第1話 眼醒め
【プロローグ】
当時のこと……ですか、先生?
僕は
でも、大正15年の11月20日のことだけはよく憶えています。
あの日の晩は、とっても月が綺麗だったから……。
それに、推理すれば大抵のことは分かるので大丈夫です。
先生のことも誰だかチャント分かっています。
だから心配されなくてもいいですよ、博士。
……アハハハハ……。
――患者・Iの問診記録より――
【登場人物紹介】
I:『ドグラ・マグラ』を読了後に精神に異常をきたし、自分をドグラ・マグラの主人公「
W:『ドグラ・マグラ』を読了後に精神に異常をきたし、自分をドグラ・マグラの作中人物「
【第1話 眼醒め】
≲≲≲ 柱時計 ≳≳≳…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
I:
W:……ムニャムニャ……
ムニャムニャムニャムニャムニャ…………ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ
……ん? ……オヤ?
I:ああ、お
W:………………。
I:おはようございます、
W:ハテ?
I:どうです? この僕が誰だか、おわかりですか?
W:
I:アハハ……。
W:…………
I:そうです! 大正15年7月7日の
でもまあ、そんな昔のことはともかく、この「私」のことを忘れずにいてくださって良かった。
皮肉抜きで、再びお目にかかれて嬉しいですよ!
W:あのう……
I:ここは、九大医学部が所管する精神科病棟の第七号室ですよ、教授。若林教授がお眼醒めとあれば、僕もせっかく筆を執とり始めたこの「書き物」を、しばし脇に
W:……九大医学部⁉
I:違いますよ、若林教授。「帝国」は余計です。九州帝国大学ではなく、九州大学の病
W:……???
I:チョット信じられないかも知れませんが、かつての大日本帝国は今では「日本」という国号で呼ぶのが普通なのですよ。ですから、ここ九州の国立大学も「九州大学」というサッパリとした名称に改まっているのです。
まあ、僕らが見知っていた大正時代からはズイブンと時間が経ちましたからねえ……。戸惑われるのも仕方ないのでしょうが……。
W:何やら、病院の建物の様子や病室内の機器、それに
I:エエット……実は今は大正ではなく、令和という時代なのです。
W:れい…わぁ……? アァアアア 年号がァ‼ 年号が変わっている‼
I:教授に分かりやすく計算し直していうと、今は大正110年です。
W:まただ‼ また‼ 私がこんな所に閉じ込められている間に アァアアァ‼
I:ああ……どうやらイロイロ思い出してこられたようですね……ヨカッタ。僕らが見知っていた大正時代から、モウかれこれ95年の歳月が過ぎていますからね。そりゃあ、元号も、二回や三回は変わりますよ、教授。僕は若林教授より少しばかり早くこちらの世界で眼醒めたみたいなので、令和時代について多少は
W:…………。
I:そんな中でも、
W:…………カツドウ? 活動……写真が、どうかしたのですか?
I:驚かないで下さいよ、若林教授。なんと、あの正木博士が「
W:なんですと‼ 正木先生が……、
映写致しまする器械は、最近、九大、医学部に於お
きまして、眼科の
……などと、「トーキ
I:ハイ、その通りです。夢のようでしょう⁉ さらに、電話も一家に一台どころか一人一台で
さらに、さらに、もう一つ驚いたことには、僕らの生きていた世界は、どうやら
W:幻魔怪奇探偵小説ですと……。あの「ドグラ・マグ
「ドグラ・マグラ」ならばあの当時、九州帝大精神病学教室の標本室に入院患者の手書き原稿が保管してありました。ですから、大正15年には私は読み終えておりましたが、貴方様は……あの当時はまともにお読みになっておられなかったはずでは?
