第20話 あらすじ〈千百余年編〉

『ドグラ・マグラ』のあらすじを別角度から眺めると、前段のあらすじ〈23時間編〉で触れた「千百余年前から呉家くれけに降りかかる呪いの歴史」として捉えることができる。この絵巻物にまつわる呉家の歴史は、生前の正木博士の証言とその遺稿類を手掛かりに、四つの時代に分けて理解することができる。以下、各時代別の主要登場人物名を挙げる

 奈良時代……玄宗皇帝、楊貴妃、呉青秀、芳黛、芳芬、呉忠雄ごちゅうゆう勝空しょうくう

 江戸時代……くれ六美女むつみじょ美登利屋みどりや坪太郎つぼたろう雲井くもい喜三郎きさぶろう

 明治時代……呉千世子、呉八代子、正木敬之、若林鏡太郎、斎藤寿八。

 大正時代……呉一郎、呉モヨ子、呉千世子、呉八代子、正木敬之、若林鏡太郎、斎藤寿八。

 次に、この千百余年の物語としてのドグラ・マグラのあらすじを、ややミステリーの種明かしも含めながら各時代別に述べてみる。


◆奈良時代……中国では唐代。盛唐末期、忠君愛国の志をもつ宮廷画家・呉青秀は、楊貴妃を溺愛してまつりごとを顧みない玄宗皇帝の迷夢を自らの彩筆をもっますべく、元宮廷女官の新妻にいづまあやめてそのしかばねの腐敗過程を描いて絵巻物にして献上することを決意する。夫から崇高な志を打ち明けられて感激する芳黛。彼女の快諾かいだくのもと山中の画房アトリエで妻を絞殺すると、呉青秀は死美人の腐敗画像を第六図まで描いたところで筆を止める。「美の滅亡」を眺めて写生するうちに変態性欲のとりことなった呉青秀は、新たなモデルを求めてくわで女人を殺めたり、新墓にいばかあばいたりする殺人鬼へと変貌していた。

 やがて村人に画房を焼かれた呉青秀は都の邸宅へ逃げ帰って自殺をはかるが、間一髪、義兄に恋焦がれていた黛の双生児ふたごの妹・芳芬に命を救われる。芬から安禄山の謀反を聞いた呉青秀は、皇帝と楊貴妃の死に忠義の宛てを失い自我崩壊状態となる。

 その後、白痴となった義兄の手を引いて方々を流浪する芳芬。二人は舟に乗って長江を下る。海に浮かび嵐に遭い漂流するも、日本に向かう渤海使ぼっかいしの船に救われる。呉青秀は洋上に消え、その忘れ形見の呉忠雄ごちゅうゆうを船上で産んだ芳芬は日本に運ばれて、唐津の地で土地の豪族、松浦氏に託される。

 その地で芳芬は勝空と名乗る旅の僧と出会い、求められて死せる姉の裸像を呉青秀が絵筆に留めた絵巻物を見せる。経典に親しみ心理遺伝の理屈を悟り得ていた勝空は呉家の裏庭の栴檀樹せんだんじゅの大木を伐り倒して赤肉せきにく弥勒菩薩みろくぼさつ座像を刻み、その胎内に絵巻物を封じる。そして「向後こうご仏壇の奉仕と巻物の披見ひけんは呉家の女人のみを以てし、その他の男は一切いっさい見るべからず」と固く禁制し去っていった。

 二年後、呉家の本尊となった仏像から取り出した絵巻物の余白に、それまでの経緯を由来記として漢文で浄書する芳芬。呉家くれけ初代となった息子の呉忠雄は「壮年に及びて子宝幾人いくにんを設けし後、又も妻女の早世にふとひとしく乱心つかまつりて相果てそうろう」と、江戸期の呉家の口伝にはあるのだった。


