第6章– 母の罪深き愛

第6章– 母の罪深き愛


作者:コソン 翻訳:山城



「母さん!」ヌリは声をかけた。


安心して、ヘンリエッタは持ち物を置いておいてから息子のもとに走り寄った。


出入り口のところにいる禿げ頭の兵士のもとを彼女が離れるや否や、兵士は顔をしかめ、何かをもごもごと口にする。


アルディスは道を譲り、ヘンリエッタがヌリの傍に跪いて熱いハグを交わせるようにしてやった。


「ああ、神様」


母親に抱きしめられて、ヌリの精神奥深くに潜んでいたストレスや心配は落ち着いていった。 ヌリは彼女の体のぬくもりを、腕の柔らかさを、そして顔の半分を埋めることとなっていた胸の居心地の良さを感じていた。


「もう魔法は使わないって約束したじゃないか」


「あなたがちゃんと気を付けてさえくれていたなら、その必要もなかったのよ」


ヌリを抱き締めるその腕の力が緩められ、感謝の波と深い愛情とがヌリに打ち寄せられていく。 彼女の笑顔を見ているだけで、二人がともに育んでいった数え切れぬほどの思い出、一緒に織ってきた年代史のタペストリーと同様に、彼女から抱かれている底知れぬ愛情と優しい献身との記憶がよみがえる。


「アドララとメイヴが急いで離れていくのを見たわ。


何か起きたの?」


優しくヌリの手を撫でながら、彼女の親指がヌリの肌をなぞっている間、その瞳には深い心配の気持ちが表れていた。


「い、いいや……ただ、あの子たちは僕を休ませてくれただけだよ」


「あら、それってとっても女の子らしい気づかいだわ」


ヘンリエッタは優しい手つきでヌリの頭をなで、指の先端でその髪の毛を繊細に触る。まるでその毛の一本一本に何か秘密があるかのように。 そしてその穏やかな手つきは痛みや心配の気持ちを和らげてくれる香油のように、ヌリの心を落ち着かせていった。


「たまたま貴方と中尉が会話しているところに出くわしたのよ。事件について話していたの?」


「いいや、私はただ彼のところに来て、無事かどうか確かめただけだ。必要以上に邪魔をする予定はなかった」


「構いませんわ、中尉閣下」そういってヘンリエッタはくすくすと笑った。


「お気遣いいただきありがとうございます」


アルディスはヘンリエッタに首を振っているようには見えなかったが、ヌリのコンディションの方がほかの何よりも彼女にとって大事だった。


これ以上の注意が必要かどうか、ヌリの身体を探りつつ、ヘンリエッタはヌリのアセンダントの印にちらりと目を向けて、慎重に襟元から視線をそらした。 彼女の目が、現状を認識して見開かれる。 しかしよくリハーサルをしてきた熟練のパフォーマーのように、彼女は瞳に現れる好奇心や畏怖の気持ちを静かに隠した。


落ち着いて、ヘンリエッタはヌリを探ることをやめて距離を取ると、アルディスに一歩身を近づけた。 彼女の唇は中尉に向いた礼儀正しい笑顔の形を描き、目と目が合う。


直感的な魅力を兼ね備えたヘンリエッタはブラウスを整え、スカートの裾を引っ張り、精一杯自分を良く見せようと努力した。 そして彼女はアルディスの手を取り、握り、静かな祈りをささげた。 指が絡み合ったまま、静かに握り合う。


ヌリと禿げ頭の兵士は彼女の態度の予期せぬ変化に非常に驚き、混乱じみた表情で遠くから眺めるほかなかった。


「助けてくれてありがとうございます、中尉閣下。もし何かお返しできることがありましたら、どうか……教えてください」


ヘンリエッタは彼の手に重ねた自身の手に伝わる脈のリズムを感じ取っていた。 彼女の真摯な気持ちと信頼とを伝えたいという気持ちから、シンプルな、しかして意味深い行為に走ったのである。


彼女の直接的な好意にアルディスは不意を突かれ、眉を上げた。 彼女の行為が敬意を表しているものであるのかと熟考し、しかし彼女の光彩を観察するうちに、違うメッセージが感じられてきたのである。


この状況であるにも関わらず、彼は謙遜の意を表し続け、彼女の熱心な思いに応えることをしなかった。


「もうたくさんだ!」彼は唸るように答えた。


ヘンリエッタがアルディスに対してその軽薄な行動をし続けたのを見ながらも、禿げ頭の兵士は自身の身に沸き起こる羨望の痛みを感じざるを得なかった。 彼女の魅力的な振る舞いはまるで燻る残り火であり、自身の内に燃え上がる感情の炎でもあった。


彼は不意に奴隷小屋を出て行った。彼の不自然な動きは、混乱の感情を表していた。


「ああ、もう、そんな必要はない。私はコドラの騎士の名において生きて来ただけだ」


アルディスは優しくヘンリエッタの手をどけ、そして身を引く。 僅かに振り向き、奴隷小屋に向かっていこうとした。


「そしてもう出るところだ」


彼は出ていく最中、ヌリの方にちらりと視線を最後に向けた。感心と希望とに目を光らせていた。 代々来たる無限の時、その年代史にヌリが記し続けていくであろう遺物に関して、アルディスは揺らぎのない信念を持っていた。


