Chapter13 雨に唄えば

 その後は、流されるがままだった。


 俺は、彼に案内されて、ホールの端に設けられた小さな舞台に立たされた。隣には、今日この地下組織に入った少年が一人。彼がここでの俺の同期ってわけだ。彼は緊張でガチガチに固まっていた。


 正面を向けば、集まったメンバーたちが俺たちを好奇の目で見つめている。俺は仕方なく、さわやかな笑顔を作って、自分に言い聞かせる。どんなに不愉快でも、この場所では、絶対に信頼を得なくてはならない。目的を達成出来たら、こんな奴らとは綺麗さっぱりお別れだ。


 マスターがマイクを持って、俺たち二人に自己紹介を促す。まずは隣の少年からだった。


「は、初めまして……」声が震えている。「僕は、その『第三の男』が好きなので、ホリーって言います。ホリー・マーチンです。映画は主に洋画を見ています。学校でもあんまり映画の話は出来なくて……あ、映画って言ってもアキラ以前の映画ですけど……好きな映画は『第三の男』以外には、ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』や『アパートの鍵貸します』なんかも——」


 当たり障りのない彼の自己紹介を聞きながら、俺は自分の説明をぼんやりと考える。まあ、どうにかなるだろう。酔いのせいか、安寧な気持ちで聴衆を見渡していると、俺は、自分に小さく手を振る女性がいることに気が付いた。

 一瞬目を疑ったが、それは見間違いではなかった。血の気が一気に引き、酔いが冷める。

 隣の少年からマイクをぎこちなく受け取り、ここでの名前、タン・ロンを口にして、拙い自己紹介をそこそこに切り上げた。ここでの俺のデビューは、完全に失敗だった。

 それもこれも、今目の前で、ニコニコしている彼女のせいだった。

 オーディエンスが拍手をして一区切りになったところで、俺は急いで舞台を駆け下りた。

 聴衆の一人、ワダ・コマドリに声を掛け、ホール脇、皆から見えないところに引っ張った。


「イチカワさん! まさかこんなところで会えるとは思いませんでした」

 彼女は大きな声で、飛び跳ねるように言った。

「声が大きい」

「あ、すみません」

「何してるんだ、こんなところで」

「何って……イチカワさんと同じですよ」

「同じ?」

「映画が好きで、ここまでたどり着いた。ただそれだけでしょう。いやー、でも嬉しいです。イチカワさんが映画にはまってくれて」


 信じられない。彼女は本当に、俺が映画を好いてここに来たと思っているのか? だが、俺はそれに乗っかることにする。他にこの場を打開する方法は思いつかない。

「そうなんだよ。君に勧めてもらった映画がよかったんだ。あの時はありがとうね」

「いえいえー。でも信じられません。同じ情報省勤めで、ここで知り合いが出来るとは!」

 いや、それでも彼女の笑顔が疑わしい。本当は俺の素性を分かっているのではないか? 俺は返答に詰まる。彼女の顔色をうかがう。

「仕事なんか関係ないさ」そして、余計な一言を言ってしまう。「それに今の仕事もそろそろ辞めようかと考えていてね」

「えー! そうなんですか」

 頼む。何の疑問も抱かずに、俺を信用してくれ。彼女が声を弾ませて言った。

「いいじゃないですか、イチカワさん! 私、応援します!」

 彼女の満面の笑みを見て、俺は心の中で安堵のため息を漏らす。そして頭をフル回転させる。俺が作った偽りの身分もこれでおじゃんだ。どう辻褄を合わせるか。

「ありがとう。あとさ、頼むから、ここではイチカワさんて呼ぶのはやめてくれよ」

「ああ、すみません。ここでは、ロン・タン? でしたっけ? 中国映画?」

「『ドラゴンへの道』だよ。あと、タン・ロンね」

「ああ、アレですか。面白かったですか?」

 彼女はもうすでに俺には何の疑問も抱いていないようだった。ましてや、この地下組織を騙して利用するだなんて、微塵も思い至らないだろう。俺は、若干の平静を取り戻す。

「ああ、面白かったよ」

 彼女は両手を合わせて喜んだ。俺は彼女がまた大声を出す前に遮った。

「でもさ、ワダさん。ここではあんまり一緒にいない方がいいんじゃないか?」

「どうして?」

「だってここは秘密の会合だろう? 俺や君は身分が身分だ。バレたらさすがにマズいんじゃないか?」

「ええ、まあ……でも、せっかく知り合いの方が入ってくれたんですし、全く話さないってのも、つまらなくないですか?」

 俺の渋い顔を見ても、彼女は遠慮なく続ける。

「どうせなら私がここのメンバーを紹介しますよ。その方が早く打ち解けられるでしょう?」

 確かに、と俺は思った。彼女に上手く取り入ってもらえれば、ここでの信頼関係構築は容易になるだろう。

「それもそうだ。ここで再会したのも何かの縁かもな」

彼女の顔がぱっと明るくなる。

「そしたら、他のメンバーに俺の紹介をしてもらおうかな」

「ええ、是非」

 彼女は俺の腕を取って、ホールの先のメンバーたちのところへと連れていく。

「ああ、そうだ。いいかい、ここでは身分を偽っているんだろう? 俺らはたまたま知り合いってことで、仕事のこととかは絶対に口外しないでくれよ」

「ええ、もちろん」

「二人でいるときもだよ?」

「大丈夫ですって」

「あと、君のここでの名前は?」

 彼女は振り返って答えた。


「キャシー。『雨に唄えば』のキャシーです」

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