I:確かにあの当時、僕は「ドグラ・マグラ」を通読してはいませんでしたが、コッチの世界で眼醒めた後に、改めて夢野久作の『ドグラ・マグラ』を全文読んでみたのです。こちらの世界では『ドグラ・マグラ』は、全国の図書館はもちろんのこと、普通に日本各地の書店の棚に並んでいて、僕らが生きたあの
W:三大貴書、文庫本……ちょっとナンのことやら、私にはよく分かりませんな。
I:ですから、若林教授が読まれたドグラ・マグラは
W:要は、同じ標題のドグラ・マグラでも作者が違うということですか?
I:ハイ。その通りです。
W:標題が同じということは、書かれている内容も同じなのですか?
I:僕は、九大の入院患者が書いていた方の「ドグラ・マグラ」をほとんど読んでいませんから、そこは何ともいえないのですが、その
W:流行の映画……で御座いますか? ロンチェニ
I:もちろん! 只今、絶賛上映中の人気アニメ映画『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』は、きっと教授のご期待を裏切らない映画作品のはずですよ。本作品はその余りの人気ぶりから一種の社会現象となっていて、映画上映を記念して劇中に登場する蒸気機関車と同じ「無限」のヘッドマークを付けた「無限列車」仕立ての臨時列車〝SL鬼滅の刃〟が博多駅に到着した時には、鬼滅の
W:博多駅のプラットホームに蒸気機関車が、ですか? 95年の歳月を経ておれば鉄道技術も少しは進歩しておるかと思ったのですが、博多はやはり、相も変わらぬ帝国辺境の街といった処ですか……。せめて九州の中心都市・熊本ならば、電気で走行する鉄道車両も夢ではなかったのかも知れませんが……。
I:もう、説明がイチイチ面倒なので……、鉄道や博多に関する若林教授の誤った認識はとりあえずはそのままでも結構です。今から街を出歩いてみれば、「百聞は一見にしかず」でしょうから。
W:それでは、これから
ああ、なにやら
I:ああ、ご存知なかったのでしたね。中洲の映画館はもう、大洋映画劇場の他はあらかた
では、教授。まずは図書館で夢野作品から
W:はあ……。まあ、行き先は
I:それじゃあ、まずはコレを付けて下さいな。この令和の世界では、コレがないと図書館ひとつ入館できない
W:コレとは?
I:決まっているじゃないですか、マスクですよ、マスク! 令和の現在では、大正時代に
W:左様で御座いますか……。令和の未来都市も、
I:まあ、福岡は大陸に近いですからね。たぶんこれも、
W:……腐
I:イヤ、なんでもないです。さてと……ゴホン!
なお、今日の若林教授のスケジュールは、あくまで夢野久作の主立った作品の読破が第一で、映画鑑賞はそのあとのお楽しみですから、どうぞその点は覚悟しておいてくださいね。それでは、今から例の九大医学部の正
W:わかりました。これから
I:またまた! 違いますよ~。天神町駅は今ではスッカリ建て替わって西鉄福岡天神駅になっていますし、その隣りにあった県立図書館なんて、
そういった訳で、県立図書館は元々あった天神町から、
W:貴方様が何を云われておるのか、私奴にはサッパリ訳が分からないのですが……。
I:そうかあ……そうでしたね。若林教授に分かりやすく説明するためには何ていえばいいか……。
そうだ、
W:まあ……。それならば、何とか…………。
I:よ~し。では問題ないですねッ! 外出許可は僕がナースステーションで取りますから、それから新生・福岡県立図書館まで出発進行です‼
≲≲≲ 数時間後 ≳≳≳
I:……サテと、お次は映画館ですね。
ときに教授、今しがたまで利用された令和時代の福岡県立図書館のご感想は如い
か が 何でしたか?
