第106話 ルナアルテミスの戦域
ナタがモノリスの塔に向かったのと時を同じくして、
クレタ島に上陸したアンバーリッター連隊はこの時、街の中心を目指していた。ルナアルテミスがモノリスの塔を見つけたのは、偶然とは言いがたい。元々切りだした岩であるモノリスの塔だけはどれだけ火が回っても未だにその姿を保っていたからだ。
そしてその塔に向かって突き進む巨大な怪物がいれば、誰だって注目しただろう。
牛の頭をした巨大な怪物は見る者全てを畏怖させる魔物も同じ。
ここで、ナタとルナアルテミスは初めてお互いの存在を知ることになった。
ルナアルテミスがモノリスの塔に気がついたのは踊る火の中で暴れるガーゴイルに囲まれた時のことだ。怪物たちは火事をもろともせず四方からアンバーリッター連隊に襲い掛かっていた。
「連隊長は先に行っていいッスよ。ここはうちらに任せるッス」
槍を両手に持った白い制服の女子は、アンバーリッター連隊の精鋭だ。彼女たちがルナアルテミスに代わってその場所に残ると言った。
「弓矢が通らないけど戦いようはあるッス。連隊長は白兵戦のほうが強いッス」
それが白き死に神と呼ばれる部下の言葉だった。
アンバーリッター連隊は海戦を得意としており、構成員は鎧や筋肉をまとわない戦闘員たちだ。ルナアルテミスの平和維持活動に賛同した各国の女性戦士や姫たちの姿も多い。彼らが武器とするのは上部が長い大弓であり、これは通常の弓と違って射撃精度と火力に特化した次世代の武装だった。この弓が通らないとなれば、それはアンバーリッター連隊の存亡に関わってくることになる。
つまり囲まれているのは、アンバーリッター連隊の射撃部隊。
「戦いようか」
ルナアルテミスには少し不満があった。得意な弓矢で敵を片づけようとしたところで、この有様だ。
連隊戦闘員の初撃は、弓矢から始まる。本来、敵と距離を置いて遭遇した時点で勝敗はほぼ決まるはずだった。
だがこの時の相手は石の身体を持つ人形だ。怪物の姿を模した門番と言ったところか。これが家屋の屋根に石の腕をのせて、上半身を持ち上げれば、鎧兜で武装した蜥蜴のようなシルエットになった。
怪物たちが生きた人間を追い回す仕草は、野犬がウサギを追うに似ていた。ウサギのような人間にとってはガーゴイルというのは、この上ない恐怖だろう。
これを、ルナアルテミスの弓矢が捕捉した。
ルナアルテミスが引き絞った弦を放てば、弓がしなり、矢が風となる。弦はルナアルテミスの左腕に装着されたトモを叩いて甲高い音をあげた。「パーン」と響く大弓の特徴的な音。相手が人間なら大盾の背後に隠れていようと盾ごと貫く威力があった。
だが矢で射られたガーゴイルにはまた違った反応がでる。
怪物の脆い部分はすでに崩れていて、背中の羽ももげて肩が変形していた。ルナアルテミスの矢はその胸を貫いたが、これで怪物が大人しくなる気配がない。
「心臓がないのか?」
それが弓矢が効かない理由だろうかと、ルナアルテミスは考えた。
「心臓が別の場所にあるのかもしれないッスね。目を潰してもあいつら痛がる素振りさえないッス。頭を貫いても止まらないし。でも首を落とすと身体が動かなくなるのは人間と一緒らしいッスよ」
「奇妙な生き物だな」
「生きてるんスか? なんかやなセイズの流れを感じるッス」
部下の言うこんな状況は少し気に入らない。できれば怪物の弱点、心臓の位置を正確に把握したかったが、火の回りが予想より早いのでは射撃部隊をこのまま同じ場所に留めておくことも難しい。
ルナアルテミスは前に出た。
「だったら、弓矢を撃っていても拉致があかない。あれを出してきてくれないか?」
「あれならそこにあるッス。連隊長専用近接武器。当然持って来てるッス」