「では、二人とも気を付けて」


「ふふ、さようなら」ヘンリエッタは笑って応えた。


一瞬だけ歯を見せて笑うと、アルディスは出入り口を通り過ぎて奴隷キャンプの群衆の中に消えていった。


ヘンリエッタの視線は彼の姿がすっかり消えるまではアルディスに向いたままで、物足りなさそうなため息が彼女の唇から零れ落ちた。


「なんて可愛い子なの」


ヌリは母親が傍に立っているのに気が付き、よく注意して目を向けた。 彼女がいつも向けてきた馴染みのある愛情深い笑顔が、自分以外の誰かに向いているのに対して、どうしようもない嫉妬の感情がわいてきたのだった。


「母さん!」ヌリは叫んだ。


ヘンリエッタはもう一度ため息をつく。今度は先ほどよりも深いものだった。 彼女の秘密の空想は振り返ると同時に消えていき、ヌリに対しては物憂げな表情を向けていた。


「私がおばあさんと思われるには、まだ十一年あるのよ、ヌリ。夏を十一度。私に若さを満喫させてくれない?」


「この生活から抜け出たら満喫してよ」ヌリは答える。


「もう、ああもう、私の子ったら」


ヌリがいつものように自由への願いを口にしたのを聞き、ヘンリエッタは笑わずにはいられず、そのままヌリのベッドに戻っていった。


傍にしっかりと腰を落ち着け、ヘンリエッタはシャツの襟もとを緩めて下げると、アセンダントの生誕痕を露わにした。 喜びと不思議に思う気持ちとが沸き起こり、彼女の指は慎重に、ヌリの身体に走る複雑な線をなぞっていく。


「本当に起きたのね……


あなたが神の使者になったんだわ」


(母さんは全部知っていたんだ)とヌリは胸中でつぶやき、心の中は様々な感情でごちゃまぜだった。 このことへの気づきが、彼の気質に変化をもたらしたのだ。


疑いが思考をよぎる。彼女の母親を楽しませ続けようという彼のこれまでの労苦や努力は、責任感からくる見せかけのものにすぎなかったのかと思わざるを得なかった。


彼は拗ね、その誇りは、長年彼に愛を見せてきた女性への自分自身の態度によって傷をつけられた。 しかし見えない怒りの気持ちが爆発寸前の状態ながらも、ヌリに自分の行動に正当性があると確信させていた。


「どうしてこれまでこの事を教えてくれなかったんだ?」ヌリは不平を口にした。


「僕に何が起きるか知っていたの?  神に会うことも、力が延ばされることも、もしかしたら僕が死ぬかもしれなかったことも? 

僕は、母さんのふざけていたりくつろぎすぎている態度に我慢しようとしているけど、今回は行きすぎだ……」


ヌリの顔にはっきりと疲弊が表れているのを見て、ヘンリエッタは息子を見上げ、共感と哀れみとを腕に込めながら、もう一度抱き締めた。ヌリの耳元に耳心地の良い言葉をささやき、彼の困惑した心情を和らげ、堪えさせようとしたのだ。


「あなたに秘密にしておこうなんてつもりは決してなかったのよ。あなたがその印と共に生まれて来なかった以上、そんなことは無理だと思っていたもの。でも、あなたの思うようにそれが表れてよかった。 これまであなたは一生懸命頑張ってきたし、だから神様に報われたんだわ」


彼女は優しくヌリの強張った体を抱き締め、心を締め付ける重荷と心配の気持ちを解いていく。 ヌリの怒りとフラストレーションの嵐は落ち着き、新たな落ち着きの気持ちが生まれていった。


慎重に、ヘンリエッタはヌリの上体をマットレスに寝かせ、頭を枕に乗せてやる。 彼女は優しく彼に羽根布団をかけてやり、温かく心地のよい寝床を作り上げてやった。


「許してくれとは言わないわ。でも、私はあなたに苦労をかけたくないから頑張ってるって、わかってちょうだい。 世界の真実がもつ辛さに子供が晒されたりするべきではないのよ……あなたの母親として、私は失敗してしまったけれどね。だからもう少しだけ、待って欲しいの。そうしたら、好きなようにやったらいいわ」


感情が欠けたような感覚で、ヌリはヘンリエッタに歯向かうようなことはしなかった。 彼らが育んだ絆はまだ彼の中にしみ込んだまま、骨の折れるような道を導いてくれる彼女の能力に対する信頼は残っていたのだ。


彼女はヌリの頭を優しく揺すり、深い結びつきの中、瞳と瞳をしっかりと合わせた。 ヌリは彼女の眼の中に悲しみをとってみた。まるでヘンリエッタは静かに自身の重荷を背負おうとしているかのようだった。


「これって、父さんもアセンダントってことなんだよね?」


「そうよ」ヌリの問いに、ヘンリエッタは答えた。


「じゃあ、父さんが僕の力に気付いて、自分がやっていることを放り出して恥ずかしげもなく戻ってきたりしないかな?」


「わからないわ……。でも、あの人は外にいて、いつもあなたとその将来について考えてくれていると思うわ」


「僕がどんな状態か、考えることもできないと思うよ」


「ヌリ……」


ヌリは顔をヘンリエッタから背けて見せた。 彼は腕を頭の下において、もう一つ枕のようにする。


「あいつが何をしていても僕には関係ないけどね。時が来たら……僕の力は母さんのためだけにつかう」


その言葉は、ヘンリエッタの母としての気持ちを強く打った。 彼女は幾度となく抱いて来た思いを胸に、笑わざるを得なかった。


予期せぬ愛情の表れに、ヘンリエッタは前に寄りかかりながらヌリの上に体を優しく預けて休む。 彼女の胴体が愛情豊かな屋根のように彼を覆い、その腕は顔のすぐ近くで折りたたまれていた。 そうして、彼女はしっかり彼のすぐそばで休むことができたのだった。


「私の小さな希望……」




終わり

作者:コソン 翻訳:山城


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