Chapter47 黒い小袖と袴
俺は扉を押して開いた。
室内から冷えた空気が流れ出てくる。
長く仄暗い廊下を、早歩きで突き進んでいく。相変わらずアキラの作った本物そっくりの絵画たちが、スポットライトに照らされて、時代順に飾られている。
廊下の突き当たりで、開けた大きな空間に出る。下へと続く螺旋階段を下りていく。
「何ですか、ここ……」
ワダさんが呟く。
階段を下り切る。
記憶をたどり、例の部屋へと向かっていく。どこかに一人くらい職員がいるかと思ったが、誰にも会うことはなかった。
三人の足音だけが遠くで微かに反響をしている。
虹色に輝く湖面、ハスミ機関の脇を通り抜け、俺たち三人はそこに到着した。まるで小さな箱をひっくり返したような、その部屋に。
「ここですか、娘のための部屋っていうのは?」
ワダさんが尋ねる。俺は無言で頷く。それから後ろに立つリイを見る。彼も無言で頷いた。イヤホンの向こう側も押し黙ったままだ。
部屋のドアは、引き戸だった。
左手から右手にスライドさせるドア。
指を掛ける溝に手を近づけて、俺は、止まった。
思考する。
映画の上映は、もう間もなく始まる。もし本当にオードリーや広報課の職員が言っていた通りなのだとすれば、この中には誰かがいるはずだった。アキラ二号機が作った映画を再生するための誰かが。
アキラそのものは通常のネットワークからは切り離されていたし、彼の作った作品は何がしかの記録媒体に必ず保管されていた。だから、世の中に出すための人的資源が必要なはずだった。
もしも、この中に誰かが——例えば審議会の一人などが——いたとしても、俺たちにはリイがついている。暴力に頼るわけにはいかないが、かといって過剰におびえる必要もないだろう。
俺は、ドアを引いた。鍵は掛かっていなかった。
目の前に、黒い装束の男がいた。
その瞬間、俺は思い切り、後ろへと引っ張られた。
それと同時に、鼻先を光の筋が走る。
そして誰かの叫び声。
「危ない!」
俺は、リイに腕を掴まれて、彼の後ろに投げ飛ばされた。受け身なんぞ取れるはずもない。地面にぶつかって、転がる。遠慮のない鈍い痛み。状況が全く飲み込めない。
「どうした? 大丈夫か!」
イヤホンから声が響く。俺は、めまいを堪えるように頭を振って、隣を見る。
「いった……」
ワダさんも地面に転がっていた。手を突いて起き上がろうとしている。彼女も、リイに放り出されたようだった。
痛みを押して、俺も身体を起こす。
「映像が届いていないが、大丈夫か! 何があった?」
チャーリーの声が耳元で響いた。
眼鏡のレンズが割れていた。
「カメラが壊れたようです。俺も彼女も無事ですが……」
しかし、一体何が……俺は正面を見やった。ひび割れた視野の先に、それはいた。
考えてしかるべきだった。ブルース・リーの複写生命がいるんだ。他に誰がいたっておかしくない。そして今目の前にいる奴は、俺でも十分に知っていた。
黒い小袖と袴——『用心棒』。アレは、三船敏郎だ。彼が部屋の前に立っていた。
「イチカワさん……」ワダさんが立ち上がって、俺の傍まで寄ってくる。「荷物が……」
俺は声を掛けられて、自身のバッグを見る。
ゾッとする。
バッグが真っ二つに裂けて、中身がこぼれ出た。
正面を見る。三船の構えた刀が禍々しい光を放っている。
先ほど見た光の筋は、アレだったのだ。恐ろしく速い太刀筋。リイが俺を投げ出していなければ、俺の身体も切られていたに違いない。
「イチカワさん! キューブが……」
下に散らばった荷物を見た。
「マジかよ……」
データキューブが真っ二つになっている。素人の俺が見たってハッキリしている。これではどうやったって再生は出来ない。
「どうした……? 何があった?」
イヤホンの向こう側から、戸惑いの声が聞こえる。
「……キューブが破損しました。再生は、出来ません」
俺は苦々しく言った。
「どうしますか? 予備を取りに戻りますか?」
俺は視線を上げた。膠着状態の二人を見る。刀を上段に構えた三船敏郎とジークンドーで相対するブルース・リー。お互いにお互いを睨み合ったまま、動かない。
「そこからここまで何分だ? 一時間弱か? こっちで新しいものを用意して誰かを向かわせても、かなり上映した後になるな……」
「もうダメですね。上映が始まります」
腕時計を見る。長針が九時ちょうどを差す。
開いたドアの向こう側から、音が漏れ聞こえてくる。
上映開始のファンファーレ。
架空の制作会社のテーマサウンド。そして——
『映画が始まったから、邪魔者を早くどかしてちょうだい』
声がした。〝娘の部屋〟から、聞きなれない声が聞こえてきた。悪寒が背中を走った。
何だ、今のは……誰かの声なのか? 誰かがあの部屋の中にいる!
だがそれは、全くもって、人間の声ではなかった。一体何が、何があの中にいるというのだ?
そして突如、途切れがちになるイヤホン。ノイズが入る。
「……? チャーリー、聞こえますか?」
チャーリーたちの声が、聞こえにくくなる。一気に血の気が引く。
俺は必死に呼びかけた。だが耳に届くのは、一万光年も遠くに聞こえる声と砂嵐の響きのみ。
「大丈夫ですか?」とワダさん。
「分からない。イヤホンが遠い。指示が聞けない」
次の瞬間、動きがあった。
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