Chapter36 チャーリー
映画の撮影は、再開された。
ビオスコープ内に
幸いなことに、かけてはならないメンバーは現状、とどまってくれていた。監督に撮影、音響、それに俳優といった人員は、誰一人抜けることなく、そこにいた。
「もう少し、上。上に向けてくれよ」
津島さんの声が、俺を呼んだ。すみませんと謝って、俺は手に持ったレフ板を上に傾けた。№8の顔に照明の淡い照り返しが当たった。
さびれた雑居ビルの一室。
映画制作会社の会議室に模した空間。
そこで制作担当者と話し合いを行う№8。
消えてなくなった脚本。
自己の存在証明を掛けた一世一代の抵抗。
白熱した演技。
確かに、このプロジェクトに関わる人間の数は減った。だが、熱量は、前にも増して強まっていたように思う。それはホリーの死が原因かもしれないし、取り締まりの不安を忘れるための威勢だったのかもしれない。だがその結果、映画の制作は、着実に前へと突き進んでいた。
カットの声がかかる。そして十分間の休憩。
俺は、現場を見渡す。今日来たメンバーを確認する。
ワダさんは来ていなかった。今日の撮影にいなくても、特段の支障はない。彼女の出番はなかったからだ。
しかし、俺はここ最近の彼女の様子に、違和感を抱いていた。前回現場で会った時もそっけなかったし、情報端末上のメッセのやり取りも滞りがちだった。
何かをした覚えはない。だが、不安が募る。
「今日の撮影はどこまでやろうかね」
俺が腰かけていたデスクの前に、ボーマンが立っていた。
「もう日も傾き始めていますし、室内の照明の具合も変わりませんかね?」
俺は適当な意見を言う。ボーマンは、会議室の窓を見る。
「そうかね。まあ、そういう意見もあるか」
俺は悩んでいた——本当にこのまま撮影を進めてしまっていいものかと。正直、制作を進めることが、これほど苦しいものになるとは思ってもみなかった。
「テリー、ロンが陽の当たり具合を気にしているけど、君の意見はどうだい?」
テリーがライトの位置を直す手を止めて、こちらに歩いてきた。
「日光? 何言ってんだい? これくらい照明でどうにでも調整できるだろう? 全然問題なく進められるよ」
「そうかい」
「津島さんを見てみろよ。すごい気合の入りようなんだから」
俺らは津島さんを見る。カメラのファインダーを一心に覗き込んでいる。
俺は心の中で大きなため息をついた。彼らは呑気でいい。裏で何が進んでいるのか、知らないからだ。このまま映画を完成させてみろ。待っているのは破滅だけだ。
「なあ、皆も乗ってるんだ。ここで終わりにする理由はねえだろうよ」
テリーがデスクに両手をついて、身を乗り出す。俺は、頭を掻きながら言った。
「気持ちはよく分かるし、俺もこのまま続けたいと思う」
「じゃあ……」
「でも、すまない。何か、疲れてしまったんだ」
俺は立ち上がり、二人を置いて、その場を離れた。二人はあっけに取られてしまったようで、何も言ってこなかった。
会議室を出て、ビルの玄関へと向かう。
ドアを開けると、三月の終わり、まだ微かに冷たい空気が俺を迎えてくれた。俺は、傍らに放置されたプラスチックの箱に腰を下ろした。眺めてみれば、陽はまだ地平線から、指四つ分くらい上の方にあった。
「何だ、休憩中か?」
俺は驚いて、周りを見回した。俺の座った玄関横とは反対側の地面に、チャーリーが胡坐をかいて座っていた。相変わらず手には酒の瓶を持ち、赤ら顔だった。
「ええ」
そう答えた俺の顔を、チャーリーはのぞき込む。
「何か浮かない顔をしているな?」
俺は、もたれていた壁から身を起こして、チャーリーを見る。目の焦点は合っているようだった。
「そう見えますか?」
「ああ、見えるね。アレか。クランクアップの憂鬱か?」
「クランクアップの憂鬱?」