部下が振り返れば、そこに連隊参謀のオリオンも来ていた。
「こんな状況だ。俺たちのことは気にするな。部隊の訓練もかねてなんて言わないでくれよ? 部隊にも適材適所ってものがある。こいつは想定外だ」
参謀の意見は、ルナアルテミスに「とっとと暴れてきてくれ」というものだった。
「オリオン、弓を預かっていろ」
ルナアルテミスは愛用していた弓矢をオリオンに放り投げた。弓矢が有効でない場合、次に行うのが突撃だ。剣や槍での白兵戦になる。
「この怪物、どうも人工的なもののように見える。見た目に欺されるなよ。どこに武器が仕込んであるかわからない」
オリオンは一応確認した。弓を受け取れば、もう見送るしかないのだが——。
「全て破壊する。それで問題ない」
ルナアルテミスの剣は片刃、もう片方が取っ手になった大振りの剣。両手で持ったところで、オリオンには肩が落ちそうなくらい重い代物だった。これをルナアルテミスが持つと、なぜか重さがなくなったように見えてしまう。
重さが無くなるとは、少なくともオリオンが受ける印象はいつもそうだ。
彼女が走り出せば、まるで彼女自身が矢になったかのように一直線になる。そして腰で支えられた剣は妖精の羽となってきらめいた。とても重い剣を持って走っているようには見えない。
「一番隊と二番隊は連隊長に続け。それ以外の者は安全圏まで後退する」
オリオンは命令した。「キュベレー、お前も連隊長と戦ってこい」というのは白き死に神と呼ばれた戦士への指令だ。
「うちも?」
「見た限りでは、お前も十分怪物を仕留める能力を持っている。そして連隊長についていけるのはお前くらいなものだ」
「でもここを守るという役目があるッス」
「攻撃は最大の防御だよ。今回はそういう作戦だ」
参謀がこのように言えば、それはアンバーリッター連隊の行動指針になった。
戦闘部隊全員で走る。
連隊の速攻だった。
アンバーリッター連隊がその名を轟かせる最強の戦術が弓矢と白兵戦による突き通しにある。攻撃力は突進力になる。
重さを奪われた世界では、怪物の石の皮膚など紙切れのようなものだ。
オリオンは、他の指揮を部下に任せて、自身もルナアルテミスを追いかけた。連隊員の最後尾は愚痴のたまり場のような状態になるが、それはそれでオリオンには居心地がいい。思ったことを口に出したほうがアイデアが整理できる。
「連隊長の速さにはついていけないか。あの剣だって重いはずなんだがな。剣は質量を持つ。重さが無くなるとは、より暴虐な力によって質量が奪われていることを意味するわけだ。この力の前では石で出来た怪物も形無しだな」
その暴虐の前では石もあっという間に砕ける。
ルナアルテミスの前で、石の怪物は剣に突かれ、引きずられ、あるいは押し込められて、地面ごと掘り起こされた。彼女が通り過ぎると怪物は原型さえ留めない。
背後で喋り声が聞こえて、
「何か言ったか?」
ルナアルテミスは足を止めた。速攻についてこられなかった連隊員同士がおしゃべりするのが気になるのか。
これは余計なことを言ったかとオリオンは思ったが、ルナアルテミスが振り返ったのはこの場合、意見を求めるためだったらしい。
「ここから塔が見える。オリオン、あれをどう見る?」
ルナアルテミスが怪物だった何かを足の下にして、そこを最前線の拠点とした。モノリスの塔を視界におさめたのもこの時だ。
「怪しい塔だな。怪物がうようよ集まっている。餌付けでもしているのか」
「怪物どもの拠点か」
彼女の剣にはもうひとつの使い方がある。
ルナアルテミスが剣を突き立てると、それは白刃の盾となった。動かない盾は弓矢を射るときに使うもの。戦場で弓矢を構えて狙いを絞る時は盾の背後に隠れて一連の動作を行うのが良い。その瞬間、ルナアルテミスが最も無防備で脆くなるからだ。
