第2話 ある朝焼けの日

 夜の間に冷まされた空気が揺蕩っている。

 日が昇れば、また一気に気温が上がり、息をするのも熱く感じるのだろう。

 けれど今はまだ、夜明け前。

 庭園までの道を星空の下、ゆっくりと歩く。

 夜の明けきらぬ、こんな早い時間に、訪れる人は誰もいない。


「すぅー、はぁー」


 ゆっくりと深呼吸をする。

 花の香りを胸いっぱいに吸い込み、吐き出すと、胸のつっかえが取れたような、そんなスッキリとした気持ちになった。

 時々、こんな風に、朝の早い時間に散歩をしている。

 日々、予定の少ない私としては、運動も兼ねての散歩だ。

 後宮に来た当初は寒くて無理だったけれど、今の時期は、暑い昼間よりも、快適な時間帯だ。

 道の両側には、インパチェンス、センイチソウ、マリーゴールド、トレニアなど、色とりどりの花が咲き乱れている。

 花を眺めながら歩き、可愛らしい花を見つけると、細かく観察したり、香りを楽しむ。

 と、道の側に日日草の白い花が、誰かに踏まれて、白い花びらを散らしていた。

 しゃがんで、綺麗に埋め直す。

 根が上手く張れば、また花を咲かすことが出来るだろう。

 誰にも気づかれずに踏まれたままだった日日草。

 白い花びらは、泥がこびり付きシミのように茶色くなっている。

 まるで、自分の末路を見ているようだ、と思った。

 今は、どんなに綺麗な恰好をしていても、ここを出た後は、全てがなくなってしまう。

 また、メイドとして働ければいいけれど、お金に目のない父だから、いい値でどこかの後妻として売られる可能性もある。

 はぁ、と溜息が零れた。

 ここでの毎日があまりにも穏やか過ぎて、その後にやってくる現実を思うと重苦しい気持ちになる。


「大丈夫ですか?」


 どれくらい、しゃがんでいたのだろう。

 突然、後ろから声をかけられた。

 振り向くと、アルバン・ケストナー侯爵が立っていた。


「あっ」


 誰もいないと思っていたので、突然の彼の登場に驚き、上手く言葉が出てこない。


「気分が悪いのですか?医務室へお連れしましょうか?」


 手を膝に、心配顔で私を覗き込んできた。


「いえ、大丈夫です。わたくし、道を塞いでいたのですね。申し訳ございません」


 頭を振って立ち上がり、頭を下げた。

 彼は王太子殿下の護衛の任務についていると言っていた。

 こんな時間に彼がいるということは、殿下が思う女性の部屋を訪れていたと考えるのが普通だろう。

 だとすれば、今の私の存在はとても邪魔なものとなってくる。


「失礼いたしました」


 私は何も見ていない。何も知らない。

 そういう体でやり過ごそうと、その場を立ち去ろうとした。


「殿下に付き合って、古文書を読み解いておりましたら朝になってしまいました。殿下の人使いの粗さには、骨が折れます」


 侯爵は、首を左右に曲げてコキコキと肩を鳴らす仕草をした。

 急な話の展開に、どう答えればいいのか分からず、彼の顔を見た。


「古文書は、字体が古いので読み解くのに時間がかかるんです」

「・・・はい・・・」

「1つ1つ調べながら、今の文字にして書き写していくのですが、殿下ときたら、喉が渇いた、とか、小腹が減った、など色々と言われるので、なかなか終わらないのです」


 促すようにゆっくりと歩きだした彼に合わせて、ついて歩く。


「やっと終わって帰れると思ったら、もう朝になっていました」


 両手を広げ、空を見上げた。

 薄っすらと空が白みかけ、沢山見えていた星が消えかかっている。


「大変、だったのですね」

「でも、いつものことなので、もう慣れっこなんです」


 屈託のない笑顔に、こちらも頬が緩む。


「古文書を読み解くなんて、凄いですね。ケストナー侯爵様は、語学がお詳しいのですね」

「もともと家に古書が色々あったので、古い文字は子供の頃から見慣れておりまして、おのずと。語学は、それ程詳しいくはないですが、友好国であるオステリア帝国へ留学をしていましたから、セルシア語、アシタ語ぐらいなら話せますよ」

「まぁ、凄い!」

「いや、普通ですよ。これくらい」


 感嘆の声を上げて顔を見ると、照れくさそうに笑い返された。

 高い背丈に引き締まった体躯、少し長めの銀髪に切れ長の灰色の瞳、そんな精悍な顔立ちの彼なのに、目元を細めて笑う、その顔がとても優しくて、知らず知らず頬が赤くなってくるのを感じた。

