告白

兼子

メモランダム

 縁あって小説を書けというお話を頂いた。そこで私は一度、ものを書くという営為と向き合いながら、私自身の個人的な経験について告白しようと思う……とは言え、これは私にとっては恥・不名誉などといった感覚と結びついた、非常に不格好な話であり、またその特殊さゆえに諸君にとっての有意義な教訓や参考にはなりえないとは思うが、私の人生のうち、もっとも感受性が豊かであったある時期について、思いつく限り残しておこうというものなので、何らかの印象や感想を抱いていただければ幸いに思う。加えて、私は記憶力に自信のある方ではなく、記憶が前後していることも多々あるであろうが、あくまでメモ書きとして残すのが目的であるため、この文章を手に取っている方にもその点はご容赦頂きたい。

 では、記述を開始する。


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 「白秋祭で賞を取った」

というのが、いつもの母の口癖であった。

今に思えば、私の文化的な趣味は父親ではなく、母親の方からやってきたように感じる。何たら新聞社、何たら協会とやらが開催する読書感想文に応募するというのが我が家の夏の風物詩であり、当時の私はそのことに疑いを持つことがなかった。

とはいえ……夏のぼんやりとした涼しい風と風鈴の音が通り抜ける中、机の前で原稿用紙の中に閉じ込める苦しさだけは今も印象に残っている。私の文章の書き方を細かく注意をする母の声、やっと書けたかと思えば朱でペン入れされる苦しみ。書いては直され……書いては破られ……書いては怒られる……という、堂々巡りの永遠にも思えるような作業が延々と――今日はこのくらいで寝なさいと云う父の声が聞こえるまで、ほとんど真夜中まで――続くのである。翌朝起きた時には母に手書きでペン入れされた、赤い文字だらけの原稿用紙が私の机の上に置いてあるが、母は一体いつに寝たのかは当時の私には(――今も、だが)全く見当もつかなった。こうした体験を通じて、句点や読点の使い方から始まり、私は技術としての読書感想文のコツをつかんだ。つまり読書感想文に必要なのは、本や小説の感想そのものというよりは、作中の内容を自分自身の体験と重ね、審査員が好きそうなーー子供らしいーー観点や発想で書くことであった。このような、母の一連の指導は小学生の頃に始まり、中学三年の夏まで続いた。


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 私が育った家は北九州の西の方。山から吹き下ろす風と海からの空気が丁度交わるあたりにあった。マンションの五階の角部屋であり、私の部屋は家の中でも東向きで最も角にあたり、二つの大きな窓があった。この部屋の中に鎮座するのが、大きな木製の二段ベッドだ。上がベッドで下が学習机というこの机は、私にとっての秘密基地であり、私を縛る拷問器具にもでもあった。もっとも苦痛だったのは、北欧で作られたふうな趣がある、私の姿勢を矯正するために買い与えた妙ちきりんな形状をした椅子であった。この椅子が曲者で、立体的な正座のような格好をさせられ、夏ともなると若干脛のあたりが汗ばむこともあった。

読書感想文に限らず、特に小学生の自由研究が往々にして親と子の合作……時には親の力作となっているのは周知の事実であるが、我が家においてもそれは同じで、母親が私の読書感想文の手直しを行う以外にも、今思えば小学校の時分の自由研究なども両親が制作を手伝うというよりは、もはや完全に両親が作っているように見えるものすらあった。覚えている限りでも、家の周辺の地図を等高線ごとに立体的にしたものを作った時も、半分くらいは私も一緒に作業したといえるが、ある日起きてみればそこには私のつくった覚えのない山が一晩でできていたし、経産省か何かが企画した太陽光発電を使った工作を作るコンテストに応募したときは、ほとんど親の協力なしでは作り得なかったレベルの作品を作り……結果、入選を果たした記憶がある。いずれにせよ、私の夏休みの課題を手伝うというのは、両親にとっては、どこかに旅行に行くというのと同じくらいに重要なイベントであった。


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子供は親の手伝いをさせられるというのはある程度世間の共通認識ではあるが、我が家においてもそれは例外ではなかった。母は私に、ベランダの植物に水やりをしてくれと頼むことが多かった。リビング、和室、親の寝室はすべて同じ大きなベランダに面しており、そして私の部屋とキッチンの横にも一つベランダがあった。これらに所狭しと並ぶ植木鉢に水をやるのは私の日課であった。

