第2話 南北を結ぶ通路にて

 中央棟の職員室に日誌を出した後、鞄を肩に担ぎ直していつものように北校舎へと向かう。今日もあいつに聞かなきゃいけないことがある。


 南校舎と北校舎をつなぐ通路を歩いていると、窓の外で唐突に甲高い奇声と笑い声が上がった。反射的にそちらを見れば、数名の女子生徒が校門の外に停まっているバスに向かって全速力で走って行く。――あれは間に合うのか? ドアが閉まりかけている。あれは間に合わないだろう。オレは残念だったなと、心中で労う準備をしていた。


 しかし、予想に反して再びドアが開き、バスが生徒たちを吸い込んで、駅に向かって出発する。


 運がいい。運転手が優しかったんだな。


 転げるようにバスに乗り込んだ彼女たちの姿は、失礼ながらちょっと滑稽に見えた。思えば、オレとチカも、受験が終わるまでの約一年間一心不乱に走ってこの学校に滑り込んだ。オレたちも傍から見れば、滑稽に見えたかもしれない。本当に、よく間に合ったものだと思う。


 グレーのチェックのスラックス、校章入りのYシャツ、臙脂のネクタイ。中学卒業後の同窓会にこの制服を着て行ったら、「お前その制服似合ってねえー」と散々からかわれた。その通りだ。誰よりもオレ自身がそう思っていた。


 ダチにいじられるオレを見て、紺色のブレザーに白ブラウス、臙脂のリボン、スラックスと同じ柄のスカートを履いたチカが、嬉しそうにはにかんでいた。春風で頬に纏わる栗色の髪を形の良い小さな耳にかけながら。


 オレたちも、運が良かったのか?


 だとすれば、オレたちには深月みづきがついていたことだな。


 深月はオレたちの幼馴染にして、学問の神、いや、勉強の鬼? どちらの呼び方でも誤解を生んでしまうか。そうならないために最初に伝えるべきことは、深月を見てガリ勉だと思う奴はいないということだ。


 あいつは、息をするように知識を取り入れ、遊ぶように問題を解く。神がかり的な頭脳を持ちながら本人はそれをなんとも思っていない、故に自慢もしない。

 

 基本、不愛想で偉そうだから誤解されやすいが、あいつは人を馬鹿にしているわけではない。逆に、御神木とかバイオスパコンとか呼ばれると、馬鹿にすんなと言って機嫌を損ねる。


 勉強の鬼というのは……、これは一言では説明できない。



 中三になったばかりの四月、幼馴染の四人で下校中、深月が唐突に言った。

「俺は明菱めいりょうを受ける。だから、お前らも俺と一緒に来いよ」

 オレは「へ?」と素っ頓狂な声を上げた。


 明菱なんてレベル違いもいいところだ。各中学の上澄みが集まるような高校に、これまでの二年間、平均に至りそうで至らないオレが受けるようなところじゃない。


 オレと近い成績の三森千夏みもりちかを見ると、鏡を覗いたように同じような顔をしていた。それで、お互い下がったままの顎に気付いて口を閉じ、もう一人の幼馴染、乙真紀きのとまきに視線を集めた。


 マキは肋骨に届くストレートの黒髪を肩の後ろに跳ね上げると、微塵も動じる様子を見せずに涼しい顔で言ってのけた。

「言われなくても、私は元から明菱を受けるつもりよ」

 それを聞いて、オレが言おうとしたことを、チカがおずおずとしながら先に言った。

「深月と真紀なら射程圏内だと思うけど、わたしと常葉ときわは正直難しいと思うな」

 オレは深く頷いて言う。

「そうそう。受も受も同義語の深月が、脳みそ分けてくれるってんなら別だけど」

 それはいつものジョークだった。それに対して普段なら深月は、きっぱりと断り、寸鉄をくらわす。

「どっかその辺で買ってこい」とか、

「星に願えば?」とか、

「サンタに手紙書いとけよ」とか、

 まあよく出てくるものだというくらい、同じ路線でこれまで様々なバリエーションを披露してくれた。

 だから、趣向の違う答えが返ってきた時、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「じゃあ、俺が教える。それならいいだろ?」



 その夜、「オレ、明菱受けよっかな」と台所の親に言ったら、すごいウケた。天ぷらをカラリと揚げながらケラケラ笑って、「あんた寝ぼけてんじゃないの? ちょっと顔洗ってきなさいよぉ」と言い、またぷふふと笑う。笑うと幸福ホルモンが分泌されて健康になるらしいじゃねぇか。オレは意図せず親孝行をしたのだ。こめかみに血管が浮いたままヘラリと笑い「冗談だよ」と言ってその場を離れた。


 面談で先生に相談したら、「神木かみきの友達だからといって、自分たちがデキるわけじゃないんだぞ」と言われた。核心を突いてはいたが、いきなりそれはキツいぜ、先生。苦笑する生徒の顔に気づいていないのか、先生は尚も続けた。「きのとはいい。だが、お前たちは勘違いするな。神木も何を考えているんだか」と頭を掻いて苦り切った顔をした。


 先生は普段そういう不躾なことを言う人ではなかった。進路の決定という重要な局面に当たって、寝言を宣うオレをどう説得したらいいのか腐心した、しかしそれを伝える言葉を間違えた、ということにしておこう。それに、「お前たち」と称したからには、オレの前にチカとも話したのだ。


 チカは従順だが、それ故に頑固なところもある。そして、先生にとっては厄介なことに、先生よりよっぽど深月を信頼している。きっと揉めたに違いない。その後で、また同じ申し立てをするオレに、業を煮やしてしまったとしても、まあ、気持ちはわからないではない。


 しかし、普段は温厚で調子のいいオレも、この時は珍しく頭にきた。ヘラヘラ笑いながらも、その実ガツンと頭にきていた。オレだけじゃなく深月もチカもバカにされたのだ。内側からも沸々と怒りが湧いた。


 オレは、いや、たぶんオレたち四人は、自分のことをバカにされたところでそんなに気にしなくても、他の仲間がバカにされたら、そいつのためにオレらが怒る。同じマンションで四つ子みたいにして育ったせいかな。仲間意識ってやつ?


 怒りの勢いも手伝って、オレが正式に話に乗ると、深月は既に返事をもらっていたかのように普通にうんと頷いただけだった。心なしか嬉しそうに見えたのは、気のせいだったのか、実際嬉しかったのか。聞いてみてもよかったが、殴られそうだからやめておいた。


 それから受験を迎えるまでの約一年間、深月は約束通り勉強を教えてくれた。朝と休み時間は暗記系。放課後は深月の部屋に四人で集まって演習。わからないところは深月が解説してくれた。マキも手伝ってくれた。


 深月に教わるというのは、あいつの思考回路をインストールするようなものだった。あいつの頭の中はすげえスッキリしている。物事が一直線にわかるという感覚ほど気持ちのいいものはない。オレが深月に教わって今でも役に立っているのは、一番にその感覚だろう。


 努力が実って、この春、MAISONメゾン DE QUADクアッドの幼馴染四人組は、一人も欠けずに明菱高校に進学した。なぜ深月が高校も四人で通うことに拘ったのかは、たぶん、深月本人とオレしか知らない。そして、オレが知っているとは深月は思いもしないだろう。マキとチカに知れれば、なんて言われるかな。


 まあ、深月の動機が何であれ、オレたちは自分たちで望んでここにいるんだ。だから深月の口から聞くまで、オレからは何も言うまい。



 校門の外のバス停に、再び下校する生徒の列ができる。


 オレも早くあいつらと帰ろう。





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