第六章 アリアドネの赤い糸

第95話 白い船と契約

 ラビュリントスは深い。


 殺戮と欲望の化身とされるミーノース王の牛がそこにいるにも拘わらず、この迷宮に挑む者は何を求めるだろう。


 求めるものはそこにはなく、

 求めるものを得る方法は他にある。それが迷宮というものだ。

 この迷宮に挑む者は、ただ迷うだけ。


 ナタは思う。

 実際のところ、クノッソス宮殿の地下にあるとされる迷宮に挑んだが、問題は何も解決していない、

 杖は見つかったが、杖を持ち主に返したところで事態そのものが変わらなくなっている。ヒルズパリスやアフロディーテは貴族同盟の盟主ブランアーモスに囁くだろう。杖に関係なく、殺すべき者を殺せと。

 ナタにとって、ヒルズパリスやアフロディーテは敵も同じだった。

 ヒルズパリスはスパルタの姫を堂々と攫っていったし、アフロディーテはミツハと殺し合いを演じている。これでは次に顔を合わせた時にお互い気まずいばかりだった。


「一緒に行かない?」

 ヘルメスがそう言い出したのは、迷宮に潜った全員がアンドロメダ騎士団の隠れ家に戻った後のことだ。全員とは言ったが、そこに騎士団長リュデックとヘレネブリュンの姿はない。彼らは、貴族同盟の若手であるヒルズパリスに捕らえられている。


 この事態を知った騎士団員は激怒するとともに落胆した。ヘレネブリュン親衛隊を名乗った青年たちの動揺はとくに激しい。片思いで胸を焦がすオレシオは、やり場のない大声をあげた。


 ヘレネブリュンに憧れを抱いていた少年ピュロスはその場で震えた。彼らの憤りは、仲間を守れなかった騎士、パーンに向けられることになる。だが、パーンは騎士団で最も屈強な戦士なのだから、直接彼の手前で文句を言える騎士はない。そういうわけで、重い雰囲気だけが部屋に残されることになった。


 そこでヘルメスのひとことだった。

「ね、行こうよ」

 ヘルメスが振り返ると、アリアドネが黙り込んでいる。

 彼女は恋人を救うためにケリュケイオンを盗んで彼の居る迷宮に戻ってみたが、結局その彼はどこに行ったのかさえわからなかった。今こうしている最中もどこか迷宮の奥を彷徨っているのではないかと彼女自身不安になっていることだろう。


 迷宮での出来事に、誰も納得できずにいた。


 パーンは言う。

「俺は死んでも、ヘレネブリュンさんを助け出す。あの人は善意で俺たちに協力してくれていただけだ。迷惑はかけられない」

「どうやって?」

 オレシオは、「そんな怪我をして、あんた戦えるのかよ?」とパーンの血の滲む足を見ながら続けて叫んだ。「相手はあの貴族同盟なんだ。イーリアの軍隊だけじゃなくて、奴らの手先にはラズライトアトリーズだって居る。この街であんなパレード見せられて誰が戦えるって言うんだ」


 貴族同盟軍がクレタ島に集結している最中だった。


「威圧するのが目的だ。あんなのにビビる奴がいるか。俺だけじゃない、アマゾンの神殿騎士たちだって奴らに屈したわけじゃない」

 パーンはさらに横を見た。「それに、こっちにも頼れる戦力がある」とは、着替え終わったナタやシェズたちのことだ。ヒルデダイトの将校だと名乗った女子ならば期待できるだろう。彼女が貴族同盟軍に対抗できないわけがない。


