第20話 あらすじ〈千百余年編〉
『ドグラ・マグラ』のあらすじを別角度から眺めると、前段のあらすじ〈23時間編〉で触れた「千百余年前から
奈良時代……玄宗皇帝、楊貴妃、呉青秀、芳黛、芳芬、
江戸時代……
明治時代……呉千世子、呉八代子、正木敬之、若林鏡太郎、斎藤寿八。
大正時代……呉一郎、呉モヨ子、呉千世子、呉八代子、正木敬之、若林鏡太郎、斎藤寿八。
次に、この千百余年の物語としてのドグラ・マグラのあらすじを、ややミステリーの種明かしも含めながら各時代別に述べてみる。
◆奈良時代……中国では唐代。盛唐末期、忠君愛国の志をもつ宮廷画家・呉青秀は、楊貴妃を溺愛して
やがて村人に画房を焼かれた呉青秀は都の邸宅へ逃げ帰って自殺をはかるが、間一髪、義兄に恋焦がれていた黛の
その後、白痴となった義兄の手を引いて方々を流浪する芳芬。二人は舟に乗って長江を下る。海に浮かび嵐に遭い漂流するも、日本に向かう
その地で芳芬は勝空と名乗る旅の僧と出会い、求められて死せる姉の裸像を呉青秀が絵筆に留めた絵巻物を見せる。経典に親しみ心理遺伝の理屈を悟り得ていた勝空は呉家の裏庭の
二年後、呉家の本尊となった仏像から取り出した絵巻物の余白に、それまでの経緯を由来記として漢文で浄書する芳芬。
◆江戸時代……慶安(1648~52年)の頃、京都の茶舗
八景を選んで
かかる折から、唐津藩家老の
虹汀は国老雲井家の報復を逃れるために唐津を離れることを決意、六美女の手を引いて逃避行に。明け方、二三十人の
◆明治時代……日露戦争開戦前夜、千葉県出身の正木敬之と若林鏡太郎は福岡に新設された帝国大学に入学する。正木は精神病学、若林は法医学とその進路は違ったが、共に精神科学方面の研究に興味を示し、迷信や暗示に関する研究の権威である斎藤寿八博士の
この呪いの遺伝の存在を知った二人は、胸中に恐るべき計画を
呉家には妙齢の娘が二人いたが、姉の
出産後の気の緩みを
12月12日の帝国大学の第一回卒業式は首席卒業者であった正木不在のままにお開きとなり、さきに
千世子は戻ってこない正木を探すために、赤ん坊を抱いて上京、息子の出生届を「明治40年11月20日、東京府駒沢村にて誕生。父不詳――呉一郎」と、日付と場所を偽って提出する。その後、千世子は、駒沢→金杉→小梅→三本木→麻布
◆大正時代……大正4年。千世子は学齢に達した一郎を連れて東京を離れ、福岡県
この頃、正木は米国を経由して欧州各地を巡遊、墺・独・仏の名誉ある学位を取得していた。
大正6年、若林が英国から帰国するとの情報を察知した正木は、十年間の欧米滞在を切り上げて帰朝。九大法医学部教授に昇進した若林の動静を手掛かりに、呉親子の隠れ家を突き止めた。正木は直方小学校で美しい顔に
良心と研究欲の
読者にミステリーとしての『ドグラ・マグラ』の謎解きの楽しみを残しておくために、以下にはその後の主な事件の日時や場所などを挙げるに
美人後
死亡・呉千世子。死因・絞死。春休みで帰省中の福岡高等学校生徒・呉一郎による夢中遊行状態での絞殺か、または怪魔人による絞殺。状況として、殺害後に
斎藤教授変死事件 大正14年10月19日未明。九州帝大裏、
死亡・斎藤寿八。死因・溺死。状況として、泥酔による転落事故死か、または怪魔人による殺人の可能性。
姪浜花嫁殺し事件 大正15年4月26日2時過ぎ。姪浜、呉家、三番
死亡(?)・呉モヨ子。死因(?)・絞首。同日夜明け頃に、呉八代子頭部致傷。被疑者は共に呉一郎。
蘇生・呉モヨ子。施術者・黒怪人物。仮死状態からの蘇生、および屍体すり替えの偽装工作(?)。
正木・若林両博士の会談 大正15年5月2日15時頃。九州帝大、精神病学教室本館、標本室。
会談者・正木敬之、若林鏡太郎。内容は呉一郎の精神鑑定依頼。
正木博士による呉一郎の精神鑑定 大正15年5月3日9時。福岡地方裁判所応接室。
被鑑定者・呉一郎。鑑定人・正木敬之。立会人・若林鏡太郎、大塚警部、鈴木予審判事、二人の
解放
実験者・正木敬之。被験者・呉一郎。他に7人の狂人たち。
解放治療場2ヶ月目の呉一郎 大正15年9月10日。九州帝大、精神病学教室所管、解放治療場。
実験者・正木敬之。被験者・呉一郎。他に9人の狂人たち。
解放治療場の惨劇 大正15年10月19日正午。九州帝大、精神病学教室所管、解放治療場。
死亡・
若林教授による六号室への少女移送 大正15 年10月19日21時前後の一時間。九州帝大、精神病学教室所管、解放治療場、附属病院「
正木博士投身自殺 大正15年10月20日15時頃。九州帝大裏、筥崎水族館裏手海岸、馬出浜。
死亡・正木敬之。死因・溺死。状況として、鉄製の狂人用
姪浜の大火、如月寺延焼 大正15年10月20日18時頃。姪浜、呉家および如月寺。
死亡・呉八代子。死因・焼死。状況として、錯乱興奮後に自宅放火。延焼した菩提寺の猛火に飛び込み焼死の可能性。
注解
(9)ドグラ・マグラの作中には、呉一郎の母・千世子が16歳(満年齢)当時に通っていた裁縫学校として「
現在の福岡市博多区
もともと博多の大浜にあった柳町は、九州では長崎の丸山や熊本の
(参考文献・リベラシオン№157 公益社団法人福岡県人権研究所)
これは筆者の推測であるが、夢野久作はこの「翠糸学校」の名から呉千世子が通う裁縫学校を「翠糸女塾」と名付けたのではないだろうかと思う。塾主の松村マツ子女史の名は、身売りした時の借金(減らない借金)のカタに取られて楼主の暴力と監視のもと〝着飾った娼妓が
ちなみに、ドグラ・マグラの作中で「翠糸女塾」の所在地とされた水茶屋の地(現・福岡市博多区
余談ではあるが、水茶屋にあった最上級の料亭旅館の「
(10)千世子が一郎を産んだ松園は、博多の聖福寺とは御笠川を挟んで対岸の位置にあり、現在の県立福岡高校の付近。将来「呉一郎生誕の地」の電柱看板を設置するときには、福岡高校近辺が望ましい。福岡高校の前身は、旧制・福岡中学で、久作の長男・杉山龍丸の母校でもあった。なお、ここでいう電柱看板とは、その地にゆかりのある人物や史実などを案内する〝電柱歴史案内〟のこと。創業百年を超える博多の老舗
(11)九州帝国大学医学部の第一回卒業式典は明治40年12月12日に挙行されている(出典:『九州大学医学部五十年史』、1953年、九州大学医学部五十周年記念会刊)。
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