◆江戸時代……慶安(1648~52年)の頃、京都の茶舗美登利屋みどりやの主人・坪右衛門つぼえもんは男子を授かり、坪太郎つぼたろうと名付けて隠元いんげん禅師のもとで学問の研鑽けんさんを積ませていた。坪太郎は長じて柳生やぎゅうの剣術を修めると、俳諧から大和絵までをたしなむ文武両道の青年へと成長した。そして名を空坪くうへいと号して家を捨て、名勝旧跡を探り歩く遊行ゆぎょうの旅に出る。翌年、肥前唐津に到った空坪は、にじ松原まつばらの景勝に感じ入って名を虹汀こうていと改める。

 八景を選んで筆紙ひっしべ、とどまること半年あまり。晩秋の満月の夜のこと、月影に誘われて浜辺を散策していた虹汀は、華やかなそでひるがえし身投げする気配の美しい乙女を救った。彼女の名は呉六美女。聞けば、祖先より伝わる絵巻物が家中にあり、それを盗み見た呉家の男子は代々発狂し、若い女人を殺めては自殺するのだという。この噂がスッカリ近隣に広がり、富農にもかかわらず呉家には嫁婿よめむこの来手がまれで、その血筋も六美女一人を残すばかりとなっていた。

 かかる折から、唐津藩家老の妾腹めかけばら・雲井喜三郎との縁談話が呉家にもたらされる。この喜三郎、剣術の腕前こそ藩内随一であったが、乱暴らんぼう狼藉三昧ろうぜきざんまいの鼻摘まみ者で、今回の婿入り話も実は財産目当てのものであった。その喜三郎が今夕、前触れもなく呉家に現れると奥座敷の酒席で六美女に絡み、制する乳母め のとを抜く手も見せずに斬り捨てた。すきを見てようやくここまで逃げて来たが、我が身の不倖ふしあわせを想い、入水じゅすい自殺を図ろうとしたのだと涙する。直後、跡を追ってきた喜三郎の襲撃をかわした虹汀は、六美女を呉家に連れ帰る。乳母の亡骸なきがらとむらい、仏間に一人で入り三昧ざんまいすること十日余り、虹汀は弥勒座像の胎中から取り出した絵巻物は法力によって呪いをはらい焼き棄てたと家人に告げる。そして、自身は還俗げんぞくして六美女の婿となる。

 虹汀は国老雲井家の報復を逃れるために唐津を離れることを決意、六美女の手を引いて逃避行に。明け方、二三十人の捕吏とりてを引き連れて喜三郎が追い付くが、雪中の決闘を制して虹汀は悠々と筑前黒田領に入り、姪浜めいのはまの地を永住の地と定める。そこで田畑を買い求め、呉家の菩提寺・青黛山せいたいざん如月寺にょげつじを建立した虹汀はみずから住職となり、法名を一行いちぎょうと称し、如月寺の縁起書を記すのだった。


◆明治時代……日露戦争開戦前夜、千葉県出身の正木敬之と若林鏡太郎は福岡に新設された帝国大学に入学する。正木は精神病学、若林は法医学とその進路は違ったが、共に精神科学方面の研究に興味を示し、迷信や暗示に関する研究の権威である斎藤寿八博士の薫陶くんとうを受けていた。その二人に姪浜の豪農にまつわる呪いの噂が届く。その呉家の男子は先祖伝来の絵巻物を見ると代々発狂し、女人を殺めた後に決まって自殺を図るのだという。

 この呪いの遺伝の存在を知った二人は、胸中に恐るべき計画をいだく。即ち、呉家の娘に自分のたねで男児を産ませ、その子の成長を待って絵巻物を見せれば呪いの遺伝に関する人体実験ができるという計画である。以後、一致協力して呪いの調査を始めた二人は如月寺の和尚おしょうに巧みに取り入り、若林が寺の縁起書を盗み写している間に、正木は御本尊の弥勒座像の首を引き抜いてみるといった調子で、江戸期に虹汀が焼き棄てた事になっていた絵巻物が実は燃やされずに、ツイこの間まで御本尊の胎中に隠されていたという痕跡をつかむ。探りを入れると、どうやら姉妹の妹の方が絵巻物を見つけて隠し持っているらしいところまでは分かったが、二人の連携はそこまでで、以後は絵巻物と呉家の娘の争奪戦が開始される。