 チャンスはあるとパーンは考えただろう。


 そんな会話を聞きながら、ヘルメスは静かにアリアドネに寄り添っていた。

 迷宮での出来事や決断に納得いかないのは、アンドロメダ騎士団の青年たちばかりではない。ヘルメスも同じだった。

「一緒にくればいいよ。どこにも行くところがないんでしょ」

 とは、アリアドネにかけている言葉だ。


「ちょっとヘルメス? わたしたちはもう迷宮には戻らないわ。ユッグ・ドーとは別行動。さっさとドギを見つけてアースガルドってところにいかなきゃいけないわ」

 ミツハは反対しているのだろうが、ヘルメスは首をふる。

「だからって放っておけるわけないよ」

「ユッグ・ドーに任せればいいじゃない」

「その話なんだけど」

 ヘルメスは首を傾げていた。


 ナタが静かに聞いている限りでは、ヘルメスの言い分は次の通りだ。

「探索隊がアリアドネの探している人を見つけたとしても、結局何もできないんだよね。誰かがアーティファクトの技師を連れて来ないといけないわけじゃん。だったらさ、アリアドネがその技師を直接連れてきても同じだし。ううん、そうしたほうがいいんじゃなかって思うんだ。アーティファクトの現物はアリアドネの身体の中にあるわけだし、それをアースガルドで見せたほうが対策が早くなるよ」

「言いたいことはわかるわ。でもそのアースガルドには遊びにいくわけじゃないのよ? 下手したら向こうはもう戦争になっているかもしれないわ」

 ミツハは、ヘルメスの提案には訝しげだった。結局ナタが許可しないものは彼女も許可しない態度だ。

「一人残しても危険は一緒さ。こっちだっていつ戦争になるかわからないじゃないさ」

 ヘルメスは言った。


 対して、ここまで黙って聞いていたナタだが、

 ヘルメスに頷くことも、ミツハに賛成することもできなかった。どちらが正しいかなんて、未来にでもなってみなければわからない話だからだ。

「どうするんだ?」

 ついには、ユッグ・ドーが音をあげるような声を出した。「俺はどっちでもいいが、迷宮探索はもう決意したことだから、やめるつもりはないぞ」とは何かのアドバイスになるだろうか。

 むしろ次の言葉のほうにナタは興味を持った。

「もう一つ言っておくが、ヘルメス、好きな女が出来たからって肩入れするのはほどほどにしておけよ」

 これがユッグ・ドーの見立てだ。


「ちょっと、そういうのじゃないんだって」

 とヘルメスはごまかすが、

 ミツハが目を細めたところで、頷くのが現実。それは女性の目から見てもそうなのだろう。


 ヘルメスの恋心なんてものは、これもナタには答えがだせない問題だった。


「さあて、ケリュケイオンとやらをどう処分するかみんなで考えりや」

 このリッリのかけ声で、場はまた騒然となる。問題は山積み。

 そして、

「一つずつ問題を解決していこうぜ」

 ナタは大きく息を吐いた。


「まずは取り返したケリュケイオンをどうするか?」

 それを考えるために、ナタの周りにリッリやユッグ・ドーが集まっていた。シェズやミツハも近いところで聞いていることだろう。そんな中、リッリは唐突に話を逸らして、寄り道を始める。それは、「取引できないようであれば、ケリュケイオンなど最悪捨てても良き」という台詞の後のことだ。


「ユッグ・ドーはどうすりゃ?」

 リッリは自慢の赤頭巾に着替えて、椅子に座ったところでその赤いローブをたぐり寄せていた。座り直したといったところ。


 これを受けて指名されたユッグ・ドーも襟を正した。

「どうするとは、これからのことか? 迷宮探索をしながら、あんたたちが帰ってくるのを待つつもりだが、面白そうな話があれば旅をするし、戦争が始まればキリーズに戻るかもしれない。その時はその時さ」

