第107話 矢は放たれた
矢は放たれ、トモを打つ音が響いた。
トモを打つ音とは、アマ式の弓を放つ時に出る打撃音だ。アマ式の弓は大弓とも言って、上下で長さの違う弓になる。威力も大きくなり射程が伸び精度もでるが、普通の弓のように扱えば手から離れた弓の弦が腕に直撃する構造になっていた。最悪は腕を切断することになる。だからこそトモと呼ばれる防具を弓を持つ左腕に装着する。これで弦は腕ではなくトモを叩いて、これが甲高く響く。
ナタがこの音を聞き間違えるはずはなかった。
この時代のアマ式の弓は一部のサムライたちが使う以外には誰にも扱えないものだからだ。この音が意味するところは何か。
ヘルメスには音など聞こえていなかっただろう。
ただただ目の前で起きた、惨劇に目を丸くするだけ。
唸るような矢が一直線に飛んできて、それがアリアドネを射貫いた。小さな体を跳ねさせるようにして、矢は次の瞬間には彼女の身体を上空へと持っていく。彼女の姿は人間の生気を失って、あたかも人形だったかのように落下していた。
それなのにミノタウロスは鼻息を荒くして顔を持ち上げて咆哮する。人間の匂いをかぎ取って怒り狂う目をヘルメスに向けていた。怪物はアリアドネには目もくれないし、興味も示さなかった。
そんな景色に、ヘルメスは絶望した。
アリアドネの呼びかけに一切反応しなかった怪物に怒りがこみ上げた。怪物である彼を助けようと長い旅をしてきたたったひとりの彼女、怪物にとっても大切な人だっただろう彼女が目の前で死んだというのに、哀しい顔ひとつできない怪物。
「なんなの?」
ヘルメスに、こんな結末が許せるだろうか。
むしろ彼女を射貫いた矢だ。それさえなければ、二回目、三回目のチャンスはあっただろう。いつか彼女が望んだように怪物は大切な人たちのことを思いだしたかもしれない。それなのに、
「どうして、こんなことを?」
やったのは怪物ではないことをヘルメスも理解していた。それだけの威力の弓矢を扱える者は限られている。
「ねえ」
ヘルメスは誰にも届かないそんな叫びをあげた。もはやアリアドネがヘルメスに返事をすることはない。弓矢を射た誰かに声が届くわけでもない。怪物に気持ちが伝わるわけでもない。
それでも、ヘルメスは叫ばずにはいられなかった。
ミノタウロスが間近で吠えれば、その振動で心が揺れた。いわばヘルメスの叫びも怪物の声のようなものだ。アリアドネを殺した人間を殺せと叫ぶ声と怪物が人間を殺そうと吼えるはどこが違っていただろう。声が出れば、それで心が動いていく。何か違うものへと変わっていく気がした。
それでもいいとヘルメスは奮い立った。
「うおぉぉぉぉ」
手に力を込めて振り返った。「誰がっ」アリアドネにこんな酷い仕打ちをしたのか。
あるいはミノタウロスが人間の心を取り戻していたら、同じことをしたのかもしれない。犯人を殺したい。ヘルメスにあるのは、ただそれだけだった。
怪物の気に中てられた。あるいはミノタウロスの中のアーティファクトに人間を怪物にさせる魔術が仕込まれていたのかもしれない。だからこそ、同じ場所に立つヘルメスの顔はそれとなくミノタウロスに似ていたか。
「振り返るな」
と、瞬間にヘルメスはナタに蹴られていた。
「どうして? 誰かが弓矢で彼女を殺したんだ」
怒りは静まらない。
「今は余計なこと考えるな」
ナタは言った。
「余計なことだって? アリアドネは大切な人のために、あんな身体で、一人でずっと悩んでこんな世の中で彷徨ってきたんだ。目も見えなくなって心臓だって作り物にされて、喋ることも難しくなって、それでも今日まで諦めずに歩いて来たんだよ」
「あいつが抱いていた希望ってのは、まだ終わってないだろ」
「あともうちょっとだったんだ。もうちょっとで何かわかったんだ。何か手がかりがわかったかもしれないんだ。大切な人を取り戻せるかもしれなかった」
「彼女を助けるために、お前がここまで彼女を支えてきた。ヘルメス、俺はずっとお前のことは見ていた」
「ああそうだよ。それなのに彼女はもういないんだ、この世界のどこにも、もういないんだよ」
「彼女がやりたいこと。お前が手伝ってたことってさ、まだ終わってないだろ」
