Chapter11 ビオスコープ
審議会が用意してくれた地下組織への紹介状には、そのアジトの名前とアクセスが書かれてあった。
——ビオスコープ
それが地下組織のある店の名前だった。ミナトミライ跡地と移民街の境に位置する、飲み屋通りの端の端に、それはあった。
夜の六時を過ぎたころ、俺はリイに待機の指示を出して、借りたばかりのマンションを出ていった。
前回の大水害により開発がとん挫している大規模な空き地——ミナトミライ。
その跡地を囲む鉄のフェンスに沿って、俺は進んでいく。大通りを挟んだ向かいには、大洪水の後に建てられたボロい木造の
後ろを振り返れば、そんな喧騒とは縁遠い、煌々と輝く塔が建っていた。
ヨコハマの抱く世界への扉——白の塔だった。再開発が遅れ、安易な外貨獲得策として制定された賭博特区、その象徴である。天に聳える細長い三角錐の塔は、あらゆる方向に光の帯を投げかけ、その周りに併設された種々の娯楽施設、カジノ、温泉、ショッピングモールなどを明るく照らしていた。
だが、その光も今俺がいるこの辺りには届かない。俺のステータスであっても、あの特区には入れない。選別された外国人旅行客と、本当に一部の国民しか入れないからだ。歩を進めながら、俺は、段々と暗い気持ちになってきた。
移民街の喧騒が徐々に落ち着きを見せ始め、緑の街灯がその数を減らし、辺りが暗闇に包まれる。
そしてその時突然に、俺は丁字路にぶち当たり、目の前に半地下のバーを見つける。
そこが、目的の場所だった。
俺は一旦距離を取り、辺りの様子を伺った。
店の上に掲げられた看板には、ビオスコープの文字。道路脇に設置された立て看板も同様である。
だが、立て看板の電源は付いていない。やっていないのであろうか?
しかし紹介状によれば、毎週火曜日のこの時間に、地下組織の集まりがあると言う。
息を吐いて、意を決する。
道路を渡り、店に向かう。地下へと続く階段に足を掛ける。下り切った先に、酔っぱらいが一人、座り込んでいた。
俺は気にしない。
ここまで来れば、もう破れかぶれだ。
前進あるのみ。
だが、その酔っぱらいはドアにもたれかかっており、店に入れないことに気が付く。
「おじさん」
俺は、下まで降りて屈みこみ、酔っぱらいの顔をのぞき込んだ。シミだらけの真っ赤な顔が、小さな寝息を立てていた。
俺はチラリとドアを見やる。
戸の下から漏れ出る光で、その店が開いていることを察する。
酔っぱらいの肩に手をかけて言った。
「おじさん、起きてくださいよ。店に入れないんですよ」
酔っぱらいは、目を薄く開いて俺を見た。それから小さく唸るように
「名前は? あんたの名前を言え」
と、俺に尋ねた。俺は用意した偽名を答えた。だが、老人は、片目だけを大きく見開いて、ニヤニヤと笑った。
「違う。そんな名前を聞いてるんじゃあない」
俺は一瞬、正体がバレているのではないかと緊張した。だが、この酔っぱらいにそれほどの頭が残っているようには思えない。
「紹介状はあるんですが」
俺は、落ち着いた調子でそう言って、胸ポケットから紙片を取り出して見せた。
老人は、首を振った。
「お前さん、バカだねえ。ここに入りたいのなら、それ相応の名前を用意しなくちゃいけねえよ」
そして、ふと思い至った。あまりにバカバカしいが、そういった遊びがあってもおかしくない。俺は、ここで名乗るであろう名前を言ってみた。
「ブルース・リーです」とっさに出た名前がこれだった。
恐らくこの地下組織では、メンバーが互いを偽名で呼び合っているのだろう。
俺の答えを聞き、酔っぱらいは俺を見返した。しばらくの間ののち、彼はしわがれた声を上げた。
「ダメだ。ブルース・リーは違う。役名じゃない」
間違えた。役名か。
だが、とっさのことで名前が出てこない。
俺は記憶をクソほどにひっくり返して思い出そうとする。しかし、ダメだ。全く出てこない。
俺のしかめ面を見かねたのか、酔っぱらいは助け船を出してくれた。
「どの作品だ? 『燃えよドラゴン』なら、そのままリーが役名だ。ブルースはつかない」
「違います。『ドラゴンへの道』です」
「何だ、お前さん、『ドラゴンへの道』の方が好きなのか」
「ええ、まあ……」
「どうしてだ? 『燃えよドラゴン』の方が有名じゃないか」
「……いや、何でしょう。主人公が、段々暴力に飲まれていく感じが……寡黙になっていく感じが、そうですね、嫌いじゃないんです」
何を答えているんだろう。映画なんか、役名なんか、何だってよかったはずなのに。この酔っぱらいの質問に、俺は付き合ってしまっている。
「そうか。確かにそうだよな。あの映画は、最後のコロッセオで主人公が完成するのが面白いんだよな」
彼はしわくちゃの顔で、俺に笑ってみせた。かつて観た映画を思い返して、噛みしめているようだった。
「じゃあ、あんたの名前はタン・ロンだ」
俺は頷く。
「あとは紹介状だ」
と、彼は俺に手を差し出す。俺は思い出したように、手に持っていた紹介状を彼に渡した。目をすがめて、しばらく見たのちに、彼は寄りかかっていたドアから体を少し動かした。
「入っていい。まずはマスターに挨拶をしろ」
彼は俺に紹介状を返す。
「ありがとうございます」
「あと、追加のビールを頼んでおいてくれ」
俺は軽く会釈をして、ドアを開いた。彼は、この地下組織に入る者を審査する門番の役割をしていたのだろう。一つの関門を今、俺は潜り抜けたわけだ。気の好い酔っぱらいで助かった。
だが、息をつく暇はなかった。
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