「そうだ。せっかく同じ釜の飯を食って仲良くなっても、映画の撮影が終われば、みんな、次の現場に行くからな。その時の寂しさを、クランクアップの憂鬱って言うんだ」
「ふーん……」またいつもの法螺じゃないかとも思ったが、俺は否定しない。「まあ、そんなんじゃないですけど……」
「そうか……なんか悩み事か? 映画のことなら何だって答えてやるぞ?」
チャーリーは顔をしわくちゃにして微笑む。
俺は何も答えずに、頬杖をついて前を向いた。オレンジ色に染まり始めた太陽の斜光のまぶしさに、俺は目をすがめる。
そんな俺の態度は意にも介さず、チャーリーは鼻歌を唄い始めた……『ニューシネマパラダイス』のテーマ曲だった。音程がかなりずれているが、恐らくそうだった。
「俺らのやっていることは……」酷い曲を止めようと思って、俺は口を開いた。「そんなに悪い事なんですかね……」
歌が止んだ。
「それを気にしていたのか?」
覗き込むチャーリーの視線を避けるように、俺は顔をそむける。
「いや……分かってはいるんですけどね……今撮っている作品だって、見る人が見れば、何か歪なものが混じってるってことくらいは……。そしてそういう作品が、アキラ以前には沢山あって、人の心に良くない影響を及ぼしてたってことも、よく分かってるんです」
「……そうかい」
こんな酔っぱらいに話したって何も解決しない。そんなことは分かり切っている。
だが、誰かに話さずにはいられない。
「特にホリーが望んでいたような結末なんか、アレは若者特有の、よくあるただの承認欲求ですよ。あんなものは、アキラの作品では見られない、酷い結末ですよ」
「そんな言い方、しなくてもよ……」
「でも……何ていうんですかね、マチルダから、ホリーが学校でどんな目に遭っていたとか、好きな子がいて苦しい思いをしてたとか聞くと……その、よく分からないんですが……」
言葉を上手く選べない。チャーリーはそれでも黙って、次を待ってくれている。
「よく分からないんですが、ホリーがああいう結末の脚本を望んだことは、別に、何も、悪い事なんかじゃない気がするんですよ……ホリーが言いたかったことは、結局彼は、亡くなってしまったけども……彼が言いたかったことは、そんなに、そんなに悪い事なんでしょうか……」
一通り言い切って、俺は下を向いて、うなだれた。
チャーリーが言った。
「別に悪い事じゃあないだろう」
「……でも、取り締まりの対象にはなる」
「まあ、そうだな」
「どうしてですか?」
「……それは俺たちが、アキラほど完璧じゃないからだろう」
「……そう、ですね。俺たちは完璧な作品を作ることが出来ないから……だから禁止になった」
「そうだ。頭のいいお前さんなら、よく分かってるだろうに」
そうだ。よく分かっている。そして、よく分かっていた。
だが、しかし、だ。
たとえ人間が不完全だとしても、何かを伝えようとすることを、押しとどめていいものなのだろうか? ホリーはもちろん、他のビオスコープの面々も、何かを伝えたくて、この作品に、懸命に取り組んでいた。俺はそれを目の前で見てきた。
だから、分かる。
これは、審議会が言っていたような、抹消されてしかるべきものだとは、俺には到底思えない。思いたくない。
「……どうして、この国の人々は——海外もほとんど同様な事態に陥っていますが——何かを作ることを、全面的にアキラに譲ってしまったんでしょう」
「そりゃあ単純だよ……その方が断然、楽だからだよ」
「……楽?」
「そうだよ。だって、おめえ、今この時代は、俺の若いころに比べたら、楽ちんも楽ちんで、ふにゃふにゃなんだぜ?」
「ふにゃふにゃ……」
「お前さん、当たり前だけどよ、お前さんにも本業の仕事があるんだろう?」
「え、ええ」
「その仕事は一体どうやって決めたんだい?」