『私ったら、恥ずかしい。平常心、平常心。もう夜も開ける、ご迷惑になる前に早く戻ろう』

 両手をギュッと握り、口を開きかけた時。


「ナディア様は、何をなさっていたのですか?」


 問われた言葉に、ドキリとした。

 思えば、こんな早い時間に庭園を1人でうろつくなど、不振でしかないだろう。

 しかも、彼は殿下の護衛役、指摘されても当然だ。


「あの、わたくしは、」


 すぐに本当の事を言えばいいだけなのに、いつも1人だと伝えることが、何とも恥ずかしく、言葉に詰まってしまった。


「よく、この時間に散歩をされていますよね」


『あぁ、もう全てご存じなのね』

 私の浅はかな思いなど、とうにお見通しなのだ。


「申し訳ございません。他意あってのことではございません。ただ、日中刺繡を刺していることが多いものですから、このような時間に散歩をしてしまいました。以後は気をつけますので、お許しくださいませ」


 深々と頭を下げた。


「先ほど、花を埋め直していましたよね」

「あれは・・・、はい」


 花を荒らしたと誤解されたのだろうか、違うと、言いたかったけれど、どう言いつくろったところで結局、言い訳にしかならない。

 子爵家では、言い訳をすると、夫人によく怒鳴られていた。

 エスカレートすると扇で叩かれるので、嵐が過ぎるのをジッと耐えて待っていた。


「いつまで、そうしているのですか?私は、咎めているのではないですよ」


 思いがけない言葉に、おずおずと頭を上げた。

『そうだ、ここは子爵家ではない。こんな私でも、妃候補だった』


「あの花が好きなんですか?倒れた花を、わざわざ埋め戻されていた」

「え?いえ、あの」


 誤解されていなかったことに安堵しつつも、ずっと見られていたとは思っていなかったので、驚いてしまった。


「刺繡のモチーフですか?」

「は、はい。それもあります。でも、まだ咲けるなら、咲かせてあげたいと思いました」

「そうですか」


 と、周りが一瞬にして白い光に包まれたように明るくなった。

 見上げると、遠くに見える山々の間から、太陽が顔を出し、白みがかっていた空に、まばゆい光が広がっていた。


「そろそろ、部屋に戻りましょう」

「はい」


 そう頷き、彼を見ると、光に照らされた彼の銀髪は金色に染まり、浮かび上がる輪郭は造形物のように端正でとても綺麗だった。

 その美しさのあまりジッと凝視してしまい、慌てて下を向いた。

 これまで男性の顔を凝視したことなどなかったので、しかも男性を綺麗と思ってしまうなど、恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ。

 クスクスと、頭上から降ってくる微かな笑い声に、

『怒って、おられない?』

 と、思った。

 ドキドキする胸を沈めるように胸に手を当て、歩き出す侯爵の後に続いて歩くと、


「いつも花のモチーフは、ここで?」


 前にいたはずの侯爵は、ゆっくりと私の歩調に合わせて隣を歩き、話しかけてきた。


「は、はい。ここには色鮮やかな綺麗な花がたくさんあるので」

「デッサンをして?」

「いえ、見たままを、その、自己流ですから」


 刺繡は令嬢のたしなみの1つだ。

 でも、一般的なご令嬢がどんな風に刺繡をしているのか、私は知らない。


「貴方の侍女の話では、とても素晴らしい出来栄えだと言っていました。一度、見てみたいものですね」

「そんな、お見せできるほどでは、ありません」

「そうですか? では、私の手袋に名前を刺繡してくれませんか?」

「名前? ですか?」

「はい。私は、今、殿下の護衛を仰せつかっておりますが、近衛騎士でもあります。日頃の訓練の際、手袋を付け替えることも多く、無くしてしまうのです」

「・・・は、い・・・」


 何故、私が?という思いしかない。

 侯爵家ともなれば、名前の刺繡などすぐに刺してもらうことなど造作もないこと。

 ましてや、私のような者の刺繡より、もっと素晴らしい出来栄えの刺繡が施されるだろう。


「お、これは有難い。お受けして下さいますか」

「あ、これは違って、あ、そうではなくて、いえ、あの」

「クククッ」


 答える言葉にあたふたしていると、侯爵は口元を押さえ、可笑しそうに笑った。

 見上げると、


「これは、失礼したしました。あまりにも、お可愛らしいので、つい」


 破顔しながら、私に言った。

 一瞬、言われた言葉の意味が分からなかった。


「あ、えっ、そんなこと・・・、あの、あ、ありがとうございます?」


 顔が熱くなって、なんと答えればいいのか分からず、でも、褒めて頂いたお礼をと思ったけれど、これは冗談に違いないと気が付いて、語尾が『?』となってしまった。

 すると、また侯爵は笑い出されてしまった。

『あぁ、失敗だわ。私にそんな言葉がかけられるはずないのに。冗談を冗談と返すことも出来ないなんて』


「ナディア様は、本当にお可愛らしい」


 優しく微笑みながらまた冗談を言われるので、

『今度は失敗できない』

 ニッコリと自然な微笑みを返すことが出来た。

 ホッとするのも束の間、


「そのお顔も素敵ですが、私は、先程のお顔の方が、とても好きですよ」


 などと、言われるので、また顔が熱くなってしまった。

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