W:思っておったよりも古めかしい感じと申しますか……。でも、マア、それはイイでしょう。
ところで……貴方様は私が夢野作品を読破しておる間にナニをなさっておいでだったのですか?ずうっと3階の郷土資料室に
I:マア、ちょっとした調べ物ですよ。あそこには世界に二つと無い貴重なお宝が眠っていますからね……。病院の院長先生に紹介状を書いていただいておりますので、今日も資料室の書庫から引っ張り出してもらって拝見していたのです。
W:左様で御座いましたか……。
I:ところで
W:その件につきましては、両者ともに大変な分量の物語ではありましたが、おそらく……。
I:……おそらく?
W:一言一句……マッタク同じでした!
注解
(1)めざめる(自下一)には「目覚める」「眼醒める」の表記があるが、本書では一日のうちで最初に目をさました場合は「眼醒め(る)」とし、同日中で二回目以降に目をさました場合には「目覚め(る)」として、両者の表記を区別する。
(2)現在の九州大学病院(通称、九大病院)は、戦前の九州帝国大学医学部附属医院の流れをくむ大学病院。時代が移り名称や建物こそ変わったものの、九州大学医学部ともども「
(3)発声映画は、映像と音声とを一致させて映写する映画。対義語は、サイレント(無声映画)。
(4)『 』(二重カギ括弧)で囲まれている前者は夢野久作著『ドグラ・マグラ』。「 」(一重カギ括弧)で囲まれた後者は『ドグラ・マグラ』の作中に出てくる「ドグラ・マグラ」。この作中作「ドグラ・マグラ」の筆者は九州帝大の首席合格者だったが入学式の5日前に発狂し、同大学精神病学教室の附属病院に入院していた患者。
若林鏡きょうたろう太郎の説明によると、作中作「ドグラ・マグラ」の筋書きは、筆者の精神病患者が自分自身をモデルにして、正木
(5)福岡の
石村萬盛堂は、店の前が博多祇園山笠〝追い山〟のゴール地点。また、ホワイトデー発祥の地、芸能界に入る前の小松政夫氏が働いていた製菓店としても知られる。
(6)ロンチェニーことロン・チェイニーは20世紀初頭の映画俳優。サイレント映画時代のハリウッドの名優で、「千の顔を持つ男」と評された。『ノートルダムの傴僂男』や『オペラの怪人』のファントム(怪人)ことエリック役などが当たり役で、当代きっての怪奇スターだった。
(7)宮崎駿のジブリ作品『風の谷のナウシカ』に登場する森。巨大化した菌類や蟲むしたちが生息し、大気は瘴しょうき気とよばれる猛毒に満ちている。その森の中では、防毒マスクがなければ人は5分で肺が腐り死に至るという恐怖の森。
(8)クリミア半島の付け根、アゾフ海西岸にあるアラバト
(9)九州大学医学部と附属の大学病院で兼用されている正門のこと。『ドグラ・マグラ』の作中ではラスト近く(松柏館書店版702頁ページ)で、正午を知らせる大砲の空砲(ドン)の大音響のなか、主人公が大正時代のこの正門から飛び出して博多の街へと
(10)かつて千代の松原の小山には地蔵堂があった。路面電車を通す工事のために移設することになった。大正13年に発掘調査が行われると、地中から狛犬に似た巨大な頭骨が出土した。新しい地蔵堂にはこの頭骨を壺に入れて埋葬し、高僧が「魔除神・高麗犬地蔵」と命名し今日に至っている。
夢野久作はこの実話をもとに「犬神博士」(福岡日日新聞、昭和6年9月~7年1月)の着想を得たともいわれている。作中では「幻術」や「幻魔術」、もしくは「魔法」といった言葉に〝ドグラ・マグラ〟とルビが振られており、幻ドグラ・マグラ魔術使いの少年チイが主人公として登場する。そのような経緯から〝呪術的な用法としてのドグラ・マグラ発祥の地〟とも目されるこの祠は、現在進行中の九大箱崎キャンパス跡地の再開発にともなう道路拡張計画で存続が危ぶまれており、一部の地元の人々と久作ファンの間で保存が呼びかけられている。
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