第七章 キルケーの魔女

第110話 スキーズブラズニルの旅

 白く輝く船体が帆を畳んで停泊すると、それは浮き世を離れて今にも空へと飛んでいきそうな佇まいだった。真っ白な船体に純白の帆を搭載した船、人はこれを魔法の船と噂する。人間がオールで漕がなくても、風が吹いてきて船を運んでくれるというのだからこの時代には不思議がられた。

 スキーズブラズニルと呼ばれる最新式の帆船だった。


 スキーズブラズニルがマイアの港街に最初に現れたのは、初夏の頃。

 太陽は例年になくまだ遠い。流れてくる暗雲が空を覆うのを見るばかり。例年にないと言えばクレタ島での大集会の話もそうだ。マイアの港街からもクレタ島へ出かけた男たちがいた。だがその男たちは未だに戻らない。男たちが死んだかどうかと風の噂に乗る頃には、マイアの港街には陰鬱な表情ばかりが残っていた。


 しかしこの日ばかりは少しばかり騒がしかった。


 スキーズブラズニルと共に、

 男たち戦士たちが帰ってきた。


「みんな嬉しそうだな」

 スキーズブラズニルの乗員であるところの、剣の国から来た青年は下船していく男たちの後姿を見送っていた。この青年をナタと言う。

 ナタの隣にいるのは赤い髪の女子。彼女は少しばかり大きな手を組んで仁王立ちだ。名前をシェズと言った。

「あいつら故郷に帰って来られたって、そればっかり。うんざりしていたところだけど、それはそれで、いなくなると寂しくなるもんだな」

「故郷か」

 ナタはシェズの言いぐさに少し首を傾けた。ナタには帰るべき故郷がない。ベリアルという悪魔が街を焼く光景だけがいまだにナタの脳裏にあった。

「ま、あたしたちには関係ない話?」

 それはシェズも同じだっただろう。

「とりあえず、あのクレタ島を脱出して、やっとまともな街に来たんだ。俺たちも羽を伸ばすか?」

「当然だ。クレタ島は最悪だったからな。怪物は暴れるし、そこら中死体だらけでさ。まだあたしの鼻に匂いがこびりついてんぜ。この匂いだけはどうにかしたい」

「じゃあ風呂にでも入るか?」

 ナタは男たちが移動したことで逆に静かになったスキーズブラズニルの上で背伸びした。


 ナタの故郷はもうない。悪魔となったアリーズベリアルによって滅ぼされたからだ。

 シェズの故郷もない。そもそもはヒルデリアがシェズの故郷だろうが、彼女の両親はオーガとしてヒルデリアの親衛隊に殺されてしまった。そしてシェズ自身も親衛隊レッドプラエトリウムに殺されかけた過去がある。これでは二度とヒルデリアが故郷だなんて思えないだろう。

「でも、いいんじゃね。あたしは真っ先にメシだな」

 と、シェズはにやりとした。「あいつらをこの港街まで運んできたってことで、お礼はしてくれるらしい。あたしたちは命の恩人ってことで」とは今夜のご馳走を期待してのことだ。


