第2話

 出かける旨をジャンに告げて追い立てると、店じまいをする。貴族の邸宅に向かうには、身支度が必須だ。訪問のための一張羅はそれだけで財産になるので、他人には仕舞い場所も教えていない。奥の住居でさっと着替えをすませ、髪に櫛を通す。色眼鏡はそのままだ。顧客には、「目が悪く、日差しに弱い」と言ってあるので、以来気にされたことがない。


 適当な箱に藁を敷き詰めてから、ミラを並べる。麻袋入りのままよりは、多少見栄えがするだろう。あとは、新製品の文具のひとつもあればいいのだが、あいにく文具の世界には目新しいものは生まれにくいし、求められてもいない。貴族というのは、古くさくカビの生えたような伝統をありがたがるものなのだ。


 俺は窓ガラスを鏡代わりにして、タイを整え、最後に靴を履き替える。いつもの商品を少しとミラ入りの箱を手に、店の裏口から外へ出て、なるべく人目の多い表通りを急ぎ足で行く。追い剥ぎに遭ってはかなわないので、帰りが遅くならないうちに用を済ませて戻らなければいけない。


 一区画進むごとに、町並みも石畳も周囲を歩くひとびとの服装も変化する。有り体に言えば、清潔で金持ちっぽくなる。ちり紙ひとつ落ちていない街路まで来れば、犯罪に巻きこまれる可能性は激減する。貴族の邸宅の建ち並ぶ区域で、わざわざ平民相手に事を構えるバカはいない。どうせやるなら、貴族の子どもを身代金目当てに誘拐するのがよいだろうが、まあ、大金を前にウハウハする暇も無く確実に捕らえられて死罪を賜ると思うので、勧めない。


 ファボローゾ家は、本家筋こそ侯爵家だが、今日向かうほうは分家筋なので、子爵位だったはずだ。しかし、本家の坊ちゃんの出来がよろしくないとかで、優秀な自分たちの息子を跡取りとして本家に送り込めないかと虎視眈々と狙っているのだと、先日、洗濯女が教えてくれた。そういう鼻持ちならないお家柄なのが影響しているのか、分家のファボローゾ家の屋敷は、高位貴族の邸宅が集まる中心区画からは、ぎりぎり外れたあたりに位置していた。


 表門から入れるのは貴族と、その客人だけだ。いつもどおり裏門にまわって警備の青年に声をかけ、営業許可証を見せる。難なく中へ入って、まず、荷物になるミラの用事を片付けることにする。厨房のほうへ行くと、顔見知りの料理人がちょうど戸口から出てくるところだった。


「よぉ、調子はどうだい?」

「悪くはないが、格別よくもないな。今日も、ただのご機嫌伺いさ」


 ミラの箱を掲げてみせると、彼は興味を引かれたのか近寄ってきた。俺はここぞとばかりにホラを吹く。


「いいミラを見つけたんだ。皮がうつくしい赤で、しかも、見た目だけでなく、味も良い。みずみずしく甘いし、酸味もほどよいんだ。こちらのご主人にお納めしようにも、直接お持ちできる身分はないだろ? 従者サン侍女サンたちも気位が高くて、ろくろく話も聞いちゃくれないしさ。だから、こっちに回ってきたってワケさ」


 この口上に、彼は吹き出して、箱の中を覗きこんだ。ひとつ手に取り、ためつすがめつする。においをかぎ、うなずく。


「確かに良い品だ。で、どこの店がつなぎをつけてくれって?」


 打てば響くような返答に、ジャンから聞いた店名と場所を伝え、本題に入る。


「悪いが、ミラの件を報告がてら執事どのに声をかけてくれないか? 銀髪に色眼鏡の文具店の者がご機嫌伺いに来たといえば、わかってくれるはずだ」

「少しかかるが、待てるか?」

「いつものことだよ」


 笑って返して、俺は戸口を少し離れた。出入りの邪魔になると考えただけだったが、ちょうどよく木陰に入った。それも、館の上階の窓からは見えにくい立地だ。ぼんやりとするには、うってつけの場所だった。


 漫然と庭木を眺めたり、足元の芝をつまさきで撫でつけたりしているうちに、妙なモノに気づいた。向こうの端で、むき出しの地面を棒で引っ掻いている男がいるのだ。年の頃は二十代そこそこ、中背の細身で、肌に日焼けも土汚れもないから、庭師では無さそうだ。


 ──あ! もしかして、あのあたりの芝は、もとから剥がれていたのではなく、彼が剥がしたのか?


 使用人しか通らない場所とはいえ、貴族の庭の景観を破壊するとは勇気がある。いったい、何をしているのか。鎌首をもたげた好奇心を奥へ押し込む。関わり合いになって、とばっちりを食うわけにはいかない。早めに退散しよう。こころに決めたそのときだ。例の男のほうから、光るものが飛んできた。


「ほわっ……っ?」


 思わず間抜けな声が漏れる。足元で弾けた光の球の威力に吹き飛ばされて、地面に腰を打ちつける。痛みより先に、一張羅が破れたのではないかと不安になった俺のもとへ、例の棒切れ男が走り寄ってきた。


「申し訳ありません! お怪我はございませんか?」


 返事をするには、情報が少なすぎた。男は身なりのいい使用人のような風体だが、厨房の裏口近くに立つ平民の俺に向かって、ばか丁寧なことばづかいで話しかけてきている。おかげで身分が迷子だし、なんだかよくわからない光の球をすっ飛ばしたり、庭を棒切れで引っ掻きまわしたりする変人でもある。うかつに答えて、何かに巻き込まれたくはない。あえての沈黙を選択した俺を見て、男はあわあわと焦り出す。


「うわあ、どうしよう! 魔力に当てられちゃったのかなあ? もしもーし! 大丈夫ですか?」

「まっっったく問題ございませんっ! このような卑小な身にまで過分なご配慮を賜りまして、恐悦至極に存じますっ!」


 食い気味に述べて、その場に平身低頭する。魔力! 魔力って言った! さっきの光の球、魔法だったのかよォォ、初めて見たッ!


 脳内で大騒ぎしながら、ひたすら頭を下げる。魔法を使うということは、相手は貴族だ。まさか貴族が屋敷の裏のこんなところで魔法をぶっ放すとは思いもよらなかった。敷地の門をくぐったら、気を抜いてはいけなかったのだ。

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