ナタは剣を握り直していた。
「彼女はもういないんだ。ぼ、僕はアリアドネじゃないから……」
ヘルメスは、「アリアドネはもういない」と言いたかったが、それを喉の奥に押し込んだ。ナタはさっきからヘルメスのことなんか見ていない。そう思ったが、ナタの構えは「次の矢はもう通さない」という構えだ。それはヘルメスがやるべきことをやるまで守る盾と同じ。
つまり、
「僕に何をやれっていうのさ?」
ヘルメスは現実に引き戻された。
「ミノタウロスがいる」
そう言われればヘルメスにもわかることがある。ナタやシェズがミノタウロスと戦おうとしたが、それを阻止したのはヘルメス自身だ。「僕たちに時間をください」と言った手前。だからこそナタやシェズはヘルメスが何かしらの答えを出すのを待っていただろう。
気がつくと、ミツハもナタと同様にヘルメスの盾になる場所に立ってくれていた。
「あんたがどう思っているか知らないけど。あの子の代わりにあの子の意志を引き継いで何かできるとしたら、あんたしかいないじゃない。諦めるなら、さっさと諦めて」
言葉は辛辣だがミツハの言うことはヘルメスにもわかる。
現実は過酷だった。
彼女がいなくなった世界で、残されたのはヘルメス。そしてもう一人は涎を垂らして口を開く怪物。それは人間を探して鼻面をあげ、角のある頭へと続く筋肉を隆起させていく。そして怪物は足元に転がる彼女の死体を踏みつぶすようにモノリスの塔の前で足踏みし、巨大な斧と手足から下げた鎖を引きずるだけ。
「アリアドネは彼と一緒に居たかっただけなんだ。たぶん」
ヘルメスには相手が人間だった男とは思えなかった。「でももう彼女はいなくて」だからどうやっても彼を理解することはできないのだろう。
「僕がやるよ。僕がさ、せめて彼をアリアドネと同じ場所に眠らせてあげたい。誰でも考えつくことかもしれないけれど、僕には他には何もできないし」
ミツハやナタが見ている手前、ヘルメスは決意したと顔をあげた。護身用の短い剣を握って、それを怪物に向ける。
ナタはばたつくボロを押さえながら、静かにヘルメスを見ていた。
実際のヘルメスの視線はミツハの足元や怪物の頭を彷徨いながら、まだ定まらない。それは傍目からは彼が、「僕には無理だよ。もういいんだ。僕には関係ない」と言いたげな態度に見えただろう。だがそれと同時に震えながらも一歩も引かない姿がある。なによりここまでアリアドネの手をつないでいたのはヘルメスだし、ナタやシェズを制してモノリスの塔へと来たのも彼の意志だ。
「無理だ」
そんな言葉でヘルメスが納得できるとは思わない。だからせめてヘルメスが自分で納得するところまでは、ナタも傍で見守るつもりだった。
怪物相手にヘルメスが戦えるとは思ってはいなかった。ただ「気持ちを表せ」と伝えたい。
「最初の一撃だけでいい。あとは俺たちでやる」
口にはしなかったが、ナタはミノタウロスに肩を向けた。言葉はなくてもミツハも同様に構えてくれている。次の瞬間には終わるだろうと思った矢先。
結局のところ、ヘルメスはへたり込んだ。
「僕にはやっぱりできない」
それは投げやりな言葉ではなく悔しさの滲む声だった。「彼を殺せない。アリアドネが好きだった彼なんだ。ああ見えても彼なんだ」アリアドネが大事にしていた人だから殺せないとヘルメスは嘆いた。力の入らない手から短剣がこぼれては、もはや戦闘の意志はないのだろう。
大粒の涙を転がすように流して、ヘルメスは「お願い、ナタ」とどうしようもない状況に頭を抱えていた。
「僕には何もできないんだ。アリアドネを助けることも、彼を助けることもできない。殺すこともできない。こんなの嫌だよ」
ヘルメスはそれが悔しいと叫んだ。そこからは「うばぁぁあ」と汚い声と鼻水で言葉が詰まってもはや何を言っているのかわからないが、
それはいつものヘルメス。優しい青年のことだ。
ナタが知っているヘルメス。
「いいんだ、それで」
ナタは白い杖のような剣を握りしめて塔の縁に立った。「あとは俺に任せろ」それが親友を慰める言葉になるだろうか。
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