芽
昇降口に戻ると、ちょうど八雲が外に出ようとしていた。
「ずぶ濡れじゃねえか! どこ行ってたんだよ?」
八雲の問いに青が答えるより早く、純白のタオルが横から差し出された。「お使いくださいませ、我が君」と伊瀬見千智が言う。
とたんに八雲は顔を顰めた。青は思わずタオルをを受け取り、「あ、ありがとうございます……?」と言い、髪を拭き、八雲に耳打ちする。
「千智さん、でしたよね?」
「ああ。オレ一人じゃ、ちょっと心配だから、飯を奢るって雇ったんだよ。用心棒として。オレたちには散歩の付き添いみてえな仕事がくることも多いし、千智はそっちに関しては有名だからな。……けど、交渉が成立したとたんスイッチが入っておえええ」
言い終える前に吐きそうになる八雲だが、三人で尾行する意志は固そうだ。
「ともかく。話し合いに時間かかって遅くなったことは謝るけど、青はどこ行ってたんだ?」
「ひ、ヒト助け、です! あの、初めて、ぼく一人でもできたかもしれないです!」
瞳をきらきらさせる青を、八雲はそれ以上咎めることができず、代わりに言う。
「小雨ならまだしもこの雨じゃ、二人で傘に入ったらどっちも濡れるぜ。うーん、青に傘をやってオレは風で雨を飛ばせばいいか……? いや、加減を間違えたらまずいし目立つよな……」
考えをめぐらす八雲の言葉に、千智が滑り込む。
「差し支えなければ、私の予備の傘をお貸しいたしますよ」
「いいの? つーかなんで持ってんだ? おえ」
「用心するのが私の役目でありますから」
「まさか、それ言うためにいつも用意が良いのかようええ」
「八雲、大丈夫ですか……?」
さすがに青が声をかけると、八雲は「いや」とうなだれる。
切り替えの早い八雲にとっては、千智のことはかなり引きずっていた方だった。しかし、良祐の後をつけているうちにそれは薄らいだようで、良祐を尾行することには難なく成功する。
結果、率川良祐は商店街の中を通り、稲置家の経営する役所の前、駄菓子屋の前を通過し、最後は道なりに歩いて帰宅していた。――つまるところ、不審な点は何もない。
「は? 本当に何かあんの? あの人」
八雲が声を尖らせる。青もいよいよ押し黙る。千智だけが思考を続けていた。
そして、数十秒後、千智は高鳴る気持ちを抑えて二人を見つめて開口する。
「不遜ながら申し上げますと、率川校からずっと直進した場合でも、ここにたどり着きますよ。あの方は、曲がる必要のない角を曲がっています」
そう言われ、青と八雲は脳内に地図を浮かべる。
ただし、町には碁盤の目のように道路が走っているので、どのように歩いても基本的には目的地に着く。だが、商店街のある通りの突き当たりに率川良祐の自宅はあった。つまり、その道の中に、良祐があえて避けた場所があるのだ。
「通らなかったのは、本屋と、八百屋の前……か?」
「ええ」
八雲はすでに半歩踏み出していた。
「良し! 千智お前、よく気付いたな!」
「伊達に貴殿より長く御仕事していませんから」
「てめー、化けの皮剥がれかけてんぞ」
「おやまあ」
軽口を叩き合った八雲は青の方を振り返り、それからもう一度千智を見て開口する。
「頼むぞ。青の体が冷える前に終わらせる」
その言葉に千智も今一度身を引き締めた。
「御意のとおり」
八雲から微かに感じた怒りの感情に、青は内心首を捻る。それでも、千智とともに八雲の後に続いた。
*
茶色の建物の上に、鉛色の空が広がっている。
「つっても……、手がかりが転がってるわけじゃねえし」
気が付いて八雲は再び落胆したが、一拍置いて青が声を上げる。
「ほ……本屋、です! 初めて会った日、あの子どもたちはそこの本を盗んでくるように無邪気に言っていたのを、覚えていますか? もしかしたら」
あの時、少年らに悪びれる様子がなかったのは、それが悪行だと知らなかったからかもしれない。思い出した。あの状況、感情は、梅組の生徒のそれとよく似ていると。
平気で盗みを働く少年、授業中に平然と席を立ち教室を去る生徒。――そのどちらもを、監督不行き届きの大人が作り上げたとするならば。
「そこの店員さんも、先生と同じ状況なのかもしれないです」
――もっと周りを見ていたら、これほど時間をかけなくて済んだのに。
青は後悔を押し込め、本屋の入り口をくぐる。肌に当たる感情は、やはり良祐のそれと似ていた。おそらく罪悪感。
店先の本棚はそこそこ手入れがされていたが、奥に進むにつれ、埃を被った本が並ぶ。
茶色い本棚、木の壁、カーテンのない窓。カウンターの向こうにある電球の下に人影が見えた。外部からの刺激の一切を遮断するように本を見つめている。近づくと、銀縁眼鏡の男性と見てとれた。
表情を窺うよりも肌心地を吟味する。八雲の背から顔だけ出して、「あの……!」と強めに呼びかけた。
「い、率川良祐さんを、ご存じですか……!」
千智はそれを横目に店内を探り始める。眼鏡の青年は書物から顔を上げた。
良祐の名前に反応したのは明白で、すぐさま詰め寄ろうとする八雲を青が制止する。足はすくんだが、八雲の陰から出て背筋を伸ばす。
「えと、と……突然すみません、良祐さんは……ぼくの担任の先生です。その、えっと、良祐さんの感情が罪悪感に埋められている理由が知りたくて。た、助けたくて……ここに来ました」
青は再び息を吸う。
「ぼくはヒトの感情がわかる、ので、あなたも、何か悔やまれていることがあるとわかっています。あなたの力になれるかはわからない、ですが、できることは何でもします。ですからどうか、代わりに、知っていることを教えてくださいませんか……!」
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