引き算

ラビットリップ

第1話  末期がんの母

「漫画とはいえ、連載の締切って大変なんでしょ。毎週、毎週。そりゃ、逃げ出したくなる時もあるよねぇ。」

地方田舎のタクシー運転手は本当に苦手だ。ちょっとどっかで見たことある顔を後部座席に見つけると、すぐに馴れ馴れしい友達づらをして話しかけてくる。ため口になるまでの時間が極端に短すぎる。『病院には誰か知り合いでも入院しているの?』など、無粋なことを聞いて来られないだけ、今日は少しだけましだが。

「ええ、まぁ、わりと。」

早く聖霊病院まで着いてくれないかな。金沢駅からなら、タクシーで五分程度でも到着する距離なのに、面倒な人と出会うと、やけに長く感じてしまう。

「やっぱ、新ネタはいろいろ旅行などして仕入れるの?」

「ははぁ、そうですね。あ、そこの自動販売機の前で止めて下さい。飲み物を買っていきたいんで。」

「あぁ、ここでいいの?はいはい。」

泰恵は病院向かいにある、自販機の前でタクシーを止めさせた。メーターは九二十円を指していた。

「おつりはいいんで。」

千円札を渡し、降りようとした時、運転手が、

「孫があんたの“ブラックローズ”と言う漫画が好きでね。あのドラマになったやつ。毎週見とったわ。プレゼントしたいさかえ、ここにサインしてま。」

と使い古したメモ帳を前から差し出してきた。開いたページをよく見てみると、下隅の方は苦い茶をこぼしたような、不細工なシミで浸食されている。何歳の孫に見せようとしているのか、原作漫画のファンなのか、ドラマに出演していた俳優さんのファンなのか、皆目見当がつかなかったが、もう時間もなかったので、いつも通り“ブラックローズ”の主人公の楓の姿と自分のペンネームを書き、運転手に返した。

「あんやと。孫も喜ぶわ。」

泰恵は軽く会釈してタクシーから降りた。扉が閉まり、タクシーが走り出したのを見届けてから、細い道路を挟んだ向かいに澄ました表情で建つ、聖霊病院へ歩き始めた。

                   ●

「彩乃と泰恵、姉妹が仲良くしとるとこ、最後くらい母さんに見せてやってま。」

突然、父から電話が入り、涙ながらに訴えられたのは、風に深秋の冷気が感じられるようになった十月半ば過ぎのことだった。

母は末期の大腸がんだった。

手術は成功したものの、安心はできない状態であると医師から告げられたのだと言う。

電話越しに母との最期の別れを直感した泰恵ではあったが、連載二本と単発の仕事を多数抱えており、自由に身動きが取れる状態ではなかった。

 泰恵が煩悶としている様子を、傍で見ていたアシスタントリーダー兼秘書の亜美ちゃんが、スケジュール帳を片手に近づいてきた。

「きさら先生。先生のスケジュールを見ましたら、先生は来週の日曜日、北陸新聞社

主催のイベントに出演のため、故郷の金沢に行かなければならないことになっています。イベントは午後十五時からですから、始発の北陸新幹線に乗り、病院に行かれたらどうでしょうか。お調べしましたら、お母様が入院されている聖霊病院の場所は、イベント会場となる北陸新聞社本社と目と鼻の先ですし、新幹線の乗車時間変更さえすれば、お見舞いは可能です。ぜひ、お母様のところに行って来て下さい。」

と提案してきた。

確かに来週の日曜日しかチャンスはなかった。すぐさま亜美ちゃんに新幹線の時刻変更をお願いし、そして父に慌ただしい見舞いにはなるが、来週の日曜日の午前中に伺うと電話で告げた。余計な算段はあえて告げなかった。

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