この作業は子供である私にとっては面倒ではあったものの、同時に若干の歓びもあった。夕暮れ時の鈍色の雲間から差すような夕日が、眼下に整然と、どこか寂しそうに立ち並ぶ鉄筋コンクリートの社宅群を照らすさまには、昔行ったことのあるカルスト台地のような、宗教画にも似た不思議な荘厳さを帯びていた。じょうろへ水をくむ作業は面倒ではあったが、満杯に水をたたえたじょうろの水を、無為に足元のウッドデッキを濡らすために撒く愉しみ、濡れた土のにおい、ゴムのサンダルがたてるキュッキュッという音、植物の鮮やかな緑の葉から滴る水滴の美しさ、これらで五感を満たすのは私の歓びであった。

私の親は教育熱心であったが、その割に私は私立の小学校ではなく公立の小学校に通った。

親に曰く

「男なら社会勉強をしろ」

との意味であったそうだ。

とはいえわが両親の想像以上に北九州市の効率教育の崩壊のレベルは凄まじかったらしいが、いずれにせよ、親は公立教育では期待できないレベルの教育については私に塾通いをさせることで解決をした。そうすれば自然と中学受験という発想に私のほうもなるし、親も中学受験をさせるつもりであった。教育行政の話をしたいわけでは無いので地方の公教育がいかに破綻していたかという話題はさておき、いずれにせよ私は福岡市内の中高一貫校に通う事となり、この時点で私は小学校まで育った北九州の街を離れた。正確を期せば、私の食卓、寝床と住民票の所在地は北九州市のままであったが、少なくとも私の心は中学進学を境に北九州を離れたつもりであった。

福岡といえば博多、というのが非・福岡県民のイメージであろうが、実際のところ、福岡市の中でもいわゆる博多と呼ばれる地域は狭い。かつての商人の街である博多の地域と、福岡城を中心としたエリアの中間あたりに福岡市の核とも呼べる天神があり、天神から博多にいたる道の川と川で挟まれたエリアに風俗街で名高い中洲がある。もし福岡に観光に来るのであれば、博多駅周辺はビジネスマンの街であり、見るべきものは駅ビルくらいしかないということは頭に入れて置いたほうが良い……ともあれ、重要なのは当時の私が通う当時の私の学校の話である。我が中高は福岡城の目の前にあり、福岡市が福岡のセントラルパークなぞと小っ恥ずかしいタイトルで宣伝をしていたところの大濠公園の目の前にある、比較的新しい校舎の学校である。今になって、この校舎を前にすると感慨深いものがあるが、とにかく私にとって最も重要であったのは、中学高校六年間、実家のある北九州から離れる事が重要であった。確かに実際のところ長距離通学を可能にするのは親の金と時間ではあるが、しかし精神的には自分の時間を確保することができたのは大きかったし、何より福岡市のど真ん中にある都会の学校へ通えることはうれしかった。


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 親との関係、母の愛というものを回顧するならば、私には決して忘れ得ぬ出来事が二つある。いつだったか、母の勘違いだか早とちりによって、私はいわれなきお叱りを受け、ベランダに閉め出された事があった。それほど寒い時期ではなかった覚えはあるが、薄ぼんやりとした曇り空と、肌寒い感覚の記憶はある。断片的な記憶の次の一コマは、私の無実に気き私を急いで迎える母の抱擁である。その時の母のセーターの温もりと、チクチクしてくすぐったい感触は、不思議な事に時間が経てばたつほど暖かく感ぜられるのである。(くだらない感傷と言われれば否定することは出来ない。)もうひとつの記憶は、親子関係を語る際の定番中の定番、いわゆる反抗期のハナシである。男という存在の必然として、ある時点で必ず肉体的に親を超える瞬間というものが存在する。そして私にとってのそれは中学三年生の秋あたりに唐突に来た。身長もこれまでにないペースで伸びはじめ、中学に入学する際に大きめに作った学ランの肩幅がしっくり来るようになり、いつのまにか声変わりも済み、いつしかメガネはコンタクトになった。

きっかけは下らない争いだった。テストの点だか生活態度なのか、ふとしたことで母は私をぶとうとした。その咄嗟の瞬間に、それを防ごうとした私は意図せずして母を突き飛ばす形となってしまったのである。私が突き飛ばした瞬間の母の表情、そこに母は居なかった。そこには一個の女があった。中年の肉体がそこにあった。一人の人間の人生の重みと悲哀が、私の足下に横たわっていた。そのことを知覚した瞬間、私はとてつもない罪悪感と、えもいわれぬ後味の悪さを噛み締めた。あの一瞬の間を、私は終生忘れられないのだろうという直感が私を襲った。母親を突き飛ばした時の灰色のセーターの暖かい感触が私を責めた。