 呉家には妙齢の娘が二人いたが、姉の八代子やよこは既婚者であったために、狙いは絵巻物の所有者でもあるらしい妹のちよこに絞られた。その頃、千世子は女学校を卒業し、自由恋愛に憧れながら虹野にじのミギワの変名で翠糸すいし(9)という裁縫学校に通っていた。二人の帝大生から突然、アプローチを受けた千世子は最初、若林と交際し同棲するが、正木の罠により若林のもとを去ると入れ替わりに正木との同棲生活に入る。その端境はざかいに身籠った千世子は十月十日後の明治40年11 月22日に御笠みかさ川のほとり松園まつぞのの隠れ(10)で玉のような男児を出産する。千世子は絵巻物の巻末の余白に正木に宛てた和歌を記すと、同年11月26日から12月9日までの間に再び元の如月寺の弥勒座像の胎内に戻す。

 出産後の気の緩みをいて千世子から絵巻物の隠し場所をき出せたと確信した正木は、卒業(11)の二日前にひそかに絵巻物を盗み出すことに成功する。そして故郷の財産整理と母子の入籍手続きでいったん帰省するといって千世子を納得させると、その日のうちに母校の卒業式をスッポカシて上京。そのまま故郷へは帰らずに東京へ転籍の手続きをして全速力で海外へと飛び出した。

 12月12日の帝国大学の第一回卒業式は首席卒業者であった正木不在のままにお開きとなり、さきに侃侃諤諤かんかんがくがくの教授会議の末に卒業論文中第一位と決していた正木の「胎児の夢」毛筆原稿と、明治天皇より下賜かしされた「恩賜おんしの銀時計」が大学側には残された。翌日、正木より盛山学部長に書信が届く。そこには「胎児の夢を理解できる者が自分以外にいるとは、研究が未熟で合わす顔がない。次はキット、何人なんぴとにも理解されない大研究を成し遂げるつもりなので、当分のあいだ恩賜の時計は大学側で保管願いたい」旨がしたためられていた。

 千世子は戻ってこない正木を探すために、赤ん坊を抱いて上京、息子の出生届を「明治40年11月20日、東京府駒沢村にて誕生。父不詳――呉一郎」と、日付と場所を偽って提出する。その後、千世子は、駒沢→金杉→小梅→三本木→麻布笄町こうがいちょうといった順で転居を繰り返すが、これは親子の消息を追う不気味な視線を感じてのものだった。一方、姪浜では明治43年正月すぎに八代子が夫の源吉げんきちと離別し、それから日をあけず娘のモヨ子を出産していた。このモヨ子と一郎が出会うのは、それから14年後の大正13年4月3日のことである。


◆大正時代……大正4年。千世子は学齢に達した一郎を連れて東京を離れ、福岡県直方のおがた町へと転居、住居兼私塾「つくし女塾」で新生活を始める。それを陰から見届けた若林は同年、英国留学へ。

 この頃、正木は米国を経由して欧州各地を巡遊、墺・独・仏の名誉ある学位を取得していた。

 大正6年、若林が英国から帰国するとの情報を察知した正木は、十年間の欧米滞在を切り上げて帰朝。九大法医学部教授に昇進した若林の動静を手掛かりに、呉親子の隠れ家を突き止めた。正木は直方小学校で美しい顔にんだ瞳の一郎と対面するも、純真無垢な少年の姿を前に学術実験の十字架に架ける決心が揺らぐ。