「今の話りぃ」

「今?」

「ユッグ・ドーよ。それは罠にかけられてヒルズパリスらから殺されたであろうが。向こうはそのつもりでありゃ。死人がのこのこ現れて商売に励んでいてはまずかろ」

「探索は当然、貴族たちがクレタ島から出て行った後だ。それまでは俺も大人しくする。昨日の今日で、貴族たちと顔を合わせたくはないしな」

「時に、向こうはユッグ・ドーの素性を知ってり。船は使えりや?」

「船なら、その辺で漁師から買えばいい。もともとここまで乗ってきた船は乗り合いの船だ。俺のものじゃないから、問題はない」

「ワレはどうすりゃ?」

 リッリはか細い声を出した。とは、

「俺が船を出すのを宛てにしていたのか?」とユッグ・ドーが指摘する通りだ。


「貴族たちとの交渉が決裂してもここは島なりゃ。海に出てしまえば良き。トラブルも海の彼方りゃ。ななら、交渉の前に船を用立てるのは必然」

「なるほど」

 ユッグ・ドーは、少し考えて口を開いた。「その辺の漁師に声をかけて小舟を譲ってもらえばいい。今なら貴族達が集まっている。そしてその貴族にたかろうとする商人や美女もわんさか来ている。漁師だって金があれば良い思いができるだろう。そういうわけで、交渉は簡単なはずだ」というのが彼の結論だ。


「なるほりょ」

 リッリは頷いた。

 だが、これで話は終わりではない。

「いや、もうひとつ良い方法がある」とは商売人の顔で語るユッグ・ドー。


「もうひとつ?」

「実はヒルズパリスの坊ちゃんに白い船を引き渡す手はずになっていた。迷宮に入らなければ、引き渡す方法や代金の支払いを貴族たちと話し合って決めていただろうな。だがこうなったら、その話もなかったことになる」

「むう?」

「それをあんたたちに売ってもいい」

 これがユッグ・ドーの新しい提案だった。


 新しい船などすぐに用意できるものだろうか。

 ナタが思っていると、

「漁師と交渉しやりや」

 リッリが立ち上がっている。彼女も漁師と交渉して船を譲って貰う計画を推しているのだろう。

「まて、こっちは最新鋭の帆船だぞ。船の形状にも新しい工夫がしてあって、これまでの船の二倍、いや三倍は速く走れる」

 手を広げて、どれくらい大きな船かを表現した上で、ユッグ・ドーは自慢した。


「そもそもその船ってのは、貴族たちのものだろ?」

 ナタが問うと、

「船はこっちにあるんだ。俺を殺すってことがどういうことか貴族どもは思い知ればいい。そんなわけで俺は貴族どもに船を引き渡す気はなくなった」

「それを俺たちに買わせるのか?」

「あんたたちなら使いこなせる」

「そんなもんか?」

 ナタはここでも考え込んだ。


「却下」

 リッリの決断は早い。「いつまで、どこまで使うかわからない船に大金など出せるわけなきゃりや」と当たり前のことを言う。

 しかしその声が聞こえたのは、ナタくらいなもの。

 ユッグ・ドーには別の声が聞こえただろう。

「一番速く走れる船。格好いいじゃん。それ決まりな」

 その船に乗ろうと言ったのは、シェズだ。


「白い船なんて素敵だよ」

 ヘルメスもアリアドネの気をひくために、これは使えると夢見る顔をしていた。


「ちょっと待てりや」

 リッリは口を開けたが、こうなったら収まらない。話は次々に進んでいくようなもので、

「その船はどこにあるんだ。ちょっと見に行ってみようぜ」

 話し合いは中断され、船の見物にでも行こうかという雰囲気。

「船はまだキリーズにある。ってなわけで、俺が一度キリーズに戻って、その船をとってくることになる。まだ仕上げの途中だと思うが、走る分には問題ない。数日もあれば行って帰ってくることができるだろう」

 ユッグ・ドーは出かける支度を始めていた。そうと決まれば、できるだけ早く船を取りに行こうというのだろう。



「あの船なら、貴族がどんな船で追いかけて来ても逃げ切ることができる。そして俺は船で儲けた金で、迷宮探索をする。お互いに良い関係が築けそうじゃないか」

 ユッグ・ドー曰く、迷っていても時代は勝手に進むものだ。

 ユッグ・ドーがナタに握手を求めて来て、

「そうか?」

 ナタが思わずその手をとれば、これで契約完了だった。

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