第8話

 紳士は気炎を吐く俺を一瞥いちべつし、胸に手を当て、慇懃いんぎんに腰を折った。だれもがぽかんとして、彼と俺を見ていた。俺ですら、状況が理解できずに、毒気を抜かれて相手を見つめた。貴族は、俺の目を見て、頭を下げた。平民に向かって。


 もしかして、俺の勘違いだったのか、貴族にだって、話の通じる人間が──


「スティクルデーレ家にゆかりのかたがおいでとは存じませんでした。御無礼をお許しください。後日、正式に謝罪に伺います」

「……っ」


 その名を、よもやこんなところで聞くことがあるとは思わなかった。紳士は呆然とした俺に小さな財布をよこした。


「当面の治療費として、どうぞこちらをお納めください」

「……要らない」

「そう仰らずに」


 無理やり握らされた財布は、見た目よりもずっしりとしていた。馬車は走り去り、残された俺は、足元に落ちた色眼鏡を拾いあげた。暴れた拍子に落としていたらしい。気づきもしなかった。つるは折れているが、ガラスは無事だ。


 馬車に轢かれた親方は、下半身血まみれだったが、周囲の女性たちによる止血を受けて、容態は安定していた。気丈な彼女らしく、玉のような汗を額に浮かべながらも、受け答えはしっかりしている。俺は親方のもとへ行き、周りと協力して彼女を抱え上げ、医者へ運び込んだ。


 背に腹はかえられなかった。親方を救うために、俺は名も知らぬ紳士からの勘違いから来る施しを使い果たした。膝下を切断した親方が、痛みと感染による熱で意識朦朧としているあいだに生じた医者への支払いと、鎮痛薬、熱冷ましの代金、工房が休業する期間の生活費。小さな財布はすぐに軽くなり、空になった。俺のなけなしの矜持も、金とともにすっからかんになった。



 渋った挙句に工房へ行くことを決めたのは、レオナルドのためだ。彼は打算と欲まみれの俺の言うことに素直に耳を傾け、俺を友人として扱い、次の訪問の約束をうれしそうにしていた。貴族のくせに腰が低くて気弱なあの男が、血筋も身分も下の連中に魔法のことひとつで嗤われるのを思うと、単純に腹が立ったのだ。


 全版の紙くらい、いくらだって漉いてやる。ついでに火蜥蜴サラマンドラの血や血清を使って、漉き染めもしてしまおう。わざわざ呼びつけるのだ、それくらい許してもらいたい。


 久方ぶりのアネッタ工房には、俺とジャンのほかには親方しかいなかった。他の職人たちは今日は半休を与えたのだそうだ。親方との会話を聞かれたくなかったので、ちょうどいいが、気まずくもある。


「ご無沙汰しています」


 視線を下げて礼をすると、親方は目尻にしわを寄せてカラリと笑う。


「とんだご無沙汰だよ、アルバ。あんた、たまには紙くらい自分で作んな。何のための技術だい。工房なら、いくらだって使っていいし、なんなら他の内弟子たちのようにメシ食っていったっていいんだ」

「俺はもう、辞めた人間ですから」

「商人が紙漉きしちゃならないって決まりでもあるのかい? いいじゃないか、自分で作れば、好きなようにできる」


 あくまでも中の人間として話しかけてくれる親方に、うっかりと涙腺が緩む。


「今日は、工房をお借りして、実験しにきただけです。経費はお支払いさせてください。ジャンの手も借りたいので」

「あたしの手は借りないのかい?」

「──お借り、してもいいですか?」


 泣きそうになりながら申し出ると、親方は出来の悪い子どもにするように苦笑いで手を伸ばした。頭を撫でようとしたのだろう。届かない手を見て、俺は膝を折り、その場に屈んだ。椅子に腰掛けたままの親方の、職人の指が銀髪を梳いていく。


「あんた、ホントきれいな髪だよねえ。あたしは、あんたの目の色も大好きだよ、明け方の清々しい空の色だ」

「──。」


 返事もできなくなって、くちびるを引き結ぶ。俯いたまま、しばらく俺は、無くなってしまった親方の足のあたりを見つめていた。二十五にもなって、情けないこと、このうえない。


「──親方。今日は、ひとつ試してみたいことがあるんです」


 取り出した火蜥蜴の血清を手に、鼻声でここに至る経緯の説明を始めた俺の声に、親方とジャンは真面目な顔つきになった。職人の顔だ。


「つまり、漉き船のなかに血清か血を入れて、漉きこんでみたいってことだね?」

「効果がわからないうえに、火事の危険があるってなると、賛成はできないな。干しているあいだに発火するかもしれないし、洗ったってわずかに漉き桁や槽に残るかもしれないだろ?」

「槽は代わりの桶でもなんとかなるが、魔獣の血なんて、素手で触れて平気なものなのかい?」


 次々に出てきた疑問点に、目が覚める思いがした。漉いた紙は、圧をかけて水を搾り、風で乾かす。そのときの発火の可能性は、まったく考えに入れていなかった。

 それだけではない。水で溶かした繊維を漉くには、漉き桁の繊細な調節が必要だ。ダニロに言われたとおり手袋をした状態では、うまくできるかわからないし、綿や羊毛の手袋では、水に溶かし込んだ血とまったく触れないなんて、無理難題だった。


「試しに紙に塗ってみて、危険がなく効果の出る濃度を探るほうが安全だろうな。漉き染めをするにも、染料の濃度は絶対に要る情報だ」


 さすがは兄弟子。ジャンはものがよく見えていた。俺は魔法陣の威力を増すことばかり考えて、紙漉き職人としての視点をすっかりと見失っていたらしい。


「わかった。じゃあ、今日は全版を漉いていくだけにして、実験は無しにする」

「そうだな、それがいい」


 ジャンがうなずいて、打ち合わせは終わり、火蜥蜴の血と血清は持ち帰りになった。色眼鏡を外し、前掛けを締め、原料の繊維を満たした槽の前に立つと、気持ちがしゃんとする。この仕事が好きだと言う思いを押し殺して、漉き桁を手に持つ。


 紙を漉くあいだは、無心だった。漉いて、水を切り、ジャンに桁ごと渡す。ジャンが布のうえに桁をひっくり返して、紙を外し、桁を戻す。それをまた、槽の溶液に沈める。失敗も見込んで、必要な枚数より多めに作る。親方と三人で、黙々と作業して、脱水まで終えて、やっと声が出る。


「衰えてないじゃないか。明日から復帰したらどうだい」

「勘弁してください。苦労して、ようやく客がつきはじめたところなんですよ」


 話が弾む。乾燥を残して、すべてが完了すると、気持ちは満たされて、からだには快い疲労感があった。

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