第2話 霊子さんとボク

 次の日、霊子さんはまた顔を出してくれた。


「やあ、こんにちは」


 霊子さんは僕と目が合うと、ビクッと体を揺らす。それがどうにも面白くて仕方がない。


「今日もここにいるの?」


 僕が霊子さんにそう聞くと、彼女はぎこちなくうなずいた。

  その様子はどこか怯えているようにも見えて、なんとなしに申し訳なさが募る。

  僕って、そんなに怖い顔をしているのだろうか。


「そっか。そこが気に入ったならさ、いつでも来るといいよ。もちろん、来なくてもいい。君は自由だからね、好きに生きたらいいよ」


 幽霊に『生きる』なんておかしいか。

けれど、老後が第二の人生と言われるのであれば、死後は第三の人生とも言えなくはないはずだ。


 まあ、どうでもいいか。


 霊子さんを見ると、鉛筆でぐるぐると塗りつぶしたような目を大きく広げて、ただ固まっていた。

完璧な静止に、霊子さんの周りだけ時が止まったのかと錯覚する。

 もしかして、驚いているのだろうか。

そもそも幽霊って、驚くのか。

 世界は、まだまだ知らないことに溢れている。

それがどうにも嬉しくて、常に気だるい体を少しだけ軽くしてくれた。


 一方、霊子さんはその目でぱちくりと瞬きすると、ニィッとその口を歪ませた。

口の端はいまにも耳元まで届きそうだ。覗くように見える歯は、どこか黒く汚れている。

こころなしか、底なしの奈落のように窪んだその目の先に、妖しい光が宿っていた。


「ヒッ……。ヒヒヒッ! ウヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!!」


 引き笑いをする女性のような声が響く。

けれどそれは確かに掠れていて、ザラザラな声は、部屋の空気をただ揺らした。

 部屋の温度がぐんと下がって、全身をナニカが撫でて通る。

そのあとをついて回るように、鳥肌が立った。


 八月も中盤に差し掛かり、日本はまだまだ暑い。

エアコンは二十八度に設定しているから、鳥肌が立つほど寒いなんてことは異常なのだ。

 急激な温度差に苛まれて、めまいが身体を揺すぶり続ける。


「霊子、さん……?」


 霊子さんは、小枝のように細い両手を頬に当てながら、左右に揺れて嗤い続けている。

 僕の呼びかけに気づきそうな予感は、これっぽっちもしない。

 自分の発言に後悔した。

 ああ、ああ。なんてことだ。このままだと、僕は……。


「霊子さん……。霊子さん!!」


 何度も、何度も呼び掛けた。

気づいてくれたのは、何度叫んだ後だろうか。

 彼女は僕の声に気が付くと、ニタニタと笑顔を張り付けて見つめてきた。


「霊子さん、あのね。僕は……」


 くしゅん!

 大きなくしゃみは、叫んだあとの喉を傷めつけた。

ビリビリと痺れるような痛みが喉の奥を刺激する。

 それでも、伝えないといけないのだ。

いつもの霊子さんに戻ってもらえないと、死ぬのは僕だ。


「あー……。僕はね、冷え性なんだよ。だから、部屋の温度を下げられると風邪ひいちゃう」


 僕の言葉を聞くにつれて、上がりきった口角は徐々に真顔に近づいた。

それはみるみる下がっていき、どこか悲しそうに歪んで止まる。

 今日のことを覚えているかぎり、:( の顔文字を見るたびに霊子さんの顔を思い出しそうだ。


一人でクスクスと笑って、未だしょげている霊子さんをフォローしようと口を開いた。


「ごめんね、霊子さん。僕の身体、貧弱だからさ。一度体調崩すと、すっごい長引いちゃうんだよ」


 彼女を咎めようとは、一ミリも思わない。

受け入れられて嬉しかっただけだろうから。

 たぶん、幽霊は拒絶されないにしても、受け入れられることはない。

 だからこそ、孤独からの解放は、気が狂うほどに嬉しかったのだろう。


 この日、幽霊に成りたての頃、人間時代とのギャップに苦しむ霊子さんを想像しながら、勝手に共感して、勝手に哀れんだ。

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