 この一件以降、私と母親の関係はこれまでとは一線を画したものになった。数日の冷戦状態の後、母と私はいつも通りの関係にもどった。母は私に弁当を作り、早朝に駅まで送る。母が私にひどく腹を立てた後はいつもこうだった。母も私も負けん気が強く、そのことでいつも父は困ったような、仕方がないなとでも言わんばかりの表情を浮かべていた。しかし日常への回帰の中で、母の声音や表情の奥底に、どこか諦念とも覚悟ともつかない色が覗く瞬間がある事に私は気付いた。


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 今年の読書感想文は小川洋子の『果汁』を課題にするから出したい奴は出せ……白髪混じりの現代文の教師はいつものような、堂々としているんだか人生を達観しているのか、よく分からない声でそう伝達した。この国語教師、仮にSとしておくが、彼は我々にとって父親のような存在であり、我々の悪戯を叱りつける敵であり、それでいて我々の最大の庇護者であった。そして彼は謎とゴシップの種でもあり、なんでも我々が入学する直前に教頭から一教師へと降格させられたという話で、学閥だの外様だのといった事情によるものらしい、という噂であった。この教師と我が級友たちの、おそらくSにとっては気苦労ばかりであったであろう微笑ましい交流については、別の機会にお話しするとして、哀れ教師Sは、我々が繰り上がりで高校に上がっても悪戯とトラブルばかり起こすために、すっかり白髪だらけになってしまったのである。

小川洋子といえば、母の趣味ど真ん中であった。小川洋子、辺見傭、中島らも辺りが母のお気に入りである。ふと数実前に母親に今年は読書感想文を書かないのだろう? と問われたことを思い出した。読書感想文を書くことにしたと母親に告げよう、そう決心したが、いざ台所で料理をする母の横顔を見ると、私は言葉に詰まった。そして何より、もう私は高校生なのだ、いい加減読書感想文位書けるぞという小さな敵愾心が涌いた。いざ文章を書く段になって、母抜きで読書感想文を完成させるために、母親の文章と対面せざるを得なかった。読書感想文には子供らしさ、子供の視点が最も重要なのだ、と母は良く言っていた。そして自分の体験を文章に組み込め、と母は常々言っていた。こうした母親の読書感想文の構成は徹底的に外して書こう、そう決意した。


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 中学に入学してからというもの、私は松本清張という名前にうんざりしていた。小倉は松本清張と松本零士しかいないといっても過言ではない街である。郷里の有名人の名を冠した読書感想文のコンクールで、そして共催に大手新聞社がついているという事もあって非常に名のあるコンテストらしい、という事であった。

「東京からわざわざ応募する学生も多いらしい」

と言いながら母はこのコンテストへの応募を薦めた。しかし私の目を惹いたのは、黒々と重厚感のある光沢を放つモンブランの万年筆であった。実に俗物的な欲望と、自分は読書感想文が得意なのだ、という半ば自己暗示的な矜持が、私の指を動かした。読書感想文のテーマはもちろん……松本清張の小説だった。私なりにベストを尽くして、得た結果は最優秀賞ではなく優秀賞。とはいえこの年度に最優秀賞受賞者はいなかったという事実は私の希望であり安心材料であった。東京の聞いたことのある高校の生徒と並んで撮った写真の写ったパンフレットは、母の誇りとなった。

中学二年の夏は、私にとっては空白の時間となった。その年に私は目に大病を患い、二回ほど入院していた。今となっても不思議な話ではあるが、この年に何を書いたのか、今となってはほとんど印象がない。

読書感想文の賞を私が頻繁に受賞している、という事実によって、私の文才について周囲の友人たちや教師は一目置くようになっていた。この事実は私に喜びをもたらした反面、徐々に私の中に不安と疑念を産んだ。それはつまり母親が赤入れした原稿の存在が周囲にばれることの恐怖であり、私の「才能」への疑念であった。母親は確かに私の感想文の内容そのものについて、私の感想の域を出ることはしなかったし、比喩表現や話の軸に関してはほとんど私のものと言えたが、文章作成について母親の助けを借りているという事実は、常に私の文章への評価に影のように付きまとっていたし「文才」への評価は私の自尊心に小さな傷をつけてられている気がした。


