Chapter12 デイビッド・ボーマン

 ドアを開けた先は、すり減った黒いベルベット地の床と、くたびれて色あせた木目の壁の古風なバーだった。

 中は二、三十人ほどの客が入れる大きさで、事実、立ち飲み客も含めれば、店内は満席のようだった。

 そんなこともあり、客同士の会話は弾んでいて、俺がその店に入ったことに気が付いたのは、入り口付近にたたずんでいた数名の客だけだった。だが、彼らが俺に声を掛けることはなかった。


 俺は、目立たないように頭を低くして、素早く周りを見やった。

 とにかくまずはマスターに会わなくてはいけない。きっとその人物こそが、この地下組織を作った政府上層部とのパイプ役に違いない。ここにいることの居心地の悪さを、一刻も早く解消したくて、俺はそのマスターとやらを探す。


 右手の奥、少し開けたホールの先に、カウンターを見つける。カウンターには、カクテルをシェイクする壮年の男が立っていた。俺は当たりを付ける。彼がマスターに違いない。


 カウンターへ向かう。途中の道を遮る客に怪しまれないよう、俺は何気ない調子で歩を進めた。まるでこれまでもここに通っていたことがあるかのように。

 カウンターに腰かける客と客の間に、俺はすっと入り込んで、マスターを見やる。白髪交じりのオールバック。高い鼻。歳は四十代後半くらいだろうか。

 彼は、俺の視線に気が付き、拭いていたグラスを下に置いた。

「ご注文は?」

 俺は、思案する。

「玄関先で寝ころんでいる彼に、ビールを一つ」

「ああ、チャーリーにね」

「チャーリー?」

「そう。放浪紳士のチャーリー」そして彼はホールの一人に向かって声を掛けた。「おい、シュピルマン、これをチャーリーに」

 呼ばれた男は、カウンター越しにビール瓶を一つ受け取って、玄関に向かった。背が高く色白な男だった。

 それからマスターは俺に向きなった。


「私はここで、デイビッド・ボーマンと呼ばれている」

 2001年宇宙の旅——彼女に勧められ、観たうちの一本。スターゲイトをくぐった男。


「君は?」

「タン・ロンです」

「……カンフー映画か。カンフーが好きなのか?」

「ええ、まあ」

「あの怪鳥音とパンチは、画期的過ぎて笑えるよ」

 マスターは拳法の構えらしきポーズを取る。そして次の瞬間、風切り音と共に、拳を俺の鼻先寸前に繰り出した。俺は思わずのけ反ってしまう。

「ははは、すまない、すまない。いや、ちょっとね」

 何なんだ、一体!

「ついね、やってみたくなっちゃって」

 そう言って、ボーマンは笑った。

 本題に入ろうと、俺はカウンターに身を乗り出す。

「ところで、あなたがここのボスなんでしょう?」ポケットから紹介状を取り出して見せる。

 ボーマンはそれを一瞥する。

「いや、違うよ」

「……違うんですか? あなたが僕をここに呼んだのでは?」

「呼んだ? 何を言っているんだ」

「でも、あなたがここのトップなんでしょう?」

 俺は変な汗をかきそうになる。

「ああ、そういう意味か。いや、私は……そうだな、ナンバー2と言ったところだ」

「ナンバー2……」

 それじゃあ、意味がない。トップでないのであれば、今目の前にいるこの目鼻立ちの整った男は、真に映画が好きで、ここにいることを自ら選択した、犯罪予備軍の一人だった。俺のこともきっとそういう風に見ているのだろう。勘弁してくれ——俺は、声を絞り出す。

「じゃあ、ボスはどこにいるんですか? 僕はボスに挨拶をしたいんですが……」

「大丈夫だ。君のことはボスから聞いているよ」

 それだけ言うと、ボーマンは俺にニッコリと笑いかけた。そしてシェイカーを手に取って、酒を作り始める。氷の砕ける音が聞こえる。

 意味が分からない。このままじゃ埒が明かない。俺は、それでも食い下がる。

「いや、でも、僕はボスにですね……」

 声に僅かな苛立ちが混じる。

「ボスはいない。ここにはね」

「いない?」

「ああ、彼はほとんどここには来ない」

「来ない?」

「そうだ。彼が最後に来たのだって、一、二カ月は前じゃないのかな」

「ちょ、ちょっと待ってください。彼はここには来ないんですか?」

 俺は頭を抱えそうになる。事実、足下がふらついている。

「まあ、良いじゃないか。何も問題はないよ。君はここに招待され、無事に門を潜り抜けて、私たちの仲間に加わった。今日は映画好きが、二人も増えたわけだ。実にセレブレーションな日と言っていいじゃないか」

 俺は何も言えない。一刻も早く家に帰って、上層部と連絡を取りたかった。

「マティーニだよ、007の」

 彼は俺の前に一杯の酒を出して、嬉しそうに笑う。

 あんな出会ってすぐにセックスするようなスパイが、どこの国にいるっていうんだ。俺はそう叫びたいのを我慢して、一気に飲み干した。

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