「弓を貸せ」
彼女が盾の影から手を伸ばす。
新たな敵を発見してからの、遠距離戦の構えだった。
ナタはモノリスの塔にあがったところで、眼下に雄牛の頭を載せた怪物を見た。
「ここからなら話せるか?」
ミノタウロスはモノリスの塔の真下だ。見下ろすところで、怪物の黒い背中は闇に蹲るように体を丸めていた。ミノタウロスは追いかけていた獲物がどこに行ったか探している。ナタが塔の上に立てば、ミノタウロスの荒げる呼吸がそのままナタの身震いになった。
ヘルメスやアリアドネが怪物と対話しようとするが、相応の覚悟が必要だっただろう。
ナタと同じ場所に立つのをヘルメスは躊躇していた。
「これが最後の機会だぞ」
ナタが言って、
やっとヘルメスも頷く。
ヘルメスにとって、これは冒険だった。ナタやシェズは怪物を排除するつもりだった。これを引き留めたのはヘルメス自身だ。アリアドネのことを思っての提案だが、彼女の目的やそれからのことなどヘルメスは考えてはいなかった。震えて言葉を紡げない彼女をただ放っておくことができなかった。
ゆえにこの先の成り行きは、
「僕が」
ヘルメスが決めるしかなかった。
どのような結果になろうとも、それを受け止めなければならない。
だから、「一緒に行こうよ」とヘルメスはアリアドネの手を引いていた。
塔の端っこは風に煽られると身体ごと宙にもっていかれそうな強風だ。焦げと血の匂いが鼻を曲げるような場所、足元から獰猛な怪物が吐く気だるくなるような空気があがってくる。そこに立つだけでも、ヘルメスの足は震えてくる。
でもそれはアリアドネも同じかもしれない。
「アリアドネ」
ヘルメスは呼びかけた。「今だったら、彼に話しかけられるよ」と。
ただ、アリアドネはずっとミノタウロスを凝視したまま。
ヘルメスは、彼女の名前が偽名であることを思いだしていた。彼女はアーティファクトで改造された身体で過酷な旅をしてきたに違いない。だからこそ、隠れて生きるために多くの偽名を使ってきただろう。それが彼女の名前を呼ぶヘルメスの声が彼女に届かない理由だろうか。
どうすればいいかと思って一瞬振り返ると、ミツハが睨んでいた。「いつまでそんな奴に構っているの?」と言うのは、この状況のことだろう。ヘルメスとアリアドネにとって都合の良い時間とは、他の人間にとってはそうではない。怪物の恐怖が終わらないまま、その時間が止まっているのも同じだ。ヘルメスがナタやシェズを立ち止まらせれば立ち止まらせるほど、他の怪物たちが逃げ遅れた人間たちを襲うのを許す結果になる。
「わかってるよ」
ヘルメスは背中でミツハに返事をして、もう一度アリアドネと名乗ったその名前のない女性と向き合った。
「誰にも答えなんてわからない。どうなるかなんてわからない。でも、大切な人を思う気持ちは同じだって思うんだ」
だからアリアドネがどこの誰でもいい。「君は君のさ、大切な人とどんな形であれ、向き合わなければいけないんだ」そんな気持ちがヘルメスを動かしていた。
ヘルメスの気持ちは届いただろうか。
アリアドネは自然と身体を前へと押していた。
風は強かった。ばたつく衣服が耳にうるさいほどだ。だから彼女が手を伸ばして、大切な人の名前を呼んだとき——、
ヘルメスには何も聞こえなかった。
声などなかったのかもしれない。
瞬間、
「届いて」
ヘルメスはそれだけを願った。
これがどんな物語として終わりを迎えるのかなんて想像できなかった。怪物が人の心を取り戻したとしても、それを周囲の街の人間たちは許すだろうか。人の心を取り戻せたとどうやって証明すればいいだろう。また怪物に戻るようなことになれば、その時は今怪物を処分するよりも心が痛むことになるだろう。