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 視聴覚室から教室への帰路、やたらにモダンな構造の校舎のガラス窓から射す光は眩しく、私の心は重くなる一方であった。七月に入り、夏休みの予感によってどこか浮かれた気分がクラスや廊下に満ちていた。友人たちの

「今年も読書感想文を書くのか?」

という問いは、私の心を重くした。中学三年の夏の読書感想文のテーマは、松本清張の『軍師の境遇」であった。読書感想文の鉄則からいえば、前年度の私の入院という出来事は読書感想文に適した話題であり、この本を選ぶよう、母親は強く勧めた。主人公が土牢に閉じ込められる絶望と、病院で苦しむ私の体験を、うまく結びつけて書けそうだな、というのは私も感じたが、それと同時にもはや私は読書感想文という営為自体に嫌気が差していた。机の前に向かっても、私には一文字たりとも書けなかった。

松本清張記念館の応接間のソファーに浅く腰掛け、私は素直に呑み込めない喜びと恥の感覚で満たされていた。毎年顔を合わせる館長や学芸員の方々は、今年の私の作文の出来をいたく気に入り、褒めたたえ、私の前に厳かな様子で大きな箱を置いた。思えばこんな万年筆一本のために私は悪戦苦闘してきたのだ。万年筆一本のために用意された箱はやけに大きく、仰々しかった。結局、夏休み後半に今晩はもういい、寝なさいと言われ深夜に寝た日の翌日の朝、リビングのテーブルの上に赤文字で修正の入れられた、ほぼ母親が書いたといっても過言ではない原稿がぽつんと置いてあった。私が母と課題本について話した内容が、母の言葉でそこには書いてあった。さぞや入院中は大変だったのだろう、今回の文章は本当に良かった、コンクールの審査員はそういった。私は恐縮しながら応対し、嬉しいのかよくわからない顔で、コンクールの他の入選者と共に写真を撮られるしかなかった。授賞式の帰り道、母親は不思議なくらい心から私の受賞を喜び、嫌みの一つもいう事は無かった。しかしその日、私はどんな表情で母親の顔を見ればいいのかよくわからなかった。膝の上の万年筆の箱の重さだけが残った。


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 中学時代は適当な理由をつけて部活動に参加していなかった私が、高校時代に入ってきちんと部活動に所属しよう、と思い立ったのはほとんど思い付きであった。何より部活動の活動に必要、という名目でカメラを買ってもらえるのではないかという即物的な欲望があった。


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 お前の読書感想文は良かった、高校の年一回発行する雑誌に載せたい、と担任のSは職員室に私を呼び出しそう告げた。しかしその喜び以上に、今年の文章は、お前が書いたのか?だいぶ去年とは違うなと私に問うでもなく、悪意や糾問といった意図を全く感じさせない口調でSが問うたことは私を恐怖させた。私の「文才」への評価そのものが、ボロボロと崩れ落ちていく妄想に一瞬気を取られかけた。私は意図的に母の文章の書き方からは徹底的に外れて書いたので、これまで私の文を読んできたSが混乱するのは当然といえば当然である。私は平静を保つ努力をしながら、読書の趣味の変化かもしれないなどと濁し、足早に職員室から立ち去るしかなかった。

自宅から最寄りの駅まで、買い物ついでに送ってもらう車中で、今日は先生へ会いに高校へ行くのか、と問う母の声はいたく上機嫌であった。私の大学受験が終わり、何とか引っかかった第二志望校へ行くことが決まると、子育ての一フェーズの総仕上げとばかりに、両親は躍起になって私の上京の準備を進めている。かくいう私は、何をするでもなく、たまに友人と会い、ゲームをし、卒業生であり新入生でもあり、不合格者でもあり合格者でもあるという、果たして本当に祝っていいものか判らない、なんともすっきりしない立場を、釈然としないながらものほほんと暮していた。短い間の浮ついた生活が続く中、卒業式以来あっていない教師に最後のあいさつにでも行く事を思いついたのは僥倖であった。もちろんその中には、いい意味でも悪い意味でもお世話になりっぱなしであったSも含まれる。結局「果汁」以来、私が二度と読書感想文を書くことをなかったし、私の文章について彼と話すこともなかった。それ以降あの時明らかに読書感想文の内容の異変について何か感づいていたのか、聞いてみようかと思う。

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