 良心と研究欲のからみ合いの煩悶はんもんから、正木は自ら作歌した「キチガイ地獄外道祭文」をうたって日本各地を廻る放浪生活へ。しかし、個人としての良心は学術の研究欲に負ける。正木は「狂人の暗黒時代」と、その内に蔓延まんえんする「キチガイ地獄」を自らの学説の力で打ち破るべく、何もかも打ち忘れて盲進する当初の意気組いきぐみを回復する。そうして、冷静なる残忍さをもって一郎の年齢を指折り数え得るようになるのだった。


 読者にミステリーとしての『ドグラ・マグラ』の謎解きの楽しみを残しておくために、以下にはその後のの日時や場所などを挙げるにとどめる。



 家殺ごけ 大正13年3月26日2時頃。直方、つくし女塾。

死亡・呉千世子。死因・絞死。春休みで帰省中の福岡高等学校生徒・呉一郎による夢中遊行状態での絞殺か、または怪魔人による絞殺。状況として、殺害後にと見せかけるための偽装工作が認められる。


  大正14年10月19日未明。九州帝大裏、筥崎はこざき水族館裏手海岸、馬出浜まいだし

死亡・斎藤寿八。死因・溺死。状況として、泥酔による転落事故死か、または怪魔人による殺人の可能性。


  大正15年4月26日2時過ぎ。姪浜、呉家、三番土蔵ぐら二階。

死亡(?)・呉モヨ子。死因(?)・絞首。同日夜明け頃に、呉八代子頭部致傷。被疑者は共に呉一郎。


 屍体したい奇怪事きっかいじ 大正15年4月26日23時過ぎ。九州帝大、法医学教室、屍体解剖室。

蘇生・呉モヨ子。施術者・黒怪人物。仮死状態からの蘇生、および屍体すり替えの偽装工作(?)。


  大正15年5月2日15時頃。九州帝大、精神病学教室本館、標本室。

会談者・正木敬之、若林鏡太郎。内容は呉一郎の精神鑑定依頼。


  大正15年5月3日9時。福岡地方裁判所応接室。

被鑑定者・呉一郎。鑑定人・正木敬之。立会人・若林鏡太郎、大塚警部、鈴木予審判事、二人の廷丁ていてい


 治療場ちりょうじょう 大正15年7月7日。九州帝大、精神病学教室所管、解放治療場。

実験者・正木敬之。被験者・呉一郎。他に7人の狂人たち。


  大正15年9月10日。九州帝大、精神病学教室所管、解放治療場。

実験者・正木敬之。被験者・呉一郎。他に9人の狂人たち。


  大正15年10月19日正午。九州帝大、精神病学教室所管、解放治療場。

死亡・せた少女(浅田シノ)、舞踏狂の少女(おの娘)。死因・ともに頭蓋骨粉砕骨折。重傷・甘粕藤太あまかすとうた毬栗いがぐり頭の小男、ひげだらけの大男。被疑者・呉一郎。


  大正15 年10月19日21時前後の一時間。九州帝大、精神病学教室所管、解放治療場、附属病院「せいひがし・第一病棟」第六号室。


  大正15年10月20日15時頃。九州帝大裏、筥崎水族館裏手海岸、馬出浜。

死亡・正木敬之。死因・溺死。状況として、鉄製の狂人用手枷てかせ足枷あしかせを以て緊縛後に投身の可能性。


  大正15年10月20日18時頃。姪浜、呉家および如月寺。

死亡・呉八代子。死因・焼死。状況として、錯乱興奮後に自宅放火。延焼した菩提寺の猛火に飛び込み焼死の可能性。




注解

(9)ドグラ・マグラの作中には、呉一郎の母・千世子が16歳(満年齢)当時に通っていた裁縫学校として「翠糸すいし女塾」なるものが登場する。この裁縫塾の名として冠せられた「翠」は雌のカワセミの意。また、カワセミの羽根の色のように美しく鮮やかな緑色の意もある。

