満面の笑みを浮かべながら、歌うように披露し始めた。風呂付の部屋で、一日当たり数万円かかること。この病院には、似たような部屋があと三室あるが、その一室には金沢放送の社長の奥さんが検査入院されていること。でもこの部屋が、一番設備が整っていること。姉は昔から、そういう比較の仕方が大好きな人だった。

そんなスペシャルを与えられていた母は小さくなって横たわっており、かつての面影がないほどにやせ細っていた。がんらしい痩せ方で、痛々しさも伝わってくる。母が希望してこの部屋にしているわけではないだろう。単なる姉の愚かなプライドがさせた意味のない行動である。姉はそれを優しさだと真剣に信じ込んでいる。誰が病室代を支払っているのか、と言う話題は誰も出さなかった。出さなくとも姉ではないことは皆が把握している事実だったし、せっかくの貴重なお見舞いの時間が台無しになってしまうことも承知していた。

明らかに命が長くないと自身でも悟っている様子ではあったが、泰恵を迎え入れると嬉しそうな表情を浮かべ、元気に振舞った。

「元気そうやね。よう、来てくれた。」

そばについていた父が、母のベッドをゆっくりと少し起こした。

「元気だよ。」

泰恵はベッド横に置いてあった椅子に腰かけ、袋からお土産を取り出した。

「父さんから母さんは手術後だと聞いていたから、何がいいかなって思ったんだけど、いつでも気が向いた時に食べられるようにと、日持ちするもので選んだんだわ。母さんが好きだった高野フルーツパーラーのゼリー。ほら母さんの好物だったスイカゼリーもあるから、気が向いたら冷やして食べてや。」

「ありがとう。」

母が礼を言い終わるやいなや、姉は横からお土産を雑に奪い取り、応接セットのテーブルに無造作に置いた。

「ほや、泰恵に渡したいもんがあったんや。あんた、その棚の一番上の引き出しから封筒取ってや。」

姉が茶色い嫌な空気を出してきたことを敏感に察知した母は、話題を変えようと父親に指示を出した。

「これか。」

父から泰恵に渡された封筒。そっと中を覗いてみると、十万円が包まれていた。

「なんなの?このお金。」

「今日、遠いところ来てくれたさかえ、交通費と小遣いや。」

「そんなん、いらんわいね。」

封筒を母に突き返すと、横から姉が奪い取り、私の膝の上に置いてきた。

「貰っとかんか。母さんの好意やないの。久々に会って、こうやって小遣いを上げることも母さんの嬉しいことの一つなんやから。」

口元だけ笑みを浮かべている姉。そんな姉の表情が、反吐が出るくらい下品で、泰恵は思わず目を反らし、母の目を見つめた。

「私はちゃんと働いとるし、いいって。あのな、あと数年で四十歳を迎えようとしている子どもが、親からお金なんかもらえっかいね。このお金は、その引き出しに入れとかんか。入院費の足しにしまっし。」

あえて母ではなく父に封筒を渡した時、母のやつれた口から、泰恵が子供の時分から毛嫌いし、逃げてきた忌々しい言葉が漏れた。

「姉妹で差がついたらいかんし。」

その瞬間、姉がまだ親から小遣いをもらって生活していることをしっかりと悟った。

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