 こうなるとナタも俄然やる気が出た。


「メシのこともいいが、その前に船にのせる食料もわけてもらわなきゃな。船を手に入れら入れたで、なんかいろいろ足りないものもわかってきたし」

「魚釣る道具とかも忘れんなよ。魚が泳いでいるのを見て居るだけってのはもう飽きたからな」

「釣りに興味あるのか。カナンで釣り教えた時に、自分には合ってないからもうやらないとか言ってなかったか?」

「釣るのはあたしじゃなくて、お前だ」

「お前は食うだけかよ」

 ナタは遠目に商店街に人が集まるのを見た。釣りをするにも釣った魚を食べるにも、まずは道具を揃えなければならない。


 商店街は近かった。とは言っても、太陽がでればその都度屋根を張って商品を並べるような露店ばかりの一角。

 クレタ島からの帰還した戦士たちを家族が出迎える姿がなければ、そこは犬が歩くのを見るだけの場所だったかもしれない。

 品揃えなど期待できるだろうか。

 ナタが思っていると、人の輪を作る集団とは別にして、静かにスキーズブラズニルから下船する男たちの姿も見えた。


 今、ナタたちに挨拶をしようとやってきた男がまさにそれだ。


 クレタ島で大怪我を負ったイノシシ顔の戦士、パーンだ。

「俺たちも船を下りる。ここからなら陸路でアルゴスを目指したほうが近い。いろいろあったが、まずはアルゴスへ帰ろうと思う」

 パーンはアンドロメダ騎士団を整列させた。すでに旅の準備はできていると彼は言う。

「俺たちはダナエー王女に成り行きを報告して、ヘレネブリュンさんを助ける道を探したい。相手が貴族なら、こっちも貴族たちに働きかけていくつもりだ。ヘレネブリュンさんを攫ったヒルズパリスは許せないが、相手がイーリアという国になると俺たちのような弱小騎士団ではどうにもならない。それにクレタ島で命を落とした団員たちの家族に説明をしなければならんし、お前たちにこれ以上迷惑はかけられない」

 パーンは次のようにも言った。

「お前らはこのままドギって人を探しに行くのか? 一応俺のほうも助けてもらった恩があるから、こっちでも探してみよう。いつかアルゴスに会いに来てくれ」それは願うような口調。


「ドギが見つかればいいが、結構難しそうだ。だけど一段落ついたら、アースガルドに向かう前にアルゴスって国に寄ってみるよ」

 ナタは前向きな返事をしたが、実際にアルゴスに行くかどうかはわからなかった。これからナタ自身どんな旅をするのかわからない。アンドロメダ騎士団の少年戦士たちの態度にも問題がある。

 それがナタが一歩下がった理由になった。

「ヘレネブリュンさんは俺たちで助ける。手助けなんていらねーよ」

 これはオレシオという少年の呟きだ。つまりは、ナタたちには来るなと言いたげな冷たい素振り。

 そもそもヘレネブリュンという少女は求婚をする者が後を絶たない美貌の女子だった。彼女を慕う者からすれば、彼女に関わろうとする全ての男が敵だというのだろう。

 これでは、ナタには取り付く島がない。


「じゃあ、またな」

 見送るナタはそれだけを告げた。

 スキーズブラズニルがマイアの港街に辿り着けば、出会いと別れがある。当然のことだった。


「アンドロメダの奴らもあれはあれで良い奴らだったし寂しくなるな」と隣の赤毛の女子に問われれば、

「それよりも、剣だ」

 ナタは答える。寂しさを感じるのは後回しで、ナタにはやるべきことがあった。アンドロメダ騎士団が目的のために旅立ったのを見れば、ナタにも思うところがある。「ドギを探して、天剣を修理してもらわなきゃな」これを急ぐ必要があった。ドギを探すのは、剣のため。

 

「あれは、あたし専用の武器だからな。なんかわくわくするぜ」

 よく見れば寝癖がついたままの赤毛の女子が腹が減ったとしゃがみ込む。

「お前専用ってわけじゃないけど……」

「他に使える奴がいないんだから、あたし専用だろ。あたしには実績と経験もあるし」

 それはとても重い剣だ。シェズほどの怪力がなければ振り回すどころか、持ち上げることすらできないだろう。


「天剣を使う気か? あれは人間が触るものじゃないぞ」

「いや、ナタ、お前に使えるんだから、あたしにだってできるだろ」

「俺のは、ほら、相手に悪魔がいる時にしか使ってないから正気を保っていられるだけでさ、たぶん」

「あたしはこう見えても竜翼章持ってる騎士だけど?」

「待て、その前にそれが騎士の姿か?」

 ナタは、しゃがみ込んでいるシェズをからかった。一瞬、ナタはまずいと思って構える。これは喧嘩になる一歩手前。

 だがこの時はシェズの手は出てこなかった。

「腹がへって力がでないんだって」

 力なくシェズはそれを思い出すと、「めし」を催促してくるのだった。


 冒険も腹が減っては始まらない。次は腹ごしらえの後としようか。

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