Chapter38 正体
灰色の雲がか細い雨滴を落とす、薄暗い夕暮れ。
南東から北西へと強く吹く、生暖かい潮風。
俺は重たい足取りで彼女の指定した喫茶店へと向かう。
川沿いの土手、その下のさらに下の方、そこにマンションの影に覆われて、ひっそりと建つ掘立小屋があった。アレが彼女の指定した店だろう。
俺は情報端末を開く。本当に地図に載っていない。
石畳の階段を見つけて、俺は下りていく。中から漏れる微かな明かりを見て、店が開いていることを知る。
ここ一カ月、彼女の様子はおかしかった。俺に対する態度も妙にそっけなかったし、話しかけて無視されることもあった。だが、映画製作からは一歩も手を引いていなかった。常に全力で役を演じていた。俺は彼女に圧倒されていた。彼女が俺の何に対して怒っているのか——もしくは不愉快になっているのか、そこのところは分からなかったが、それでも彼女の演技が本当に良かったから、俺はそれを気にしないでいられた——たとえ、この作品が完成せずに、陽の目を見ないとしても……。
そんな彼女から情報端末で連絡が入ったのは、昨晩のことだった。
——大事な話をしたいので会えないか?
そういう趣旨のメッセージだった。
俺は、映画製作のことかと尋ねたが、彼女は答えてくれなかった。今日会って話す、それだけを繰り返した。
そして俺は今、指定された店の前に立った。
小さな看板が掲げられている。赤青黄色のペンキで、インスキーノと書かれていた。準備中の札はない。
俺は取っ手に手を掛けて、扉を開いた。
中は、コーヒーの香りでいっぱいだった。天井からぶら下がったいくつもの豆電球が、優しく店内を照らしていた。木製のカウンター越しに、齢七十にはなろう、老齢な男性が豆を挽いていた。彼は俺を一瞥して、手で店の奥を示した。俺はそちらを向く。
そこに彼女がいた。他に客はいなかった。
不揃いな円形のウッドテーブル、黒い鉄のストールの間を抜けていき、俺は、席に座る彼女の前へと進んでいった。
「お疲れ様です。急に呼び出してすみませんでした」
彼女は開口一番そう言った。
「いや、構わないよ」
俺はコートを抜いで、向かいに座った。
沈黙が生まれそうになる。
ワダさんにコーヒーで構わないかと聞かれて、俺は構わないと答えた。彼女がさっきのマスターに二人分のコーヒーを注文する。
「ここは今日、私の貸し切りなんです」
彼女を見る。彼女の瞳と目が合う。そこには怒りがあった。そして怯えも。勘違いでなければ、あとは憐みの情も。
「貸し切り?」
俺は阿呆みたいに繰り返す。
「ええ。私、ここの常連で、マスターとは懇意なんです。今日はお休みのところを、無理にお願いして開けてもらったんです」
俺は後ろを少し振り向いて、黙々と作業を続ける男を見る。そして彼女に向き直る。
「この店は、その……何だ? 地図にも載っていなかった」
「別に、載っていないことくらいあるでしょう。何でも地図に書いてあるわけがありません」
「まあ、そうかもしれないけど……」
「ここには私たちだけです。他の人が来ることもありません。だから、何を話しても構いません」
「何を言っているんだい? 今日は、君が僕を呼び出したんだろう? それに最近の君の態度も気になっていた。俺、何か悪いことしたかい?」
彼女の眉間に小さな皺が寄った。彼女は吐き出すように、言った。
「私、見たんです……あの墓参りの日、あなたが取締官と話をしているのを。あなたは一体誰なんですか?」
これまでの俺の人生を振り返ってみても、その都度その都度の決断はおおよそ間違っていなかっただろうし、ある程度思い通りに事を進められてきたと思う。
もちろん、今のこのご時世、そういう風に人生を歩めない奴の方が稀だ。
何故か?