 現在の福岡市博多区大博たいはく町大浜には、江戸期から明治期にかけて福岡最大の遊里の郷として三百年栄えた旧・柳町やなぎまちがあった。ここには明治15(1882)年、「翠糸学校」が開校されて、当時、遊郭で働く芸娼妓たちが習字・算盤・茶の湯・生け花・・礼儀作法などを学んでいた。芸者や娼妓らに基礎教育を与えた遊郭は当時珍しく、福岡の他には富山県富山市の「女紅場」と福井県三国町の「歌川学舎」の二校があるのみだった。

 もともと博多の大浜にあった柳町は、九州では長崎の丸山や熊本の二本木にほんぎ と並び称された大規模な遊郭街だったが、明治36(1903)年に川ひとつ隔てた近隣に帝国大学が新設されると学生や教員連中の勉学の妨げになるとして、明治42(1909)年から翌年にかけて妓 楼ぎろう曲輪くるわごと3キロほど南の新柳町(現・福岡市中央区清川)へと強制移転させられた(こちらも一方は川だった)。移転先の新遊郭街の入り口には〝春風緑柳飛鳳凰/夜雨青燈引鸚鵡〟と彫られた石門が立ち、その門を入ってすぐ右側には交番と遊郭組合事務所が置かれ、その隣りが二階建て木造校舎の翠糸学校だった。この芸娼妓たちの学校は新柳町が昭和20(1945)年の福岡大空襲で焼失するまで同地に存続した。

(参考文献・リベラシオン№157 公益社団法人福岡県人権研究所)

 これは筆者の推測であるが、夢野久作はこの「翠糸学校」の名から呉千世子が通う裁縫学校を「翠糸女塾」と名付けたのではないだろうかと思う。塾主の子女史の名は、身売りした時の借金(減らない借金)のカタに取られて楼主の暴力と監視のもと〝着飾った娼妓が張見世はりみせという格子の牢獄の中で往来の男たちの視線にさらされてジッと姿〟から、久作が着想したものではなかったかと。「張見世」は、大正5(1916)年までは日本の法律では合法とされていたのである。

 ちなみに、ドグラ・マグラの作中で「翠糸女塾」の所在地とされた水茶屋の地(現・福岡市博多区千代ちよ2丁目)には、明治大正期に柳町とは別の遊里があり、〝満洲帰りの芸者(いわゆる馬賊芸者)〟で人気を博した「水茶屋券番」があった。こちらの芸妓の方が柳町、新柳町よりも格が上とされた。

 余談ではあるが、水茶屋にあった最上級の料亭旅館の「常盤館ときわかん」は辛亥革命前夜に玄洋社が孫文をかくまっていた場所である。そもそも常盤館の前身の若松屋は功山寺挙兵の直前まで筑前勤王党が手配して高杉晋作が潜伏していた隠れ家としても知られる。


(10)千世子が一郎を産んだ松園は、博多の聖福寺とは御笠川を挟んで対岸の位置にあり、現在の県立福岡高校の付近。将来「呉一郎生誕の地」のを設置するときには、福岡高校近辺が望ましい。福岡高校の前身は、旧制・福岡中学で、久作の長男・杉山龍丸の母校でもあった。なお、ここでいう電柱看板とは、その地にゆかりのある人物や史実などを案内する〝電柱歴史案内〟のこと。創業百年を超える博多の老舗額縁店ガクブチてん店主・立石武泰さんが主宰する市民団体ハカタ・リバイバル・プランが、「電柱歴史案内2000本プロジェクト」の一環として現在まで120ヶ所に設置中のもの。都市景観賞広告賞(福岡市)、屋外広告景観賞(福岡県)、手づくり郷土ふるさと賞(国交省)などを受賞。立石さんは、〝エコ・ミュゼはかた博物館〟と銘打って屋根のない博物館ミ ュゼをコンセプトに、博多2000年の歴史を包む〝ミュゼの額縁ガクブチ〟の完成を目指している。


(11)九州帝国大学医学部の第一回卒業式典は明治40年12月12日に挙行されている(出典:『九州大学医学部五十年史』、1953年、九州大学医学部五十周年記念会刊)。

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