「どうやってと言われても……そりゃあ、その、自分の意思で」
チャーリーは首を横に振る。そして、俺の手首を指差す。そこには情報端末があった。
「そのデバイスとやらに、色々とアドバイスを貰ってんだろう?」
彼の言いたいことが分かった。ステータスに関わるAIの話だ。
「そいつは、人々の能力や嗜好を見て、物事の向き不向きを教えてくれるんだろう? その人に合った趣味や食事、職業。そして娯楽も、だ」
俺は小さく頷く。
「娯楽においては、その人が一番欲していて、社会的に有用なものだけが、アキラのおかげできちーんとお膳立てされるわけだ。こんなに楽ちんな時代は未だかつてなかったさ。昔はよ、漫画にしても映画にしても、つまらない作品、自分に合わない作品もたくさんあったわけだ。お金を出して、時間を使っても、結局損をしてしまうようなことが、過去には普通にあったんだ」
「でも、アキラのおかげでそういったことはなくなった」
「そうだ。娯楽を受け取る側からしたら最高だろう。自分にとって不愉快なものは見なくて済むんだからな。一方で、本当に伝えたいことがある人々は、何も創れなくなってしまった。アキラが全部完璧にやってしまうから。作っても、絶対にどこからか批判が来てしまうから。本当に伝えたい人には伝わりにくくなってしまったから。そしてそのうちに、創作なんかにかまける奴は変な目で見られるようになって……そうさ、その後はお前さんも知っての通りってわけさ」
「……」
「受け手は、欲しいものだけを手に入れるように望んだし、作り手も懸命に伝えることを放棄してしまったんだ。結局、お互いがお互いを理解するための努力をせずに、楽しよう楽しようとしてきた結果が、この状況なんだ」
チャーリーは、掌を上に向けて、諭すように俺に言った。
俺は、何も答えられなかった。俺は、黙ったままだった。
俺は、自分がどうするべきか分からなかった。俺は、どこにも進めなかった。
この映画は完成させられない。完成させれば、ビオスコープは消される。
だが、完成させなければ、俺の首が飛ぶ。いや、もうすでに飛んでいるも同然だ。
俺は、何故か、してはならないことをするように命じられた。してはならないことをしているのだから、首はすでに飛んでいて当然だった。
だが、じゃあ誰に俺は命じられたんだ?
してはならないと命ずることが出来て、かつ、してはならないことをするように命じられる者。
——それは全くの矛盾の極致。
——それは恐らく見えもしない大きな力。
——俺を操る何か。
俺は視界が真っ暗になった。光の届かない絶対深度の海の底。俺はそこに押し込められたような、激しい息苦しさを感じた。
「大丈夫か、おめえ。顔色が酷いぞ……」
俺は、手を挙げて、身体を寄せてきたチャーリーを制した。
「大丈夫です……ここ最近、少し眠れていなくて……」
「お前さん、今日は帰った方がいい」
「ですが、まだ撮影が残っています」
俺は、ふらふらと立ち上がった。チャーリーが心配そうに俺を見上げる。
「いや、今日は帰っても大丈夫だよ」
そう声が掛けられた。俺とチャーリーの間、扉からボーマンが顔を覗かせた。
「ロン、今日はもう終わりにしよう」
「さっき言った照明のことを気にしているのなら、すみません、謝ります。もう少し進めましょう」
「いや、それがね、津島さんも照明が気に入らないって騒ぎだしてね」
「あらまあ、彼はまた強情だねえ」とチャーリー。
「ええ。テリーとちょっと険悪になりましたけどね、何とか押さえました」
そう言って、ボーマンは笑った。
俺は安堵のため息を小さくついた。
そして、その日の撮影はそうやって終わった。
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