Chapter19 プリプロダクション
忙しない日々が始まった。
決めるべきことが山にようにあった。
映画を構成する要素は、脚本に始まり、俳優、衣装、ロケ地、小道具、音楽とあらゆる方面に枝を生やしていて、それらは密接に絡み合っていた。だから、どれか一つだけを終わらせてから次に行くわけにもいかず、並行して数多くの決定を走らせ続けなければいけなかった。
特に俺は、仕事を一時的に休んでいるとうそぶいたせいで、全ての打ち合わせに出ることになってしまった。
もちろん、他のメンバーには自分の生活がある。
だから、こんなにどっぷりと全力で制作に取り組んでいたのは、俺とマスター・ボーマン、それに学生ホリーくらいのものだった。
脚本の手直しは、主に監督であるボーマン、それから脚本に興味のあったホリー、それから主演予定の二人の俳優だった。一人は、キャシーことワダさん、もう一人は№8と呼ばれている男だった。
№8は、面長の顔に、大きな黒い瞳をした、俳優志望の男だった。彼は、ジェルで艶めく長い前髪を後ろにかき上げながら言った。
「じゃあ、何ですか? この脚本の時代設定は、アキラ成立以前になって、主人公の年齢も少し上がるわけですね?」
物腰の柔らかい口調。それでいて、呑み込みの早い理解力。
俺は、答えた。
「そうです、大学卒業後にフリーターをしながら、脚本家を目指している青年にします」
「その青年が試しに書いた脚本が、何かのきっかけで俳優志望の彼女の眼に触れるわけですか?」
彼はワダさんを指差す。
「ええ」
「元の脚本だと、お姫様が依頼した恋文を、主人公はやきもちから書かなかったわけですよね」
「ええ」
「そこはどう変えるんですか?」
「主人公は、自分の脚本を映画会社に売るつもりだったんですが、それを直前で取りやめる展開にします。彼は、一世一代のチャンスを自ら棒に振るんです。彼女と主演俳優の恋仲が、発展するのに嫉妬したからです。自分の脚本が、その恋愛をさらに燃え上がらせるわけにはいきませんから」
「うーん……少し弱い気がしますね。当初の設定では、主人公は少年でしたから、そういった嫉妬の感情も持つと思いますが、新しい設定では彼はもう成人なわけでしょう? 映画化のチャンスをみすみす捨てるようなことがあるでしょうか?」
「じゃあ、こんなのはどうですか? 彼の脚本は映画会社にいったん買い取られるんですが、他の有名脚本家の手直しが入って、彼の名前はクレジットされないんです。一応、業界の中で自分を売り出すことは出来たんですが、世間的には……」
こんなやり取りを幾度となく繰り返し、脚本は当初の形から離れ、新しいものに
そう、脚本はまだよかった。見通しを立てることが出来たから。
しかし、他のことはどうにもならなかった。
マチルダという若い女の子が、ビオスコープにはいた。彼女は、学生ホリーと同じくらいの年端の子で、今回衣装を協力することになっていた。
彼女は、言ってきかなかった。
「衣装はイチから作るべきです、絶対に」
マチルダは、オシャレが大好きな今時の女学生だった。髪は真っ黒なテクノカット、紅く染めた細い眉に、真っ赤なアイシャドー、それに血のようなグロス。
彼女の中で、主演の一人、ワダさんが演じる新人女優のイメージは、とがったファッションで身を包んだ戦う女性だったのである。
「マチルダ、衣装を作るのには時間も技術も必要だね? 君は衣装を作ったことはある?」
監督のボーマンが優しく諭すように彼女に問う。
マチルダは首を横に振る。
「私が思うに、この新人女優の役柄は、田舎から出てきたばかりの割と保守的な女性像だと思うんだ。例えばね、このシーンを見てほしいんだけど」
ボーマンは途中まで出来た脚本を見せながら説明をする。
マチルダは、時間をかけて、監督の意図を理解しようとする——それでも時々、癇癪を起しそうになることもあったが。
「彼女の暴走を止めてきてくれよ」
俺は冗談で、隣に座るホリーに言う。その時は、マチルダがワダさんの髪を栗色に染めると言って聞かなかったのだ。
「栗色ならいいんじゃないですか?」
ホリーは呑気に返す。
「何言ってんだい。黒髪でいくと津雲さんも言っていただろう」
津雲は、今回の映画のカメラマンだった。
津雲半四郎。映画『切腹』の主人公。
彼は、人を切り殺しそうな鋭い目つきと落ち着いた佇まいを持った、壮年の男だった。その彼の意に反することは、ボーマンを除いて、中々言えない。
「君は彼女と歳も近いんだし、仲もいいんだろう?」
「そう言われましても……マチルダって頑固ですし……」
俺は、目の前のボーマンとマチルダのやり取りを見ながら、小さなため息をつく。
「君の髪の色の話だぜ? 君も意見を言ってきたら?」
俺は、後ろのソファに腰かけているワダさんに話を振った。
「ははは、私の意見なんかいりませんよ。私は言われた通りにやるだけですから」
彼女もダメだ。頼りにならない。
「そうかい、そうかい、俳優は気楽なもんだな、言われた通りのことをやるだけだからな」
俺は頬杖を付いた。
ワダさんはソファの背から身を乗り出す。セミロングの黒髪が輝く。
「分かってないですねえ、ロンさん。あなた、まさか俳優がただのロボットだと思っていませんかね?」
俺は、肩越しにワダさんを見る。
「悪かったよ、言葉がよくなかった」
ワダさんは、よろしいと言って、微笑んだ。俺は二回目のため息を——誰にも聞かれないように——ついた。
この手の打ち合わせはまだ楽が出来た。何故なら大半は、ビオスコープの中で済んだからである。
衣装も小道具も、そして撮影機材も、メンバーが自発的に探し出し、そこに持ち寄った。俺やボーマン、そしてテリーやシュピルマンらで、ありとあらゆる雑多な品々を見ては、丸バツを付けて選別を行っていく。
だが、ビオスコープ内では絶対に出来ないことが、一つだけあった。
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