アリアドネの思いはどうやって届いて、届いたとしてそれが一体何になるだろうか。
わからない。
それでもヘルメスは願った。
アリアドネが傷つきながら必死に旅をしてきたのはすべてこの時のためだ。この先の未来のためだと思う。だから、
「届け」と。
その戦闘の直前にポラリスアポロンは囁いた。
「怪物を引き寄せる者は、怪物を操る者だよ。そいつが世界の敵さ。みんな殺してしまうのがいい」
「なぜお前がそれを知っている? アポロン」
ルナアルテミスがそれを聞いたのは船の上から島を眺めていた時のことだったか。
「僕は世界を見て回っているからね。あいつらの正体にも心当たりがあるのさ。人間を襲うような怪物が今の今まで何百年も大人しく眠って居たと思うのかい? そう、この瞬間に合わせて誰かが操っているというのが真相さ。ま、僕は直接怪物を見たわけじゃないから間違っているかもしれないけれどね」
アポロンは笑い顔の仮面を外すことなく、「世界を混沌から守るんでしょう? 僕も協力できるところは協力するさ」と船の縁に肩肘をついていた。その顔はにやけているようで、ルナアルテミスは苦手だった。
今、
ルナアルテミスはモノリスの塔を遙か彼方に見て、そこに人影を見た。誰かが居る。そしてその真下に巨大な牛頭の怪物が伏せていた。人影は怪物を呼んでいるのか。怪物はゆっくり頭を持ち上げて、呼び声に平伏するような素振り。
怪物を相手にするよりも術者を殺さなければならない。
それがアポロンの言葉だったか。
弓なら決して届かない距離だ。だがルナアルテミスは、弓を引き絞った。持ち手上部が身長ほどの長さになるいびつな形は、弓矢の威力を高める構造になる。これがたわんで力を彼女の指に収束させれば、それは空気をしびれさせた。
「あれをやる気か?」
オリオンは彼女の傍に居て、その成り行きを見た。
この時代において、弓の名手は、スクイーなどの騎馬民族であることが多い。彼らは狩猟などで日常的に弓矢を使うからだ。だがここに、ケンタウロスを始めとする全ての弓矢の名手を差し置いて、遠矢の達人と詠われた者がいる。
ルナアルテミス。
遠矢が得意な者ならそれは本来一流の名手だが、彼女はそうは呼ばれない。遠矢の神にして狩猟の神とも言う。これは持っている弓の構造が違うことに由来する。
大弓は上部が長く、通常の弓よりも一回り大きくなる。威力は騎馬民族の使う弓の数倍あり、射程も長くなる。
なにより射撃スタイルが違う。弓を持つ左腕を伸ばして、添わせるように矢を目の高さに合わせる。目で見えている狙いと弓矢が一直線になって、これによりとてつもない射撃精度を実現していた。
火の舞う闇夜にルナアルテミスは目を懲らした。
モノリスの塔までの距離を測る。
風はどこからどこへ吹いているだろうか。
オリオンは知っている。
ルナアルテミスは遠矢の達人だ。
いや達人ではない。達人は風を読み、重力の影響や地球の自転を考慮して、間違いない一点を見いだす。それでも運の要素を考慮しなければならない。
風が味方をするか敵となるかで、結果は大きく変わる。
彼女の射撃は違っていた。
その右手が震える弦を押さえ込めば、
全てが止まる。
風はルナアルテミスに道を譲り、
重力は地球に逆らう。世界は神域に入った。
彼女の指が弦を弾けば、まるでハーブを奏でるように弓は歌う。
矢を射た者はこの瞬間、全てを従えた。
月の申し子と言い、
遠矢をもって、狩猟を司るという。破壊者の異名を持ち、戦うことで名を轟かせる神の名がそこにある。
これを、ルナアルテミスと言う。
後には弦が左腕のトモを打つ音がただただ響き渡っていた。
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