Chapter21 クランクイン
慌ただしく二か月が過ぎていき、ついに撮影が開始された。そう、クランクイン。十一月中旬の冷えた日のことである。
撮影初日、俺たちはミナトミライ跡地にある雑居ビルの二階フロアに集合していた。
そのフロアには、小さな出版社の編集部があった。もちろん本当にあったわけではない。残置されていた片袖机やパーテーション、それに買い足した大量の雑貨や雑誌などを使って作られた撮影セットである。
「それっぽく見えますね」
俺の隣に立つホリーが言った。
「ああ、すごいもんだな。本物みたいに見えるよ」
俺は素直に感心した。
撮影監督の津島、美術担当のデロリス、二人の尽力のおかげだ。
撮影は、まだ始まらない。
主演のワダさんは、フロア入り口のボロいドアに寄りかかり、台本に目を通している。そばのソファに座る№∞は、目を固く閉じて集中している。
俳優以外のスタッフたちは、カメラやマイクやらの撮影準備に走り回っていた。照明のテリーや音声のシュピルマンが、指示を飛ばしている。
だがあいにく、俺にはするべきことがなかった。ここまでの準備が無事に終わっていれば、あとはそれを形にしていくだけだからだ。制作としての俺が、ここで決断することは、また決断できることは、あまり多くはない。
「緊張しますね」とホリー。
彼もまた脚本中心に携わってきたから、ここでは幾らか手持ち無沙汰なのだろう。
「そうかい?」
「ええ。だって、ついに僕たち、映画の制作をするんですよ?」
「そうだね」
彼の横顔を見る。きつく閉じた唇に彼の緊張を見る。
「大丈夫だよ、きっとうまく行く」
俺は優しく言った。
「何だか、自分が関わった映画が作られるなんて、すごく変な気持ちです」
彼は頬を紅潮させながら、ぎこちなくはにかんだ。自分と未来とに過度な期待を持つ、若者特有の感情を、俺は彼に見た。ほほえましく思う。そして俺も同様に、変な気持ちを抱いた。
俺は映画のことは詳しくない。だが、映画がこの世界とは違う、別の世界を作り出そうとするものなのであれば——そしてその世界が完璧に調整されたものであればあるほどに——それは確かに、神にしか成し得ない所業だと思う。しかし、俺たちは今ここで、その無謀に挑戦をしている。あのアキラが作る完全無比の物語に成り代わるようなものを、俺たちは作ろうとしている。
こんなに可笑しなことはなかった。
俺はこの二か月の間、そして現在もなお、これは不可能な事業だと考えていた。だって、考えてもみてほしい。
今この場には、十数人もの人間が集まっていて、彼らが各々にそれぞれの思惑を持って、撮影に臨んでいる。そんな奴らが一つの崇高な目的に向かって、映画を、別の世界を、一つの調和された物語を、作れるはずがない。
俺は失笑した。
懲戒免職必至の事業に、俺は足を突っ込んでしまったのだ。
「セットできたかい?」
ボーマンがディレクターチェアから立ち上がり、よく通る声で言った。
スタッフたちが頷くと、ボーマンは役者たちに近づいて、何やら声を掛け始めた。内容はよく聞こえなかったが、恐らく演出を付けているのだろう。それに一体どういう効果があるのか、俺にはよく分からなかったが。
そしてボーマンは椅子に戻って、再び腰を下ろした。場の空気が、一挙に重たくなった。
「じゃあ、一発目行ってみようか」
その一声で、各所に配置されたスタッフたちに緊張が走り、俳優たちが役に入ったことを、見て取った。
今日撮るショットは、№∞演じる主人公・宇田神が書いたゴシップ記事に、新人俳優の姫野が文句を言いに来るシーンである。
「よーい、アクション」
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