——AIによるステータスがあるからだ。
ポケットに入るサイズのものでも、腕時計型でも構わない。とりあえず、身近な情報端末に相談をすれば、大抵のことは回答が来る。
それは人生の岐路で決断すべき事態であっても変わらない。自身の能力や嗜好から判断して、最適なルートを選んでくれる。チャーリーが言っていたような、楽ちん、てな奴だ。そしてこのシステムは、大勢の人間の無尽蔵の情報があってこそ成り立つものだ。しかし、当たり前のことだが、それは通常、人が経験する出来事の域を出ない。
だから、俺が今陥っているシチュエーションに対する回答は、どこにもない。俺がここでなんて答えるのが正解なのかは、誰にも分からない。
彼女が俺にもう一度尋ねた。
「あなたは一体誰なんですか? 取締官だったんですか?」
俺は、俺を睨む彼女の眼を見ることが出来ない。身体を強張らせ、壁に空いた小さな穴に目を向ける。聞こえるのは、俺の心音のみ。彼女の怒りに満ちた問いかけは、あまりにも突然の強襲だった。
「どうぞ」
マスターが声を掛けて、俺たちにコーヒーを置いていった。どちらもカップには手を付けない。視界に収めなくても、回答を求めている彼女の様子をひしひしと感じる。
渇き切った口を俺は無理に押し開いた。隠し通すことは出来ないと悟った。
「そうだ。俺は取締官だ」
彼女を見る。その表情に浮かんだ嫌悪の色。俺は、続け難い二の句をどうにかして継いだ。
「正確に言えば、取締官だった。今は違う」
「だったって何? じゃあ今は何なんですか?」
刺すような彼女の尖った口調。
ここから先の話をどこまでするべきか。そもそもビオスコープで話すことすら躊躇していた内容を、先に彼女に話せるのか? 聞けばその身を危険に晒す、きわめてリスキーな話を、目の前の彼女に?
「俺は……ある任務で君たちの組織に潜入していたんだ」
「潜入? 私たちを捕まえる気だったの?」
「違う、そうじゃない」
俺はそこで言いよどむ。ワダさんが怪訝な顔をする。
「じゃあ、何なの? 取締官が何の目的でビオスコープに潜入するの?」
答えられない。俺は沈黙する。
ワダさんは俺から目を離さずに、膝に置いた小さなバッグに手を入れた。何かを取り出すのを見る。テーブルの上で鈍い音を立てて、それは置かれた。
小型の拳銃だった。
俺は絶句した。彼女はその黒い金属の塊に手を置いたまま、言った。
「もし、あなたがビオスコープのメンバーを危険に晒すつもりなら、私はこれであなたを撃ちます。そしてそのあとすぐに、自分のことも撃ち殺すつもりです」
俺は金魚みたいに口をパクパクさせながら、後ろのカウンターを見やる。店主は何も気にしていない様子だった。事態を分かったうえで黙っているのかすら、分からなかった。俺は努めて軽く言った。
「冗談はよしてくれ。それは本物じゃないんだろう?」
彼女の口角が僅かに上がる。
「撃ってみましょうか、試しにでも」
俺は、小さく両手を挙げて、彼女を制する。この銃が本物かどうかは分からない。だが、俺の今目の前にいるのは、虎だった。ビオスコープを守ろうとする一頭の虎。あの資料室にいたか細い少女は、すでにそこにはいない。
「遺体はマスターがうまく処理してくれます。心配しないでください」
彼女は平坦な口調で、わけなく言ってみせる。
降参だと、俺は思った。ここに足を踏み入れた時点で、きっと俺の負けは決まっていたのだ。
俺はうなだれて、息を吐いた。腹を決めて、顔を上げる。彼女の瞳を真っすぐに見る。
俺は、とつとつと事の次第を話し始めた。アキラが機能を停止したこと、それに代わる映画が必要になったこと、そこでビオスコープを利用したこと、そういったこと全てを、だ。
彼女は俺が話すのを、黙って聞いていた。彼女にとっては、衝撃で、腹立たしい内容ばかりだったに違いない。だが、彼女は途中で口を挟むことはしなかった。ただ、その手は拳銃の上に置いたままだったが。
一通り話し終わり、静寂が訪れる。
ワダさんは、空いた手でコーヒーを取り、一口飲む。俺も、合わせて自分のものに口を付ける。
すでにコーヒーは冷たくなっていた。
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