第14話

 六月下旬。空は何層もの雲が重なり、湿気をはらんだ陰鬱な風が漂っている。


 梅雨のある日本では、六月はそういう季節だ。

 だが、これは本来のこの地方の気候ではない。


 いつもなら澄み渡った空が広がり初夏の到来を感じさせる季節だ。

 だが、今年は違った。

 今年は、夏の気配が一向に訪れない。いつまでもいつまでも空はネズミ色によどみ、川の水は冷たくしばれた。


「はあ、まったく、いやになってしまうよ」


 川に水を汲みに来たナスカの母は、その水の冷たさに閉口していた。

 この地方は上流で、その水は飲料水として十分に使える。

 ナスカの母は、イノシシの膀胱でつくったお手製の水筒を川にひたしてたっぷり水を汲むと、それをよいしょとくみ上げ、注ぎ口を紐で器用にしばる。

 そうして別の水筒を再び川の中にひたす。この作業をあと三回繰り返す。


 猟師の夫が生きていたころは、イノシシの膀胱の水筒を大量につくり、日銭を稼いでいた。

 ナスカの母が作る水筒は町でも評判で、ここから半日ほど歩いた町で売りさばけば、銀貨一枚で飛ぶように売れる。

 そうやって稼いだお金で、ナスカの通うトリニティ・カレッジの学費にあてていた。


「学問なんて、何の役に立つんだい? バカバカしい!!

 そんなことをやるくらいなら、家事のひとつでもできるようになるんだね」


 口ではいつもそう言っていたが、子のことを想わない親がいようはずもない。

 ナスカは母の誇りであった。

 字すら読めず、猟師という専業で口を糊する自分の娘が、中央の大学にまで進学するのだ。それを喜ばない親がいようはずもない。


「さて、帰るとするかね」


 ナスカの母は、イノシシの膀胱の水筒をみっつ背負子しょいこにくくりつけ、残りの一つをまるで赤子を抱くかのごとく両手でやさしく抱き抱えると、家路へと急ぐ。


 そこで、一人の女性に声をかけられた。


「すみません、ちょっとよろしいですか?」


 にこやかな笑顔で話しかけてくる、黒髪をひっつめにしたその女性は、黒いローブを羽織っていた。そのいで立ちは、アンディシュのそれに近い。カレッジの関係者だろうか?


「なんだい? やぶからぼうに」


 ナスカの母は、足を止めず家路にいそぐ。

 黒いローブの女は、にこやかな笑顔を絶やさぬまま、トコトコとした細かい歩調でナスカの母の横をついてきた。


「わあ。重そうですねー! あ、お水、半分、お持ちしましょうか?」

「いいのかい? じゃあ悪いが手伝ってもらおうかね」

「はい! 喜んで!!」


 黒いローブの女は、そういうとナスカの母が抱きかかえている水筒を奪い取るように受け取った。


「……結構重いですねこれ……チッ」


 黒いローブの女は、水筒をひとつだけ抱えると、明らかに不満そうな顔をした。ナスカの母は、結局黒いローブの女にひとつだけ水筒を持ってもらい、残りのみっつはそのまま自分で運ぶことにした。


 黒いローブの女は、水筒の重さに顔がひきつっていたが、変わらず笑顔のまま、ナスカの母に質問を浴びせかける。その瞳は、まるで糸のように細く細ぉくなっていて、不自然なくらい弓なりに反っている。


「奥さんの家ってぇ、あの、白い家ですよね?」

「ああ、そうだよ」

「家の前の菜園に、なんだか不思議な作物があるじゃないですかぁ。アレ、なんですかぁ?」

「ジャガイモだよ。何だか知らないが、娘が三か月前から育て始めたんだよ」

「えー? あれって猛毒のベラドンナじゃないんですかぁ?」

「違う違う。猛毒なんて腹の足しにならないもの、あんな大量には育てないよ」

「なるほど?」

「ベラドンナを育てていたのは、旦那が元気で猟師をしていたころの話だよ。とはいえ、ほんの少量だがね」

「なるほど、なるほどぉ。ベラドンナ、育てていましたかぁ!」

「ああ、矢じりや仕掛け罠の毒に使うんだよ」

「なるほど、なるほど、なるほどぉ! そうですかぁ!!

 あ、私、急用を思い出したので、これで失礼しますね!!]


そう言うと、黒いローブの女は自分から持つと言って奪い取った水筒を、ナスカの母に突き返してそそくさと帰ってしまった。


 なんだい? ありゃ。

 まったく変な娘だったよ。ま、恰好からしてカレッジの人間だろうから、ナスカと同じ変わり者なんだろうけどね。


 ま、そんなことはどうでもいいさ。


 早いとこ、明日の料理の準備にとりかからないとね。

 明日は、アンディシュさんがナスカのことを迎えに来てくれるんだ。 

 未来の息子に失礼のないよう、おもてなしをしないと。


 ・

 ・

 ・


 黒髪をひっつめにした黒いローブの女は、あるじにナスカの母親のことを報告した。

 あるじは、黒髪をひっつめにした女とそっくりの黒いローブ姿の男で、表情も女にそっくりだった。

 糸のように細く細ぉくなっていて、不自然なくらい弓なりに反っている。


「ベラドンナを栽培している魔女を見つけました! 家の前にそりゃあもう大量のベラドンナがあるんです!!

 あ、本人はジャガイモ? とかなんとか訳のわかんない嘘で言い逃れをしようとしてましたが、この耳で『栽培したことがある』とハッキリ聞きましたぁ!」


「なるほど、なるほど。ご苦労さま、メアリー。

 やむを得ません。その女性を裁判にかけるしかなさそうですね。

 はぁ……心が痛みます」


 男の名前は、マシュー・ホーキンス。


「クフ、クフフ……」


 魔女狩り将軍を自称するその男は、ひっつめの女が立ち去ると、くぐもった声で笑った。

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